第14話『奈落の底と縁の下』
── 世の中は不公平だ。
雷光がザンパノの影をいつもより大きく照らし出した。
ここはS区にある小さな飲み屋の跡地。すっかり荒れ果てたその空き家を目下ザンパノは
──所詮は美しいものが寵愛を受け、醜いものは徹底的に邪険にされるだけなのだ。
それが生まれついた頃からザンパノを支配する感情である。
他の猫たちには『可愛い~』と寄ってくる人間たちも、ことザンパノに対してだけは違っていた。
「なにあれ?」
「この猫、憎ったらしい顔してるわね」
「きったな~い」
「オエッ!」
それらの言葉はザンパノにとってもはや常套句と化していた。
言葉だけならまだいい。人間たちに虐待された数々の傷はザンパノの“心”まで深く
ある日の夕暮れのことだ。
幼いザンパノは公園で人間の中学生が同級生にいじめられている姿を見かけた。
──あいつはいつも苛められてるな。
同級生たちは彼をひとしきり殴って気がすんだのか笑いながら去っていく。少年はヨロヨロとベンチに腰掛け、そのままぐったりと横たわってしまった。
その瞬間──ザンパノと少年の目が合った。少年は弱々しく笑うとおいでおいでと手招きする。
──ああ……同じなのだ。こいつもおれと同じ〈弱者〉なのだ。
──こいつならおれの気持ちをちょっとはわかってくれるかもしれない。
ザンパノは少年が少し可哀想になり招かれるままに近付いていった。
少年はゴソゴソと鞄の中に手を入れた。
──何か食い物でもくれるつもりなのだろうか?
そして──
その日、ザンパノは左目を失った。
(──〈弱者〉では駄目なのだ……! もっと強く、もっとデカく、もっとズルくならねば……でなければ、俺は殺されてしまう!)
「ザンパノ」
まるで少年のような、それでいて落ち着いた声がザンパノを過去の叫びから現在に呼び戻す。ザンパノのことを呼び捨てで呼ぶ猫はもはやこのS区にはいない。側近であるこのシースルーだけがザンパノのことをそう呼ぶくらいだ。
「来るよ、もうすぐ」
「来る? 誰が」
「わかってるくせに。ここまで時が近付けばあなただって感じてるはずだよ。“鳥の名を持つものがあなたを押し潰す”、この予言はまだ動いてないからね」
猫の勘は鋭い。こと、このシースルーに関して言えばはそれを遥かに超越した予知能力、もっと大げさに言えば予言めいたことを時々口にする。その的中率は非常に高く、ザンパノがボス猫の座につけたのも、いやこれまで生き残ってこれたのも、このシースルーあってのことだと言えた。
ある時、ザンパノは不思議に思ってシースルーに聞いてみたことがある。
「それだけの力があればおまえ自身がボスになることだってできただろう。なぜ、オレなんだ?」
「わかってないな」
シースルーはくっくと笑った。
「僕が“ボスになる未来”はなかったからだよ。未来が“見える”ことと“変える”ことは似てるようだけど実は全然違うものなんだ。たとえば当りくじが入ってないのにいくらくじを引いたって同じだろ? それと一緒だよ」
「……?」
「うーん、たとえばだね。前に人間たちが、“頭にイメージが浮かぶことだったら大抵のことは実現することが可能だ”って話すのを聞いたことがあるんだけどそれと似てるんだなぁ。頭に浮かばないことは実現することはないっていうか…… 」
似てると言われたところでまったくもってザンパノにはチンプンカンプンだった。
「それにね、ザンパノ。もし僕が万が一ボスになったとしたらだよ、今度は誰かに裏切られる心配も出てくる。でもあなたがボスになって僕の力を必要としてくれるならあなたは僕を決して切り捨てやしない。その方が僕には安全だし、その安全を守るためなら僕はあなたを全力でサポートする。この方が合理的だとは思わないかい?」
シースルーはあの時そう言った。
(鳥の名を持つものがあなたを押し潰す──)
ザンパノは怖れていた。疎まれ下げずまれ虐待されたあの日々を。もしボスの座を奪われたならば自分はまたあの落ちても落ちても底のない奈落へと戻らねばならないことを。
──ならばそれを回避する方法はないのか?
