第39話 勝手なことばかり言わないで
イレイナの表情は明らかに思い詰めていて、対してベルナーレはそんな彼女に困惑しているようだった。
口を挟んでよいものか迷っているうちに、外から扉が激しく打ち叩かれる。
「イレイナお嬢様」
「……入って。どうしたの」
ベルナーレから顔を逸らしたイレイナが扉の外へ呼びかけた。
すぐに開かれた扉から、入り込んできた冷たい風が目に染みて、目を細めてしまう。
入って来たのは、一緒に屋台にイレイナを助けに入った男のうちの一人だった。あの二人はどちらもイレイナの仲間だったらしいと悟る。焦燥を帯びた彼の頭上には、金色を孕んだ夕間近の空が覗いていた。
「それが……裏手から急に煙があがったと下の者から連絡が」
「燃えているの? そんなものなかったはずでしょう」
「古いがらくたばかりでしたし、なかったとは思うのですが。水をかけに先に何人か向かっています。念のため離れる準備を」
「わかったわ。気をつけて」
男を送り出しながら部屋の外に出たイレイナが煙を確かめるようと手すりに捕まって下を覗き込んでいる。うまく様子が見えないのか、それとも場所が離れているのか、さらに身を乗り出した彼女の腕をベルナーレが引き掴んだ。
「様子なら確認してくる」
「何言っているの。ベルはもう行って」
「無理だよ。置いていけない。すぐに戻るから」
「ベル!」
イレイナが声をあげる。それでもベルナーレは彼女の制止を振り切ったらしかった。
私の場所からは、ベルナーレの姿が見えなくなって、代わりに駆けていく足音がする。下に続く階段もそう遠くはない場所にあるようだった。
私がいるせいで追いかけたくても離れられないんだろう。部屋の外で、イレイナが彼が行った方向と私を惑うように何度も見比べて、結局彼女は唇を噛み締めると、私の方へ戻ってきた。
イレイナさん、と私は表情をなくしたイレイナに呼びかける。
「あなた、一体何がしたいの。どうして陛下が出てくるの」
イレイナたちの会話を聞く限り、この状況は誰に命令されたわけでもなく、彼女自身が計画して動いた結果らしかった。むしろここにベルナーレが来たことは彼女にとっては誤算でしかないんだろう。
ただ、彼女がチュエイル家の二人を逃したいだけなのなら、私を捕まえるなんて騒ぎを起こさなくても、さっさと逃してしまえばよかったように思う。
チュエイル家がこの地から手を引いてくれるのなら、ロウリィとの約束だってその時点で終わるはずだ。
イレイナは自嘲するように口の端をあげた。
「カザリア様は、随分と落ち着いていられるのね」
「解放してくれるならしてほしいとは思っているわよ? せめて普通に座らせるくらいはしてほしいって」
相変わらず床に寝転んだ姿勢のまま、私はイレイナを見上げて息をついた。
「……ただ、私がどうにかなったところで、チュエイル家と交わした
それに、と私は、私から一定の距離をとった位置から動けないでいるイレイナに対して笑ってみせる。
「あなたの言う通りなら、明日の朝までは大丈夫なんでしょう? 私が脅迫の材料に必要だものね」
「脅迫って……」
「イレイナさんがしているのはそういうことよ。自覚だってあるはず」
「そうね……あるわ」
イレイナは自身を落ち着かせるように目を閉じ、長く息を吐いた。
「ねぇ、カザリア様。お願いだからここから出て行かないで。協力して。絶対にもとの場所に帰してあげるから」
「できない相談だわ。と言ってもさすがに逃げ出せそうにはないけれど」
「それは、そうよね」
ちらと私の格好を見下ろしたイレイナが、苦笑する。
「でも、どうしてもベルたちの安全の保証がほしいのよ。逃げられたら困るのよ。カザリア様——あなたが交渉の材料に必要なの」
「
尋ねると、イレイナは驚いた顔をした。
「どうしてテズエラだって?」
「だって毛織物を扱うのなら、あなたの家の本拠地はテズエラでしょう。有名なのはあちらだし、ここではとんと聞かないもの」
ほろ苦く頷きながら、イレイナは壁に背を寄せた。そのままずりずりと壁を背で擦り下がって、やがて床に座った彼女は膝を抱え込む。
疲れたように膝上に右頬をつけたイレイナが私を見つめてくる。彼女の目線が低くなった分、表情がよく見えた。決意を静かに湛える彼女の双眸は、けれどどこか投げやりにも見えて、印象の差異に戸惑ってしまう。
「カザリア様。私は、逃げるだけじゃなくて、これから先ずっと続く保証が欲しいの。ベルとおじ様の身の安全を約束してほしいの」
「ずっと?」
「そう、ずっと、よ。カザリア様も聞いているでしょ。期日までにあなたの旦那を殺せたら領地はチュエイル家の元に返ってきて、だめなら諦めて手放すって。おじ様とあなたの旦那が交わした約定」
「ええ」
