第73話 風のうわさについて
1
風が吹く。風は肌に当たって心地よく、山の木をゆらして音を鳴らす。
風とは空気の移動であり、空気は窒素と酸素によってだいたいができている。
風が情報を伝達するという俗説については一笑にふさざるをえない。風は空気の移動であり、それが計算機や通信機のように機能する可能性は、科学的見地からいって極めて低いものだといわざるをえない。まして、風が考えているということが現実に実現するには、空気をハードウェアとする空気コンピュータが完成する未来でなければ誰も本気にしたりしないであろう。だが、最近、現実のものとなったプラズマ・ホログラムは、大気中の酸素分子をプラズマ化して発光する立体映写機であり、ひょっとしたら、いつかの未来に、空気コンピュータが実現しないとも限らないのである。
もしかしたら、風のうわさとは、空気コンピュータや空気通信機を開発した超古代文明の名残りであるかもしれないとぼくは思った。
彼女は名を風音といった。かざねと読む。なんでも、風魔忍者の流れを組む忍者の一族の子孫であるらしい。
ぼくには彼女と風の区別がつかない。彼女は風のように姿を見せないし、風のように声を立てるだけである。風の音でぼくと会話している。幻聴と区別がつかない。
──怖い、怖い。
風がいう。
「何か起きるのかい」
──危ない、危ない。
「きみはいつも何の話をしているのかわからないよ」
──怖い人たちがいるの。人を殺すんだって。
殺人事件か。
「きみには犯人がわかっているんだろう?」
風がぱたぱたと暖簾を揺らす。
ちりーんと風鈴が鳴る。
──わかんない。わかんないよ、何にも。わたし、頭悪いから。
風音がいう。
「そういわれても、ぼくには犯人はわからないからなあ。まだ事件は起きていないのかい」
──うん。まだ大丈夫だよ。銃を船で運んでいるんだって。イスラム国の人たちみたい。アラブ語を話してる。
「気になるのかい」
ぼくは聞く。以前にも殺人事件の話をしたことがあった。その時は風音はこんなに驚いていなかった。
──わかんない。わかんないよ。人なんて、いつもいつもどんどん死んでいるから。
と風音はいう。
「船の到着する場所はわかるのかい。なんなら、ぼくがそこにいって止めようか」
それで死んでもいいと思った。
でも、風音に隠しごとはできない。なぜかできない。
──ダメ。あなた、そこで死のうとしているでしょう。
見破られた。殺人事件を止めに行って死ぬのなら、それは悪い死に方ではないと思ったのだが、風音には通じない。
「風はなんていっているんだい?」
ぼくは聞く。風音よりたいてい風そのものの方が頭がいい。
──怖い。怖いって。
「そうか」
風が怖がっているのか。
それはちと怖いな。
「何人くらい死ぬんだ?」
ぼくが聞く。風音が答える。
──さあ。百人から千人くらい。
「たいしたことないな」
──わたしが死んじゃうかもしれないじゃない。銃撃戦なんてわたし負けちゃうよ。
そうだったか。むかしもそんなことをいっていたが、何十人の銃弾をすべてかわして生きのびた気がするが。
「やっぱ、ぼく、行こうか、その船の着く場所へ」
風がざわざわする。
──わたしも行く。
風音が行くのか。風音は人間なんだよな。風音は風じゃない。忍者だ。
風音は、風のうわさを司る情報拠点である。風魔忍者の流れを組む一族で、忍者だ。
そうだ。
ただの忍者なのだ。風と会話しているだけで、風音は普通に血の通った人間なのである。銃に撃たれれば死ぬ。
「生きて帰ろう」
ぼくはそう呟いて、歩き出した。
──あれ、死ぬのはやめたの?