「あるよ」
「なんだ、それは! どうすればその予言を回避できる?!」
シースルーは眠たげな瞼を閉じた。
「さあ、それは僕にはわからない。それを知っているものは他にいるんだ。あなたの失われたその左目──」
「?」
「その目を持つものがいる。『第三の目を持つ猫』。そいつがその答えを知っている。“鳥の名をもつもの”を倒す方法を知っている」
「誰だ! そいつは。そいつをすぐに──」
「大丈夫。焦らなくてもそれは向こうからやってくるから。待とうよ、そいつが来るのを……」
▼▲▼▲▼▲
「そういうわけだ。俺たちはS区にある公園を開放してもらうべくザンパノに交渉する」
ざわつく三十匹の猫たちをヴァン=ブランはぐるりと見回した。
「何か意見のあるものはいるか?」
「でも……もし、ザンパノが嫌だって言ったら?」
そう口火をきったのは巨漢のデブ猫メタボチックだった。メタボチックの大きな背中の上で跳んだりぶら下がったりして遊んでいたチビの黒猫ハッシュが意味もわからずその言葉を復唱する。
「いやだって言ったら~ ?」
「その時はボスの座をかけてザンパノと一戦を交える。そしてS区全体を俺たちの領域にする」
「た、闘うって、誰が?」
「そうだなぁ。 聞けばザンパノというやつはそうとうデカいらしいからな。こっちも一番体のデカいやつを出すしかないだろうなぁ……」
「ひ、ひえっ!」
メタボチックが頭を抱えると皆の顔が少し和らいだ。ヴァンもあっはっはと得意の笑い声を上げる。
「冗談だよ、メタボ。その時は俺が闘うさ。そして必ず勝つ。いや、勝ってみせる」
それでも他の猫たちは不安そうに顔を見合わせてボソボソと何か呟いている。
「でも…… 」
「ん?」
「もし……もしも負けたら?」
皆の煮え切らない態度に耐えられなくなったのかイシャータは一歩前に出て叫んだ。
「……おまえらっ。いい加減にしろっ!!」
場がシーンと静まり返った。これにはさすがのヴァンも驚いた。
「さっきから聞いてれば『でも』だの『もし』だの……ヴァンはねえ、ヴァンはすぐさまここを出て行ってまた一匹で生きていくことだってさ、その、できるわけじゃんか。だけどさ、だけどね、皆のため──仲間のために闘ってやろうって言ってるんだろ! それを……よくも。やってもないうちから負けた時のことなんか考えるなっ!」
イシャータは声も途切れ途切れに肩を震わせた。
「イシャータ、おい、落ち着けって。皆、不安なだけなんだよ。な」
ヴァンはイシャータだけに聞こえるようにそう囁くと再び全員の方に顔を上げた。
「皆も冷静になれ。闘いはあくまで最悪の場合だ。まだザンパノが公園を明け渡さないと決まったわけじゃない」
一方、黒猫のフライは片隅でヴァンの言葉を聞きながら内心焦っていた。
──まずいな……既に皆ヴァンに頼りきってしまっている。俺の出る幕などもはや、ない。それに──いざ闘いとなればヴァンは勝ってしまうかもしれない。いや、おそらくは勝つだろう。
フライは昨日のヴァンと巨大な犬との闘いを思い返していた。複雑だった。ヴァンが勝たねば我々は行き倒れだ。だが、ヴァンが勝ってしまったらそれこそ俺は皆のリーダーに戻ることは不可能だろう。
ぼんやりとそんなことを考えているとさっきまでメタボチックの背中で遊んでいた息子のハッシュがそばに来て首を
「パパはどうして真ん中で喋らないの?」
「ハッシュ……」
「パパはもう皆のリーダーじゃないの? ねえ、どうして真ん中で喋らないのさ?」
「…… 」
息子の言葉は裁縫針のようにチクチクとフライの胸に突き刺さる。フライはぐっと顔を上げ、演説を続けるヴァン=ブランを睨みつけた。
「忘れるな。まずは話し合いだ。ザンパノに交渉をして──」
「その交渉には俺が行こう!」
イシャータに続き、今度はフライの声が場を制した。フライはつかつかとヴァンに近付くと顔もくっつかんばかりにもう一度同じことを言った。
「ザンパノへの交渉は俺が行こう。こういうことならおまえより俺の方がうまい。そう思わないか?」
「……ふむ」
しばらくフライの顔を確かめるように眺めていたヴァンだったがその目がゆっくりと横に
「なんだよ。俺じゃ役不足だとでも言いたいのか?」
「そうじゃない、フライ。……その話の続きは後だ」
