第23話 雅楽先輩の温泉と私

 この時の私は、正直どうかしていたのだと思う。初めての異世界で浮かれていたせいかもしれない。

 普段なら、それなりに親しい先輩とはいえ、男性の部屋についているお風呂に入ろうなどとは思いつきもしないが、目の前の温泉に心を奪われていた私は、これが雅楽先輩だけが使うお風呂だということに気づかずにいた。昨夜入ったお風呂が大浴場なら、こちらは露天風呂付きの温泉だとしか思えなかったせいでもある。つまりは旅館にいるような思考だった。


「本当に入るの?」

「温泉好きなんですよね」

「あ……そう。僕はちょっと出かけるから、鍵かけてね。部屋と、お風呂と。タオルとかはここにあるから」

「は~い!」


 呆れたような雅楽先輩の声にも気づかず、私は指示された通りに部屋に鍵をかけ、わくわくとお風呂に向かった。


 温泉はとても気持ちよかった。内風呂のヒノキの香りは気持ちいいし、露天風呂は風が感じられて最高だ。どちらも作りが日本風なせいか、昨日のお風呂よりリラックスできたように思う。雅楽先輩もリラックスしたくてわざわざ和風に作ってもらったのだろうか。岩風呂に身体を伸ばしながら、私は空を仰いだ。真昼間からお風呂。なんて贅沢なんだ。

 だがそこまで思考を巡らせておきながら、すべすべとする肌に浮かれた私が自分の現状に気づいたのは、間抜けなことにお風呂から上がった後だったのだ。

 カレシでもない男性の部屋に上がり込み、あまつさえその部屋のお風呂を堪能するなんて、年頃の女の子としては恥ずかしすぎる。先輩も呆れ果てたことだろう。

 後悔先に立たず。先人の言うことはもっともだった。


 自分の浅はかさに頭を抱えつつ先輩の部屋から出ると、先程出かけると言っていた雅楽先輩が、なぜか廊下にいた。


「あ」

「ノノ様」


 先輩と話していたアウィラさんが顔を上げたが、その鼻先に向かって先輩は手にしていた書類の束をパシンと当てる。確実にわざとだ。


「アウィラ、そういうわけだから、手配を頼む。ラクィセルは連れて行くから」

「センウィックも連れて行きませんか?」

「センウィックは大丈夫だ。だから、ここの守りとしていてもらう。アウィラとラクィセルがいなくなったら、誰が守るんだよ」


 書類を受け取りつつ、空いた掌で鼻をさするアウィラさんに、先輩は淡々と告げる。どうやら先輩とアウィラさんは、外出の手はずを整えているようだった。どこに行くのか知らないが、センウィックは留守番に回されるようだ。アウィラさんの口調から、センウィックが怒りそうな雰囲気が透けて見える。

 それにしても、先輩は魔王とコトを構えるつもりはないと言っていたが、一応雅楽先輩はお城の防衛も気にしているようだった。私たちの世界の食材を伝える農夫としてではなく、本来の役割である勇者としても、多少は働いているらしい。


「先輩、お出かけですか」

「うん。明日からちょっとね。出かける前にきみに見せたいものがあるんだ。それを言おうと思って待っていた」


 推測は当たっていたようで、先輩は出かけるらしい。それにしても、見せたいものってなんだろう? 先輩の畑や田んぼは見せてもらったけれど、まだ他にあるんだろうか。


「なんですか?」

「夕方になったら迎えに行くから。食事の前くらい。それまでゆっくりしてて」


 首を傾げる私に雅楽先輩はそう言うと、書類を抱えたアウィラさんと一緒にどこかへ行ってしまった。本当にそれを言うためだけに待っていたようだ。律儀なことである。


 フリーになった私は、温泉の礼を言いそびれたことに気づいた。気付いたが、もう後の祭りである。先人はいろんな言葉を作ったものだ。

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