風音が驚く。
そうだ。風音と一緒に戦って、死んでしまっては風が泣く。
生きて帰るのだ。
2
虫の知らせを司る情報拠点を虫愛ずるといい、虫芽という忍者がやっている。風音とは仲がいいが、いつも喧嘩した話ばかりを聞かされる。
ぼくは二人を仲がいいと思っている。
虫芽は風魔忍者ではないみたいだが、どこに所属する忍者なのかわからない。
イスラム国はおそらく日本の後方支援への報復という名目でテロを行う予定であり。それを未然に防ぐのが今回の目的だ。
風音が警察とどういう関係にあるのかわからない。警察とも自衛隊とも連絡をとっているようだが、いちばん関わるのは宮内庁のようだ。
『風の研究』というわけのわからない研究を宮内庁で行っていて、それに風音が協力しているということらしい。つまりは、風音が話している相手が超古代文明に存在した空気コンピュータなのかもしれないという可能性についての研究をしているらしい。
ぼくは風に誘われるままに海に行き、まだ船も着かないようなのでぶらぶらとその近辺を散歩した。風音の姿も、虫芽の姿も見えない。
風は吹いているし、虫もいくつか飛んでいる。
そして、アラブ風の男たちがいる。
なんというか、いきなり出会ってしまった。まだ未遂である。よって無罪である。未然に防ぐには、ぼくが怪力乱神のごとくこの男たちを殴り倒してしまえばよいのだが、あいにく、その力はぼくにはない。
風音にはあるかもしれないが、確認してみたことはない。忍者というのも、あんまりその力は当てにならないものだし。
どうすればいいんだ。このまま、アラブのおっさんたちと一緒に船が着くのを待つというのか。かように、風音の案内はあてにならない。
しばらくすると、遠くに大きな船がやってきた。海に停泊し、そこから、ボートが海岸目がけて近づいてくる。
あのボートに銃が積んであるんだ。その銃を使い、イスラム国の人たちがテロを起こす予定なのだろう。
どうしようか。このまま、ボートが届いたら、それをぼくが目撃したら、ただではすまない。事情を察して、見えないところまで遠ざかるべきか。しかし、この機会を逃したら、いったいいつこの男たちと戦うんだ。どうせ、戦うのなら、銃が届くその瞬間がいい。積んである銃を奪い、安全装置を外して、銃を撃ってイスラム国のテロリストを皆殺しにすればいいのだ。
だが、そうしたら、ぼくは殺人犯になってしまうな。
未然に防ぐというのは敵地を攻め落とすより難しい。
だが、やるなら、今しかない。ぼくは戦う覚悟を決めた。ボートが着いたら、走っていって、そのボートに積んである銃を奪い、テロリストを皆殺しにするのだ。
ボートが着くのをアラブ風の男たちから離れて待った。
ボートが着いた。
ぼくは走り出す。アラブ風の男たちは驚く。
「おい、兄さん、日本語わかる。このボートはおれたちのものだ。近づくと許さないよ」
アラブ風の男が翻訳調の日本語でいった。
ぼくは無視して、ボートの積み荷目がけて突進する。
「おい、おい、通さないぞ」
「誰だ。味方かもしれないぞ」
「警察かもしれない。かまうな。殺せ」
ぼくはボートの積み荷に手を出そうとして殴られて、ふっとんだ。
「日本人だ。しかたない。殺しておこう」
そういって、男たちがボートから銃をとり出して、ぼくに向けた。
ババババババババッ。
マシンガンの音がする。死んだと思った。
「なんだ、この銃。弾が空だ」
「どういうことだ」
「わからない。弾をすり替えられている」
助かったと思った。
──もう、済んだよ。逃げて、影斗ら。
風音の声だ。
ぼくは走って逃げようとした。ぼくを捕まえようとする男が風にあおられる。
「あはははははっ」
まだ若い女の子、風音の姿が一瞬、見えた。笑っている。黒装束だ。
「やられた。母船が沈んでいく。誰かに気づかれたんだ。作戦は失敗だ」
男がいう。
「あなたは風の天使ガブリエルだ」
アラブ風の男が日本語でいった。
──走って、影斗ら。
ぼくらは走ってその場から逃げ出した。風音の姿はもう見えない。
はあはあ。
風のうわさを司る忍者・風音の話は今回はこれで終わりだ。
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