カチャリ。コトコト──
聞きなれない音がヴァンの耳に入ってきたのだ。
「みんなっ、隠れろ!」
そう叫ぶが早いか三十匹の猫たちは蜘蛛の子を散らすように走り出した。ヴァンが放った鶴の一声におのおのが隠れ場所を求める。
別段意識したわけではないのだがイシャータはヴァンを同じ縁の下に潜り込む形になってしまった。
──人間だ。
「ふん、思ったより早かったな」
出口のお婆さんが亡き後、この土地が誰のものになるかなどヴァンにとって知ったことではなかったが、早くも取り壊しの計画が進められているのは間違いないらしい。
やはりぐずぐずしてる時間はなさそうだな。ヴァンはそう思った。
人間たちが作業をしている間、三十匹の猫たちは気配を消し、張り子の虎のように動かなかった。
そんな状況下のもと、イシャータはヴァンの匂いをこれほど近く感じたのは初めてだなと考えていた。
土と太陽の匂いだ。御主人様がベランダに蒲団を干した後のような……。もし月に匂いがあるとするならきっとその匂いも含まれているのであろう。
──ヴァンを見ているとお月さまを思い出すのは何故なんだろう。ううん、違う、逆だ。それはよくお月さまを見て私がヴァンのことを……。
ヴァンが急に振り向いたのでイシャータは思わずすっと目を逸らした。ヴァンはくすりと笑いを噛み殺す。
「まったく、おまえは相変わらずだな。ツレないというか、気が強いというか……」
ヴァンは警戒しているのか照れているのか母屋の人間たちの動きを見つめたままそう言った。
一陣の風がごごぉと吹き、花壇の
「……私ね、ノラになったの」
我ながら『何を今さら』とイシャータは思った。ヴァンだってきっとそう思ってるに違いない。だが、どうしてもその一言をヴァンに向けて直接伝えずにはいられなかったのだ。
「はぁ? それがどうした──」
「「── “おまえは猫” で、“俺も猫” だろ」」
すかさずイシャータに同じ言葉を
「…… んぁ?」
「絶対言うと思った」
「くそ!」
イシャータはくすくす笑った。いつのまにか視界には自分の前足の甲があった。自分の足は嫌いだ。だって自分の足が見えているということは自分が下を向いているということだもの。そうも思った。足の甲は何故かゆらゆらと揺れている。水面に映る影のように。先程の
「なんで……?」
前足の甲にポツリと水滴が落ちた。
薄暗い縁の下に二匹だけという状況からかイシャータは言葉を止めることができなかった。まだ
「なんで…… なんで、急にいなくなったんだよぉ!」
長い間押さえつけていた感情が
「バッカじゃないの?! たったあと一日だったのに……あんたほんっとバッカじゃないの?!」
「あれは、100曲目が思いつかなかっただけさ」
「そんなの……!」
イシャータが顔を上げ鼻をすすった隙にヴァンはそのチョコレート色したイシャータの鼻先をペロリと舐めた。
「……!」
「ずいぶん時間がかかっちまったが、このゴタゴタが終わったら聞いてほしい歌がある。まだ間に合うかい?」
“気持ち”というものに対し『間に合う』とか『間に合わない』とかいう単位が適切であるのかどうかイシャータにはよくわからなかった。
「………… 」
そもそも何故私は今ヴァンと〈猫屋敷〉の縁の下にいてこんなことを話しているのだろう。二ヶ月前、いや、一週間前だってそんなことなどこれっぽっちも想像していなかったのに。イシャータはなんだか不思議な気持ちになった。
何が起こるか先のことなど誰にもわからない。未来とはだから楽しいのか、それとも不安になるのか。
ただ言えるのは──これまでにいろんなことがあったが、こうやって今ヴァンと心を通わせていられるのは、その“いろんなこと”があったからこそであり、そう思うことができるのならそれらは決して高い代償ではないのかもしれないということだ。
イシャータは今度こそ目を
──ただひとつだけ欲を言うのなら『縁の下』というのは決してロマンチックな場所じゃないな。
そんなことがつい頭に浮かんでしまい、イシャータは少しだけはにかんだ。そしてゆっくり頷き、目を閉じた。
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