第34話 ちゃんと手放してあげられただろうか
「僕が彼女と別れた理由は、彼女の結婚が決まったからです。家を助けるための結婚でした。彼女は僕に助けを求めなかったし、もし助けを求められていたとしても、恐らく何もできることはなかった」
「それは……、どこの家だって難しいわ」
呟くように肯定してしまった先で、ロウリィが苦笑する。
慰めにはきっと届かない。選択できたものの少なさは、ロウリィ自身のほうが、もうずっとわかっていて、いまさら何も変えようがない。そうしてロウリィは過去に折り合いをつけてきたのだと知れた。
教えてくれた内容と、ロウリィが呼んだ愛称から、どの家か、どの人かもあたりがついてしまった。
私たちが家のために婚姻を結ぶことなど、そう珍しいことではない。
ただ、エイミーという愛称になりうるその人は、援助を得るために自分の家よりも格下の家と婚姻を結んだばかりではなく、その婚姻によって、まだ幼い二人の子を持つ二十も歳の離れた人の後妻になったこと——そしてその理由が、彼女自身の家というよりはむしろ、叔母の嫁ぎ先が昔から抱えてきた借金のせいでとうとう首がまわらなくなり、泣きつかれた彼女の父親が肩代わりしてしまったことにあったため、当時、ちょっとした噂の的となった。
「ちゃんと、幸せだって聞いているわ」
「はい。そう、聞いています」
そうして数年前、おもしろおかしく騒ぎ立てられた当人たちは、あらぬ憶測などものともせず、とても仲のよい家族として今現在、知られている。
優しい顔をして笑うロウリィが見ていられなくて、目を背ければ、きらきらと陽光をはじく川面から吹いてきた風が目に染みた。
私が同じ立場だったら、エイミーさんのように、ロウリィのことを巻き込まないよう、ちゃんと手放してあげられただろうか、と不安に思う。
ロウリィのように、自分が後悔することがわかっていて、それでも相手の決めた道を尊重できただろうか、と疑問に思う。
「泣かないで、カザリアさん」
「ごめんなさい。私が聞きたがったのに」
ロウリィが幸せを願った人が、ロウリィの幸せを願ってくれた人が、どうかこれからも変わらず幸福であるようにと祈る。
でもそれよりも、ロウリィのほうがずっと、幸せであればいいのにと願う。
抱えた膝に顔を埋めた私の背を、ロウリィが慰めるようにさすってくれた。
また困らせてしまっているんだろう。
触れ方が、たどたどしく、ぎこちなくて、涙が止まらなくなってしまった。そのどれもが優しくて、離れがたかった。
「私、ロウリィのことが好きよ」
涙と一緒に、気持ちがこぼれ落ちた。
私の背中でロウリィの手が、止まる。
「僕も、カザリアさんのことが好きですよ」
ありがとうございます、と穏やかに返されたその響きは、どうやら私の気持ちなど微塵も伝わっていないことが明らかで、私は膝をぎゅっと抱き締めた。
「私、ロウリィのこと、ちゃんと好きなのよ」
「あの、気にやまないで大丈夫ですよ。もう昔のことですし。無理しないで」
「待って。なんで」
わかってくれないの、と顔をあげる。
見あげれば、ロウリィがぎょっとしていたから、たぶん私は彼をものすごい形相で睨みつけてしまっていたに違いない。
手を伸ばして、ロウリィの首に縋りつく。私を受け止め損ねたロウリィの身体が傾いで倒れ、ぐんと草と土の香りが強くなった。
「私は、ちゃんとロウリィのことが好きだもの! ロウリィは私のことを好きでなくてもいいから、ロウリィのことが好きな私のことを否定しないで」
うまく伝えられない憤りに任せて、請う。
私の好きなようにさせたまま、ロウリィは「え、だって」と呟いた。
「ランスリーフェンさんは?」
「どうして今そっちになるのよ!」
予想外の名が出たことに言い返して、すぐさま、否定し損ねていたことに気づく。エミリーさんのことばかりでいっぱいになって、そちらは完全に失念していた。
