庵鐘の響(あんじょうのひびき)

乃上 よしお ( 野上 芳夫 )

第1話

 陽が昇る前の山には、鳥のさえずりだけがこだましていた。


 うっすらと明かりが広がり始めている。

 だが太陽は、まだ山の陰にいて姿を見せていなかった。


 ここには神秘の時間が流れている。

 時計などない。

 明るくなれば朝で、暗くなれば夜だ。


 日本の山とは違って、数千年にわたり人々が精神修養をしてきた血と汗と涙が土と岩には染み込んでいた。その人工的に汚染されていない空気と景色により、この韓国の山にいるだけで、私たちの心は澄み、癒されてくるのだった。


 ここは湿った草の匂いと霧に包まれていて、人の気配など感じられない場所だった。


 そして、この人里離れた山の中に寺があることを知る者は少なかった。


 山の麓の集落の村人たちだけが、その寺があることを知っていた。

 村人の誰かが亡くなると、山の奥に僧を呼びに行って、埋葬の前に経を唱えてもらうのだった。


 それ以外の時には、ごくたまに、功徳を願う老婆がやって来て、寺に少しの米や野菜を置いていく。


 そこに居る僧は、山菜をとりにいったり、小川のそばで、ミョウガやワサビを作ったりして、自給自足の生活を送っていた。


 誰も僧の名前を知る者はいなかった。


 彼がどこから来て、何歳なのかも知らなかった。


 前にいた僧が歳をとって亡くなる時に、今の僧がすでにきていたので、村人たちは自然に彼を受け入れるようになったのだった。


 ただ、村人たちは、この僧が日本語も話せるらしいと、噂していた。


 だが、彼が前の僧に長年にわたり仕えてきたことを知っていたので、さして村人たちは気に留めていなかった。


 僧は朝の読経を終えたところで、庵の門をくぐりぬけて薪をとりに出かけた。


 そして、ふと、この山に⛰来てからのことを振り返るのだった。


 —— もう、20年になるのか......


 その年月は、長いようで短かいものだった。


 —— 朝には、まず鐘を打つ🔔

 全ては韓国の僧師から教えられた

 その尊い御言葉と境地

 世界の平和と人々の幸せを願い

 そして、

 読経に始まり、読経に終わる

 罪を犯さず

 それを願うこともしない境地。

 しかし、

 ここに来る前の俺ときたら.......


 そうだ。

 彼には、ここにたどり着くまでの、別の人生があったのだ。


 それは......


 いや、もう昔のことだ


 彼は、それ以上は考えるのをやめた。

 それが煩悩のなせる業であり、再び無明の世界を彷徨うことが愚かに思えたからだった。


 薪をかついで元の道を戻る。

 遠くの村から朝の食事の支度の煙が立ち上り始めた。


「 スンニョ ! 」 ( お坊さん ! )


 振り返ると、花を咲かせたような無垢な笑顔の少女が立っている。

 一生懸命に山を登ってきたのだろう。白い息をはいていた。

 手に持ったカゴの上には、家の畑で採れた野菜がいっぱいに積まれている。


「 カンサハムニダ 」


 僧は合掌をしながら深々と頭をさげた。





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