「そんなの……どちらに転んでも割りを食うのはベルたちだって思わない? もし殺せたなら本当に領主に戻してくれるって? そんなこと王様が本当に許してくれると思う? あなたの旦那が生き残った時は、チュエイル家はどうなってしまうのか……カザリア様、あなた何か聞いていたりする? 無罪放免にしてくれるの? そんなわけないじゃない。だって、おじ様も、ベルも、チュエイル家が領主の座を追い出されてから何度も何度も、王様に任命されてやって来た領主の命を狙ってしまった。脅してしまった。あなたの旦那にまんまと嵌められて約束しちゃったせいで、自分たちがやったって公に認めてしまった。王様に逆らったらどうなるか、私にだって思いつくのに」
王様に殺されてしまう、と必死に婚約者に訴えてたイレイナの声が蘇る。
——きっともうここに送られてくる役人はこれで最後だと思うので、とあの夜、ロウリィが私に告げた言葉を思い出す。
なら、この土地を平穏に治める役人の代わりに、陛下が差し向けるものは何なのか、きっと考えるまでもない。
「期限が間近に迫って、やっとおじ様がこの土地を離れることに応じてくれたの。無茶な方法だってわかってる。だけど、カザリア様は、どう見たって大切にされているから。カザリア様を引き合いに出せば、折れてくれるかもしれない。静かに暮らすことを、見逃してくれるかもしれない。少なくともあなたがここにいる間は、あっちだって安易にはこちらに手が出せないはず。逃げるための時間の猶予がほしいの」
「なら、イレイナさん。あなた自身は、その後どうするつもりなの」
「全部、私が勝手にしたことだもの。きちんと罪は償いますから。だから、カザリア様。お願いだから、ベルとおじ様を助けて」
「そんなこと……」
イレイナの声はどこまでも切実で、ともすればうっかり引き込まれそうになる。でもどうしたって、私は首を横に振るうことしかできなかった。
無理よ、と正直に吐露すれば、ぎゅっと唇を噛み締めたイレイナの眼光が険を帯びた。
だけど、私だって譲れるものではないのだ。だから、彼女の懇願を真正面から否定する。
「勝手にできない」
なぜなら、私はロウリィがずっとチュエイル家と交わした約束に向き合ってきたのを知っている。
もしも死んでしまった時は、その死を隠して期限を終わらせるよう、この土地を守り通すよう、私に約束させた彼の強さを知っている。
「イレイナさんが考えたことくらい、あの人が考えなかったわけがない。嵌めただなんて、勝手なことばかり言わないで。そんなの……なら、もうその時に捕まえて裁いてしまった方が、ずっと楽だったに決まってるじゃないの。そうじゃないから、今まで頑張ってるんじゃない。じゃなきゃ、一年間なんて、あんなわけのわからない方法で、命なんか賭けられない」
もしもロウリィが死んだその後に、彼が私にどう取り仕切らせたかったかなんて、そんなものは知りたくもなかったから、まだ聞いても見てもいないけど。
勝ちしか許さなかったロウリィが、ただ無意味にこの勝負を持ち出したはずがない、とイレイナの言い分を聞くほど確信してしまう。
「あの人は、あなたなんかより、もっとちゃんと考えてる」
「そんなの! あんたたちに都合のいいことなんて、結局私たちにとっては同じじゃない!」
「何の話か知りませんが、ちょっとお痛がすぎやしませんかねーえ? まったく。うちの奥様に何してくれちゃってるんです」
やれやれ、とでも言い出しそうな口調に割り込まれ、ついの間、思考が停止した。それはイレイナも同じだったようで、「え」と声をあげる間に彼女の腕が後ろ手に捩じあげられる。
「ルカ、ウト?」
「はい。遅くなりました、奥様」
見上げれば、花呼びの日の会場で別れた時と同じ格好のままのルカウトが、いつもよりも憮然とした表情で、イレイナを拘束していた。
「ちょ、いたっ、痛い、離してっ! どうしてここがわかっ、痛いってば!」
「なんで! どうしてルカウトがこっちに来ているのよ! ロウリィから離れて大丈夫なの!?」
「あっちはバノも他の警備のみんなもついているので平気です……って、ああ、もうちょっとうるさいですねぇー」
うっとうし気に眉根を寄せたルカウトは、どこから取り出したのか、混乱して喚いているイレイナを布紐でさっさと縛った上、口に
うぐうぐ、と動けない状態のまま腹立たしそうにこちらを見ているイレイナが信じられなくて呆気にとられる。
そんなことは全く気にならないようで、横たわる私の前で片膝をついたルカウトは、帯剣していた長剣をするりと鞘から抜いた。ぎょっとしている間に私からはよく見えなくなってしまったけど、ぐるぐる巻かれた毛布を縛る縄を、それで切ってくれているらしかった。
「ロウリエは一番安全なところであなたを待っているから大丈夫ですよ。こちらは本当にのんきすぎるくらい何もなかったですからねぇ」
「よかった」
「ちっとも、よくはないですよ。いいですか、カザリア様。ロウリエにとってあなたがどれだけ価値があるのか、あなたはもっと正しく理解すべきです」
淡々と落ちてきた強めの声音に、私は「そんなの」と、床の毛布を見つめたままぐっと息をつまらせた。
「……もう、とっくにわかってる」