「私はちゃんとあなたの妻になると決めて、ちゃんと気持ちに区切りをつけて、ここに来たの」
「でも、毎年——去年だって見ていたでしょう?」
「だから、どうして知っているのよ」
「その、一度、気付いてしまうと目につくので。今年は帰れませんでしたけど、来年は念のため場所を変えたほうがいいかと」
「そんなこと、もうしないわよ。だからもう、どうして。全然、信じてくれないのよ。私が好きなのはロウリィだって言ってるのに」
「え、だって」
また繰り返されそうになった否定を、ぎゅうと抱きしめて封じ込める。
息をのむ音が聞こえた。
「…………本当に?」
「私が好きなのはロウリィなのに」
「僕、顔も頭もよくないし、地位も権力もないですよ?」
「……アイツのことを言っているのなら、そんな理由で好きになったんじゃないわよ? そもそもどうして好きだったかなんて理由すら、わからないもの。正直、ロウリィのこと、どうして好きなのかも、わからないわ」
「……わからないん、です?」
「わからないけど、好きなんだから、しょうがないじゃない」
だからもう、いい加減信じてくれたっていいのではないかと思う。
首に縋りついたまま、これ以上泣いてしまわないように、かたく口を引き結ぶ。
「カザリアさん」
「もう、なんなのよ」
「顔、見せて」
請われて、私は抱きしめていた腕をようやく緩めた。
ロウリィの肩を押して、そろりと顔をだすと、ロウリィがほやりとおかしそうに笑いだす。
「カザリアさん、目が痛そう」
「いったい誰のせいだとっ……!」
腫れたまぶたも、重たい頭も、痛くて痛くてどうしようもない。
「だって、私はロウリィのことが好きで。好きで、もう、どうしていいかわからなくて、ずっと困っているのに」
ロウリィの両腕が伸びてきて、頭ごと抱えて引き戻される。
頬が触れる胸元のあたたかさに、耳に届く鼓動の速さに、心臓がおかしくなってしまいそうになる。
「カザリアさん、ちゃんと僕も好きですよ」
「うそ。だって、好きで結婚したんじゃないじゃない」
「それはカザリアさんも一緒でしょう?」
聞かれて、言い返せなくて、私は黙り込む。ほら、となんだかロウリィが笑う気配がした。
「嘘じゃないです。ちゃんとカザリアさんが好きなんですよ。信じて欲しかったら、僕のことも疑わないで」
もうずっと僕らは思い違いをしていたのでしょうか、と溜息をつくようにロウリィが聞いてきた言葉に、私はそうであってほしくて、頷いた。目を瞑って、ロウリィの胸に顔を埋める。
ぎゅうと抱きしめた分、抱え込むようになおさら抱き締め返された。
「僕のところに来てくれてありがとう。僕を選んでくれてありがとう」
カザリアさん、とささやかれた響きのあまやかさに、背中が粟立った。
世界が変わる音がした。
疑いようもなく、この人は、私のことを好いてくれているのだと。呼ばれたその瞬間、確信できてしまって、涙腺がさらに崩壊してしまう。
「ロウリィ」
「え、あの、ちょっと、待って。あんま呼ばないでください」
「なんで。そんな自分ばっかりずるい」
「な、何がです!?」
呼べば、ロウリィが押し黙る気配がして。
仕返しのように呼びかえされた名に、あまりにも幸福な眩暈がした。
まるで駄々をこねた子どもの日々にかえったみたいに、涙が止まらない。
ロウリィの服は、もう涙が染み込みすぎていて申し訳ないくらいだ。
「笑わないで」
「だって」
耳元で明かされた言葉に、しゃくりあげてしまう。
慰めるよう、背中をぽんぽんとあやされて、熱があがってしまいそうになる。
おぼろげに涙でふやけていく視界の中で、私からはもうきっと手放してあげられないと、強く強く悟った。
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