Answer02

■結果説明■


 まず、一人称形式とはなにか?

 その質問への返答は、言葉は多少異なるでしょうが、『主人公の視点で書かれた物語』となるでしょう。

 ですが、これだけでは不足している場合が多いのです。

 突き詰めて総合すると、主人公=ストーリーテラー(物語の語り手)。地の文でストーリーテラー自身のことを『彼・彼女』と書かず、『俺・私・僕』などと表記するだけで一人称文章になる。そう誤解している方が多いです。


 主人公とストーリーテラーは、同じとは限りません。

 わかりやすい例だと、『シャーロック・ホームズ』シリーズです。実際にアーサー・コナン・ドイルの小説を読んだ方は多くないと思うのですが、『有名な名探偵』くらいのイメージは誰でもお持ちでしょう。

 シリーズの主人公は、シャーロック・ホームズです。説明不要です。

 ですがストーリーテラーは、相棒・ワトスン博士の場合がほとんどです。小説ではホームズとともに巻き込まれた事件を、彼が執筆した記録として語られています。(例外もアリ)

 昨今では主人公=ストーリーテラーである作品がほとんどではないかと思うのですが、ここでは明確に分けます。


 さて、本題です。

 問への返答にNOが多いからといって、向いている作家とは限りません。

 しかしYESが多い方は、一人称小説を書くのに向いていない作家と考えたほうがいいです。



 【《問01》詳細な数字を記している】については、一概に言えない部分があります。ゲームのような世界観で、ステータス掲載をしている場合、詳細な数字を記していても、一人称小説に向く・向かないは判断できません。

 逆に、医学モノで医師が投薬や手術で『いい感じに』『スパーンって』なんて指示してたら、ヤブ医者でしょう? ミステリーで公共交通機関を使ったトリックを使ってるのに、『30分から1時間くらい』なんてアバウトな数字を提示されたら困るでしょう?


 ですが一般的に小説では、詳細な数字を書くとミスを犯す危険が高いのです。数字を記すと、明確な『正解』であり、『事実』になるからです。

 たとえば作中で、常人平均の10倍の腕力を持つキャラクターがいたとしましょう。

 どうやって? という疑問がまず出ます。筋力は腕や足の太さに比例します。身長も10倍なら『巨人』の一言で済みますけど、同じなのに腕力10倍なら、気持ち悪い体形になります。

 物理法則外の謎理論で解決したとしましょう。次にどうやって暮らしてるの? という疑問が生まれます。握力か背筋力かウェイトリフティングなのか、測定項目にもよるでしょうが、現実では2倍でもオリンピッククラスか、化け物扱いされるレベルです。それが10倍? 日常生活をまともに送れるの? 誰かの肩を軽く叩いただけで脱臼させても不思議ないですから、友達いないんじゃない?

 これも物理法則外の謎理論で解決したとしましょう。ですがそもそもなんのために数字出してるの? という疑問が生まれます。そんな数字が大事になるシチュエーションって、大抵アクションがある瞬間的なものです。10倍の腕力を発揮する必要がない場面のほうが多いですよ。だったら『火事場の馬鹿力』一言で充分です。それで普通の生活を送っていても、誰もなにも疑問を抱きません。

 なのに10倍って明示しないといけない理由があるの?


 具体的に説明すると、空想を現実に照らし合わせることが可能なので、読者のツッコミどころを作ることになるのです。作者さんもイチイチ訊かれるの、面倒くさいでしょう?

 だったら具体的な数字なんて、出さないほうがいいのですよ。


 人称形式に限った話をすると、以下のような数字の使い方をしている作者さんは、一人称小説に向いているとは言えません。


 ○ ○ ○ ○ ○


(例1)

 身長は178センチほど、歳は23歳くらいだろうか。

 河原に立つ若い男は振りかぶると、時速120キロで石を投げた。


 ○ ○ ○ ○ ○


 『ほど』『くらい』などとアバウトさを示す言葉を使っているのに、やけに数字が具体的です。普通『20代前半』『身長180センチほど』という言い方になるでしょう。見ている側に野球経験がある設定ならまだしも、スピードなんて時速10キロ単位の違いは見分けつきませんよ。

 なのに数字が具体的なのは、作者として意識が強すぎ、設定そのままを出しているからです。



 つまり【《問02》ストーリーテラーへの自己投影が入っていると思う】 の内容です。

 一人称小説を書くために大事なことは、他人であるストーリーテラーに作家がなりきり、当事者のように書くことです。

 しかしストーリーテラー=主人公ではなく、作者=主人公=ストーリーテラーという感覚が強いと、この混同に気がつかないことが多いのです。同じと思うかもしれませんが、この感覚は全く異なります。

 舞台で考えてください。ストーリーテラー=主人公=役者、作者=監督で。

 役者は役者、監督は監督です。役割が違います。

 役者兼監督として、指示を出しながら舞台に立つのもありですが、そういうのは観客がいない場面では監督、見ている場面では役者に徹しないと、意味がありません。

 舞台に上がったがいいが、観客の見ている劇中で平気で指示を飛ばすようなら、見苦しいです。

 そもそも『他人に任せるより、自分で演じたほうがいい劇が作れる』と自信があって、舞台に上がった監督ではないのです。

 ただ説明が下手なだけなのです。役者に行ってほしい演技を上手く説明することができないから、『俺の動きを見りゃわかるだろ』と役者の役割を奪っただけのことです。



 だから【《問03》『説明不足』『描写不足』と指摘された経験がある】のように、作者が知っていること=ストーリーテラーが知っていることで自己完結すると、読者に伝えることをおろそかになりがちです。『言葉にできないなにかを感じ取れ』と、無理難題を観客に押しつけます。



