第13話 だって、私は、つよいもの
よし。現状を確認しておきましょうか。
ここは領主の執務室で、目の前にはロウリィが立っている。部屋を出るためには、ロウリィの後ろにある扉を開けなければならない。
つまり、この部屋に入ってしまった時点で逃げ場なしということね。わかった。了解。いざとなったら、窓叩き割って逃げるしかない。
だって、だって、空気がぎすぎすしてるのよ。ここに来る間中、ロウリィはひとっこともしゃべらないし。庭にいた時は怒っていられたけど、いざ本人前にすると駄目なんだもの。大体、私、昨日何をした。いや、もうあれがホームシックだったとしても――それにしたってひどいわ。
うっかり毒入りクッキー食べちゃうわ、大泣きしてロウリィに縋りつくわ、あろうことかロウリィにキスしようとしたあげく拒否されるわ。
……って、やっぱり最後のは、どうしても納得がいかないのだけれど。
でも、心配してくれていたのに八つ当たりしてクッション投げつけたのはどう考えても私が悪いわね。追い出しちゃったことも、その後、熱出しちゃったことも。
ロウリィが眠いらしいのは、ルーベンの話を信用するなら私の看病に一晩中ついていてくれたせいだ。わかっている。
うん、だから、今現在、ロウリィがどちらかと言えば眉根を寄せているように見えるのは、きっと眠気が五割くらい占めているからだと思いたい。むしろ、今回の場合は、それ以上に眠気で占めてくれてても構わないのだけれど。
執務室に入ってからも、ロウリィはどこか考えている風で表情を変えない。
残念ながら、私は鈍感というわけでもなく。そうでなくとも普段ああもぽやぽやしてる人が急ににこりともしなくなれば、誰だって気づきはするだろう。
怒ってる。絶対怒ってるわ、この人。
ただ思い当たることが多すぎるのよ、今回は。昨日のこともそうだけれど、チュエイル家からの招待状の件も伝わっているんだろう。
ルカウトの反応を見た限り、ロウリィが手放しで賛成するとは初めから思っていない。けれど、私もチュエイル家からの招待に関しては譲るつもりはないのだ。
「ロウリィ?」
意を決してロウリィに呼びかける。
様子を伺っていると、ロウリィは閉じたばかりの扉にちらりと目をやってぶっきらぼうに言った。
「すみません、ちょっと先に奥に行っててもらえますか?」
「ここじゃなくて?」
「はい」
ロウリィは頷いた。彼の意図がよくわからなくて、本当に奥に行ってしまってもよいのか戸惑う。言われた通りにしようかとも思ったけど、結局、迷った足は止まってしまった。
私たちが今いる領主の執務室には、天井近くまで伸びる大窓を背に領主の執務机が置かれてある。扉を開けてすぐ真正面から執務机と向き合える配置になっているのだ。
基本的に領主のもろもろの業務はこの場で行われるから、ある意味ここはエンピティロの要とも言える。と言っても、机仕事はあまりないのか、ロウリィがこの部屋にいることは少ない。
机上は整然と片づけられていて、冬の午後の日差しが寒々と机の焦げ茶色を強調していた。
そして、ちょうど執務机の前にあたる場所に応接用のソファとテーブルが設置されている。脚の短いテーブルを挟んでソファが向かい合わせになっているから、ちょっとした話しあいなら、わざわざ応接間に通すまでもなく、この部屋だけで充分事足りる。
だから廊下を歩く道すがら、ロウリィがこの執務室に向かっていると気づいた時に、私は一番にこの向かい合わせのソファを思い浮かべてしまって余計に気詰まりしていたのだ。ソファに座らなくてもいいらしいと知って、わずかばかりほっとする。
だが奥と言っても、隣接するのは給湯室と簡易の書庫だけだった。わざわざこの部屋からどちらかに移動しなければならない理由は見当たらない。
私が動かないことを知ると、ロウリィは扉に視線を戻して、おもむろに溜息を吐きだした。そのまま彼は手の甲で扉を叩く。
「ルカ。そこにいたって何も楽しいことはありませんから、さっさと仕事でもしてきてください」
「あははー。ばれていましたか。さすがロウリエ。付き合いが長いだけありますねーえ?」
間を置かず扉の向こうから聞こえてきた能天気な声に、ぎょっとする。しかも、あっさりと盗聴を認めたはずの当人に扉の前から動くつもりはないようだ。遠のく足音どころか、足踏みだって聞こえない。なるほど、そういうことらしい。そういえば昨夜だって覗かれていた。
仕方がない、とでも言いたげにロウリィは平坦な扉をひと睨みして、扉の前を離れた。
「行きましょう。書庫だと椅子も何もなくて申し訳ないのですが」
「別にいいわ、そんなこと」
ロウリィに手を取られて、私はぎこちなく頷く。ほんのわずかにだけれど蒼眼を和らげたロウリィは、でも、やはりいつもとは違っていて、苦さを噛み締めるように表情を動かした。だから、それは一体なんだって言うのよ。
違う。何かが違う。昨日のこととか、招待状のこととか、そういうことだとばかり思ってたけれど、それだけじゃない。
いいえ。どちらとも似てはいて、けれど、何かが根本的に違う気がした。
「ロウリィ」
手を引かれるがまま、書庫への扉をくぐる。背の高い書棚が部屋中を取り囲んでいる書庫は、さっきまでいた部屋に比べると随分と薄暗い。唯一の光源である窓さえ、半分以上、書棚に覆われているからだろう。
ぱたりと後ろ手に扉を閉めたロウリィは、繋いでいた手を解くと私に向き直った。
「単刀直入に言います。カザリアさんは王都に帰った方がいい」
