雨降り夜中の楽隊

熊野 豪太郎

第1話

生まれて以来、おれは心から笑った覚えがない。お笑いのテレビを見ていても、上司のつまらない冗談を聞いても、全く笑える気がしなかった。

笑顔は、人を柔らかくする魔法だ。これは、つまらない冗談を言う上司の、普段からの口癖だ。うまく笑うことができないおれに、上司はそうおれを叱る。筋肉が、自分の本能が、笑うということに抵抗を感じていた。

仕事を終えて、会社を出ると、案の定雨が降っていた。さきほどからすこしだけ、雨の匂いがしたのだ。

今日も「笑顔」が原因で、仕事で失敗をしてしまった。こう何度もミスをすると、ミスをしたおれ自身も落ち込むものだ。

笑うことは、昔から本当に苦手だった。なぜかは、いつもわからない。お陰で親しい友人なんてできたことがなかったし、面倒な思いもいくつもしてきた。「笑顔」は、本当に魔法なのかもしれない。おれは魔法が使えないから、雨が降って歩きにくくなったこの地面のように、沼のような生き方しかできないのだろうか。

帰り道、ミスをするたびに、同じようなことを考えて、凹んで家へ着く。その繰り返しだった。しかし、今日は少し、雰囲気が違った。なんだか、楽しい気分になるような、陽気な音楽が近づいてきたのだ。しかし、今は雨の夜中。不気味以外の何物でもない。そう思って、振り返らずに歩く。

しかし、だんだん速度を上げて、音は聞こえてくる。あまりにも大きな音なので、おれはついに腹が立って、振り返る。一体全体、なぜ落ち込んでいるおれを煽るようなことをするのだ。そして、おれは仰天した。

ピエロの格好をした男と、その後ろに、30人ほどの楽隊が立っていたのだ。

「こんばんは。いい天気ですね。」ピエロの男は、雨で濡れながら、そう言った。

「世間は、こういう天気を褒めることはないな。」おれも負けじと、驚きを隠して言い返す。

「いえ、今日は、実にいい天気だ。なぜなら。」ここで言葉を切ると、後ろの楽隊が、それぞれの楽器を構えた。

そして男はキザな動きをすると「あなたというお客様に会うことができたのだからね!」と言い切る。その瞬間、音がおれに向かって飛んでくる。それは、まるでサーカスのような楽しくなる音楽だった。

ピエロは、それに合わせて踊りだす。お辞儀をしてからターンをしたり、滑稽な動きをして「観客」であるおれを楽しませた。

この男達の雰囲気が醸し出す空気は、おれをだんだんと、笑顔にしていった。


ピエロはそのあとも、手品をしたり、刃物をくるくると複数持って回したりした。おれは時に手を叩いて笑い、またあるときは、はらはらして口をパクパクさせた。


そして、ピエロは最後に陽気な音楽とともに

「あなたに確かに笑顔を届けました。お越しいただいて、今日はありがとうございました。」向かってきたのは、そっちだろう。そう思って、おれはまた笑顔になった。笑うことが、こんなに楽しいことだとは思ったことがなかった。おれは嬉しくて

「ありがとう。」と素直にお礼を言った。

「いえ、また笑顔を忘れてしまったときは、呼びつけてください。また

雨の日に。」と返したピエロは、おれが瞬きをすると、いつのまにか見えなくなっていた。


「そこで俺はこういったんだよ。そんな思い込みは、モンブランのように甘い!ってな!」

また、上司がつまらない自慢話を飛ばす。しかし、今のおれは楽しげに笑うことができる。雨降り夜中の楽隊は、おれに笑顔をくれた。だからおれは、今も元気に笑うことができるのだ。「笑顔は、人を柔らかくする魔法」なのだ。上司は、おれの笑顔を見ると、満足げに笑った。

雨がやんだ空には、たくさん色が詰まった架け橋が作られていた。

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雨降り夜中の楽隊 熊野 豪太郎 @kumakuma914

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