 続けて【《問04》あなたが三人以上で会話するシーンを書いた時、特別難しさを感じたことはない】

 セリフが続いていても、二人だと交互に話すので、説明が省かれていてもおおよそ理解できます。

 しかし三人以上になると、誰のセリフか説明が必要になってきます。『口調を変えているから区別つくだろう』などと考える作者さんもいるでしょうが、大抵の場合は読者さんに伝わっていません。

 三人称形式でも、これに苦しむのです。

 さらに一人称小説の場合、主人公がセリフを語った説明を省く傾向にあります。『俺は言った』なんて書くのは幼稚くさくなってしまいますから。

 そもそも多くのキャラをしゃべらせるのは、小説はもとより、映像・漫画でも苦しむクリエイターは多いです。なので難しさを感じない人は、ハードルを軽々と飛び越しているのではなく、蹴散らして走るような傍若無人な真似をしている可能性があります。



 そして【《問05》『俺』『私』『僕』などの一人称が多い】は、前述『俺は言った』の詳細です。

 How To本だと、よく冒頭で『俺の名前は○○、普通の高校生だ』といった自己紹介をするな、などと書かれていると思います。

 稚拙に見られるという理由もありますが、人称形式に沿った話をすると、これは三人称形式に近い説明文だからなのです。

 『俺』から『彼』に変換しても、なにも困りませんよね?

 作中で『僕は言った』『俺は○○をした』なんて書くのも同様です。ストーリーテラー自身のことだけでなく、『誰々は~』で始まる文体も同じです。

 実生活で考えてください。自分や誰かの行動を説明することは、ほとんどないでしょう? あったとしても『私は(彼は)昨日○○をした』なんて言い方しませんよね?

 ストーリーテラーの認識が作者と同一化しているのに、文体そのものが三人称に向いている文語体(書き言葉)で、一人称らしい口語体(話し言葉)を使っていないので、矛盾むじゅんじみた乖離かいりをしているのです。


 ○ ○ ○ ○ ○


(例2)

①俺はその時、昨日、幼馴染の買い物に付き合うと約束したことを思い出した。


②ヤバい。そういえば昨日、買い物に付き合うって約束したっけ。すっかり忘れてた。


(例3)

①「アイツってば……仕方ないわね」

 太郎が突然激昂した理由を聞いて、花子は呆れのため息をついた。


②「アイツってば……仕方ないわね」

 いやいや。なんか呆れてるけどな? 花子よ、お前も太郎のこと言えないからな? よく俺を怒鳴りつけるだろ? あれビビるぞ?


 ○ ○ ○ ○ ○


 一人称形式文章のメリットは、世界観の中にいる人物に接近させ、語り手の感情を盛り込むことができること。

 どちらが一人称らしい、語り手の感情が存在している文章でしょうか?

 話の内容が伝わらない? それは前に文章があれば解決します。誰とどこでなんの話をしているか、ここに至るまでの経緯が、実際の小説には存在するのですから。

 端的な言葉で物事を伝えられる。それは三人称形式文章のメリットです。一人称形式に持ち込むこと自体が間違いです。



 決定的なのは【《問06》次の一人称形式文章に問題があるとは思わない】の内容。

 一人称形式文章には、『話者が知らないことを語れない』という条件があります。

 ですが下手くそな一人称文章は、作者(第三者)の目線と混同して書かれ、条件を無視してしまうのです。

 鏡やカメラを使うことなく、目が充血しているかどうか、ご自分で確認することができますか?

 『気づかなかった』『僕の背中を見つめる目』を、気のせいではなく人に説明できる事実として、どうやって知り得たのでしょう?

 『グッスリ寝入り』ながら『知るはずもない』『離れた場所』の会話内容や、未来に『あの後、あんなことが起こる』とわかりますか?

 作者の認識=ストーリーテラーの認識となっている典型例です。

 こう説明してもYES――なにが問題なのか理解できない方は、超能力者です。



 これらの設問単体だけならば、YES――問題があっても構わないのです。ミスや癖は誰だってありますから。

 しかし数多く該当するのであれば、一人称小説がどういうものか理解しておらず、書くのは向いてないと判断するしかありません。



■改善■



 特に自分が語る改善はありません。

 だって作家さんご自身がどうしたいか、という問題ですから。

 チェック結果がYESばかりで、『向かない』という結果になったとしても、一人称小説を書きたいなら、らしくするための努力をすれば済む話です。

 見切りをつけて書き方を変えるのも、筆を折るのも、作者さん個人個人の判断です。自分が口を出すことではなく、それ以前に出せないことです。


 ただまぁ、個人的意見を書き加えておきますと。


 初めて小説書く際に、好きな作品が一人称形式だったとか、『最近の流行りは一人称で書かれている』なんて意見を鵜呑みにしただけではないかい? と疑うのです。

 ここらの意識が自分には全く理解できないのですが。

 『自分に一人称小説を書けるか?』という疑問は抱かないものなのでしょうか?


 あとついでに。

 『作家本人のやりたいようにやらせばいい』という考えで、このチェックそのものを否定される人がいるかもしれません。

 当然だと思いますよ? 否定されることを否定はしません。

 ですけどね?

 世界的ストライカーになることを夢見てサッカーを始めたけど、高いボールは胸や頭を使わず手で受け止める子供に、矯正もさせずに『本人のやりたいように』と夢を見させ続けるほうが、残酷だと思いますよ?

 別のスポーツを勧めはせずとも、せめて一流キーパーへの転向を考えさせたほうが、周囲にとってもその子供にとっても、良いのではないでしょうか?

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