「なら、心配ばかりしていないで、腹くくってくださいね?」
ぶちり、と縄が切れる音と共に、巻き付いていた毛布が緩くなる。毛布ごと身を起こされ座らされたと思ったら、ルカウトは「こっちもか」とぼやきながら、すぐさま両手に巻かれた縄をほどきはじめた。
「カザリア様。あなたが王宮で誰を守ってきたか聞いているので知っています。あなたがあなた自身の身を守れることも、ロウリエのことを助けてくださっていることも感謝していますし、誇っていい。ですが、あなただって私の主なんですからね。いい加減、あなた自身だって誰より守られることも許容してください」
長身の身体をまるめて縄の結び目と格闘してくれているルカウトを、不思議な心地で見下ろす。
「でも」
「“でも”も“けど”も、受け付けやしませんからねぇ?」
結び目が硬いのか、ルカウトが目の前で憎々しげに舌打ちした。
「今回は完全に私たちの落ち度です。あなたには何の落ち度もない。このような目に遭わせてしまい、お詫びのしようもありません」
「……私が気を抜きすぎていたのよ」
「気を抜いてよいはずの場所だったでしょーが。ですが、今度こそきちんとお連れしますから」
「ええ」
ええ、と繰り返した声は我ながら消え入りそうなものだった。刹那、腕を縛る結び目がようやく解けて、どちらともなく安堵の息が漏れた。
今度は縛られている足に、二人揃って手を伸ばす。
同時に、ルカウトがものすごく苦々しげに眉をあげて、扉の方へ振り返った。
「こらこらこらこら。待っておけって言ったでしょーが、このバカ主!」
あぁ、もう、ホントこの人たちは、というルカウトの悪態を横で聞きながら、けれども、一人でに手が動いてしまった。
「よかった、カザリアさん」と、私が伸ばした両腕ごと抱きとめられる。なのに頭はうまく状況についていけなくて、なんで、と彼の肩越しにルカウトへ答えを求めてしまったから「ほらもう。私が嘘ついたみたいになったでしょーが!」と文句を言われてしまった。
「無事でいてよかった。すみません。こんな目にあわせて」
苦しげな声が、こめかみに擦り寄せられる。
ぎゅうと抱きしめられて、実体のあるふわふわしたあたたかさに、知らず胸が詰まった。うまく声が出てこなくて、彼の服を握り締めたら、安心してくれたようだった。
ほっと息が吐かれた振動とともに、私の頭越しに、彼は「いやだって」と言い返しはじめる。
「ルカをまわせなかったので、自分で行ったほうが早そうでしたし」
「はぁっ!? こら、バノ! こいつ、あっちにも行ったのか」
「面目ないです……設置も起動も領主様が」
「ロウリエ!」
「大丈夫ですよ。皆さんがついてましたし、全員捕まえてもらっています。ベルナーレさんまでこっちにいたのは驚きましたが。いや、でもまさか全員揃って次々あちらに来るとは。よくも悪くも素人ばかりなのは助かりましたが予想外でしたね?」
ぽむぽむ、と確かめるように背を叩かれて、私はぱちぱちと目を瞬いてしまう。
扉の方を見れば、申し訳なさそうな顔をしたバノと、なぜかコックのジルがいつものいかつい顔を破顔をさせて、こちらを覗いて立っていた。
「カザリアさん。痛いところや、気になるところはありませんか」
両肩に手を添えられて、身体を離される。
冬空の色をした薄蒼の双蒼が心配そうに覗き込んでくる。
ずっと早くに理解していたはずなのに、ロウリィだと思った。
ロウリィがいる、と思った。
「カザリアさん? 大丈夫ですか?」
恐る恐る両頬を包まれる。顔をあげられて、顔が歪んだ。
「……髪が、ぐしゃぐしゃになったわ」
せっかくケフィが整えてくれたのに、せっかくロウリィに飾ってもらったのに、どこもかしこもほつれてしまった。
抱えきれない不服を訴えれば、ロウリィの眼差しが、む、と剣呑を帯びた。
「だって、カザリアさん、髪切られているんですよ」
「え。結構ひどいことされているわね、私」
「そうですよ。結構ひどいことされているんで、もっと盛大に怒っていいですよ!」
「でも、どこをどのくらいなの。あんまり変に目立たない場所だといいんだけど」
「どうしてそんなに落ち着いているんですか! 目立つ目立たないとか、そういう問題じゃないですよ!」
「だって、ロウリィが怒るから……」
どんどん冷静に落ち着いていってしまって、心の内の変わりように、誰よりも私自身が困惑してしまう。
「すごく早く迎えに来てくれた、……し?」
「遅いです! 三時間半もかかりました!」
「だ、だって明日の朝だって、聞いて」
「そんなの。あちらが一方的に指定してきた日時を、こちらが守る謂れはありませんよね?」
ははっ、と鼻で笑い飛ばしたロウリィは、どうやら随分と怒ってくれていて。
イレイナが語っていたチュエイル家の仇である憎たらしい領主像にほんのちょっとだけ似ている気がした。
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