いつになく真剣味を帯びた声音に、吸い込みそうになった息を無理に胸に留める。たじろぎそうになった足を、私は力を込めて踏みしめた。翳る部屋の中では、いつもよりも濃い光彩を帯びて見える薄蒼の双眸を、真っ向から見据える。
「なぜ」
「なぜ? カザリアさんが望んでいたことでしょう。大分、時期がずれてしまいました。そのことについては謝ります」
「違うわ。今、なぜそんなことを言い出したのかを聞きたいのよ」
もうあれから三カ月も経つ。初めこそ口に出したけど、あれ以来、話題にさえのぼらなかった。
ロウリィは、結んでいた口の両端を引き下げる。
「ねぇ、チュエイル家からの招待が気に入らないのなら、そう言えばいいのよ。だって、矛盾してるわ。あの時、王都に帰るのを止めたのはロウリィの方じゃない」
ロウリィの真意が知りたくてあわせた目は、逸らされることなくきちんと見返される。「おかしいじゃない」と、私は言い募った。
「なぜさっきからその話ばかりされるのかが、私には理解できないわ。同じことをお義母様にも言われた。『王都に帰った方がいい』と」
王都へ一緒に帰らない? と、お義母様は柔らかに目を細めて仰った。お義母様が何を思ってそう言ったのかは知らない。今回のことで心配してくれたのかもしれない。あるいは逆。お義母様は、ロウリィを守る存在として私を選んだのだから、私が逃げないか確認したかったのかもしれない。
聞いておきたいことがある、とお義母様に前置きされて問われた時、正直その理由がどちらであっても私はいいと思った。
「だけど、私の答えは変わらないのよ。『帰らない』それが答え」
言いきって、息をつく。
部屋に降りた沈黙に、私は下唇を噛んだ。
「違うんですよ」
ロウリィは、諦めたように首を振る。
「そうだけど、そうじゃない。いいですか、今回の件は、いわば一つのきっかけです。帰ってほしいのも、今なら人出を裂く必要がないから。言ってしまえば、ここには領主と領地を守ってもらうために最低限必要な人員しかいません。ですが、母と一緒に行ってくれれば、母が連れてきたケルシュタイード家の護衛がつく」
「……だから、都合がいいこの時に帰れって言うの?」
「はい。そもそも僕にはカザリアさんがここに来るなんてこと、結婚当日まで知りませんでしたし、突然カザリアさんが一人で帰りの馬車に乗り込んできた時には驚いたくらいです」
あの日のことを思い出す。
両親に促されて立った馬車の前。御者が開いた扉の奥で、既に席に座っていたロウリィは、窓の外を見ていた。
扉の音に気づいてか、こちらを振り返ったロウリィは、確かにあの日、目を丸くしていたのだ。
『カザリアさん?』
まるで知ったばかりの名前に間違いがないか確かめるように呼ばれた名。
『はい』
私は、疑問に思うこともなく微笑みをつくった。
『これからお世話になります。ロウリエ様』
今ある関係からなら考えられないほど、うやうやしく、ロウリィに対して頭を垂れた。御者の手を借り馬車に乗った私に、ロウリィも手を貸してくれた。
『ありがとうございます』
礼を言って、彼の真向かいに座る。
『あの、カザリアさん?』
話しかけられ、借りたままのロウリィの手を離し損ねた私は、そのまま首を傾げた。
『一緒に乗るんですか?』
『ええ。行き先が同じなのですから。何か不都合なことがあるなら別の馬車を用意しますが』
『……エンピティロですよ?』
『ええ、エンピティロですよね? それがどうかしましたか?』
私はロウリィに問い返した。あの瞬間のロウリィの表情の意味。それを私が知ったのは、ちょうど丸一日経った後、エンピティロについた初めての晩のことだった。
あの日の考えの甘さが、今となってはよく身に沁みる。至るところに盛られる毒。追い払っても追い払っても湧いて出てくる刺客。
ここにいる人たちは、みんなのんびりとしているから、重く沈んだ空気にはならない。明るすぎるくらいの明るさがこの領地にはある。けれど、傍から見ればどうしたって異常だ。
「当然、ここの状況を知っていると思っていましたよ。それでも来ると言うのなら、それはカザリアさんの選択だと、あの時は思ったんです」
あなたは何も知らなかった訳ですが、とロウリィは肩を下げる。
「だけどここまで連れて来てしまった以上、もうどうしようもなかったんです。ここにはカザリアさんを安全に王都まで帰せる確証がなかった。カザリアさんにあんまり付けてしまうと、僕の方が手薄になりますからね。なら、ここにいる方がまだ安全だと思ったんですよ」
「……そうよ、へいきよ。だって、私は、つよいもの」
いやに脈打ちはじめた鼓動を落ち着かせようと、私は言葉を区切って答えた。その言葉のどれもが、ちっともロウリィには響かないと、頭の隅では悟りながら。
「ええ、あなたは強い。幸いなことにとても強くって、自分だけでなく僕を守ってくれるくらいの余裕があるほど強かった」
「だって、ロウリィはあんまりにも危なっかしいんだもの」
「はい。すみません。もっと、ちゃんと気をつけますから」
違う。違うの。そうじゃないの。
言いたい言葉は、喉につっかえて、なかなか出てきてくれない。
「ケルシュタイード家が元々どういう成りたちを持つ家か知っていますよね?」
ロウリィは確信を持って問う。
「カザリアさんが僕を守るためだけにここに残ってくれると言うのなら、それには何一つ意味がないんです。ルカウトで充分事足ります。ルカウトの性格上、最後の最後、本当にぎりぎりのところまで、他に任せて手を出したりはしませんが」
だから、とロウリィは続けた。
「あなたは必要ないんです」
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