第11話『99』
夢の中でイシャータは地球を守る戦士だった。エイリアンたちは夜になると必ず襲ってくる。あの手この手で攻撃を仕掛けてくる敵に対しこちらも迎え撃つ策を練らねばならない。
今夜こそは必ずやしとめてみせる!
隊員たちに指示を出し、戦闘準備を整えるとイシャータの血はたぎった。だが──
どうしたことか今日はいつまで待っても敵が襲ってくる気配がない。次の日も、また次の日も。かくして世界に平和は戻るのだったがイシャータはどうにもしっくりこなかった。
「ひょっとして私は毎晩彼らがやってくるのを待ち望んでいたのだろうか?」
夢はそこで途切れた。
イシャータは目を覚ますと寝ぼけ
どういうわけだか自分が野良猫になったような気がしたのだ。私は〈猫屋敷〉に住んでいて、そこのお婆さんが亡くなり、数十匹の猫たちと行き場もなく佇んでいる。
やけにリアルなその感覚に全身の毛が逆立ったが御主人様の匂いがする布団に頭を擦り付けると安心が込み上げてきた。
「フフ、私が野良猫だなんて、ハハ……」
イシャータは大声で笑い転げた。
夢はまたそこで途切れた。
イシャータは寝ぼけ
「違うわ! こっちのほうが夢よ!」
イシャータは再び目を瞑った。
たとえ夢だとしてももう一度だけあの夢が見たかった。
だが一度目覚めてしまった夢の扉はすでに固く閉ざされてしまってイシャータの侵入を簡単に許そうとしない。
そのドアと格闘しているうち、イシャータの脳裏にあの頃の記憶が鮮明に甦ってきた──
▼▲▼▲▼▲
「ねぇ、イシャータさん。またあいつ、こっちを見てますよ」
後輩格のナナが言った。彼女はアメリカンカール種でありイシャータと同じ“飼い猫”である。
イシャータはナナの視線の先を見ずともそれが誰なのかをすでに感じ取っていた。今日という今日はハッキリ言ってやらねばならない。
「ヴァン=ブラン!」
イシャータの口調は卒業証書の名前を読み上げる教師のごとくしっかりとした滑舌ではあったがその半面口から
「こいつは嬉しいね。俺の名前を知っているのか?」
「知ってるか? そりゃ知ってるわよ! あなたはこの辺じゃ有名よ。毎日フラフラしては歌って遊んでまわってる最低のニート猫ってね」
「なんだよ。エントリーシートでも書けってのか? 俺は猫なんだぜ?」
「あんたが遊んでようが野垂れ死のうが知ったこっちゃないわよ! ただ私たちには近付かないで」
「そうはいかない。俺はおまえに惚れたんだ」
イシャータは溜め息をついた。
「話にならないわね…… 。いい? 私とあなたじゃ住む世界が違うの。ハッキリ言って迷惑なの」
「なぜ? “俺は猫” で “おまえも猫” だ。どこがどう違う?」
“猫”という大雑把なくくりにムッとしたが、ふとイシャータは御主人様と一緒に見ていた映画のワンエピソードを思い出した。タイトルは『ニュー・シネマ…… 』なんとかだ。
少し意地悪してやれ。
「わかったわヴァン=ブラン。あなたがもしも100日間休まずに私の庭の前で私の聞いたことのない歌を100曲歌ってくれるんだったらその時は考えてやってもいいわ」
「イシャータさん!」
「大丈夫よ、ナナ。このチンピラにそんな忍耐力があるわけがないんだから。さあ、どうする? あなたの得意分野でしょ。道化の歌うたいのヴァン=ブランさん ── 」「やろう」
イシャータの言葉を噛み、ヴァン=ブランはきっぱりと即答した。
「メスがオスをためすのは当然のことだ。面白い。やろう」
「イシャータさんってば、やめようってば。こんなバカなこと」
「フ、フン、大丈夫だってば、ナナ。続くわけないんだから」
「今夜からだ」
そう言うとヴァン=ブランは
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ヴァンにとって曲を作ることなど閉じた目を開くようなものだった。目を開けばそこに景色は悠然と広がる。ただ、それだけのことだ。
『俺が歌えばどんなやつだって喜んでくれる──』
そんな感じで最初の10日間、ヴァン=ブランは自信満々にベランダの下で歌い続けたがイシャータが顔を出すことはその間一度もなかった。だが──
当のイシャータといえば、部屋の中で必死に抵抗していた。噂に違わず美しい声だ。本当にこれがあの荒くれ者のヴァン=ブランの声なのか?
最初の夜などは雷が鳴った時のようにヒゲがピリピリと震え、思わずうっすらと鳥肌がたったくらいだ。
「フン、なによ。これくらいなら世の中にはもっともっと歌のうまい猫なんていくらでもいるんだから…… たぶんだけど」
20日を越えてイシャータは初めてちらりと顔をのぞかせた。それが陰りを見せ始めたヴァンの自信に小さな芽を紡いだ。
──そうさ、俺の歌が胸に響かないわけがないんだ!
30日を過ぎてもヴァン=ブランの声は衰えをみせない。それどころか日に日に精度を増し、イシャータの心の門番を次々となぎ倒していく。
──まだたったの一ヶ月じゃない。すぐに飽きるに決まってるわ……。
そんな風に思い込もうとはしてはみたが、なにより雨の日も風の日も一日たりとも間を空けずに訪れるヴァンの姿に大きな柱が揺らぎ始めているのをイシャータは感じずにはいられなかった。
(わかったわ、ヴァン=ブラン。あなたがもし100日間、休まずに私の庭の前で、私の聴いたことのない歌を100曲歌ってくれたらその時は考えてやってもいいわ──)
イシャータとそんな約束をしたちょうど半分の50日を過ぎたあたりでヴァンはひどい熱にうなされた。昨晩、雨ざらしの中で歌い続けたからに違いない。
もうすぐ夜中になろうとしているのに立ち上がるのさえ必死な状態だった。
そんな状態にも関わらずヴァンの中からまた新しい歌は生まれてくる。
──これはいい。これはサイコーだ! この歌をあいつに聞かせないでどうする……。
──ほらね、思った通りだわ。続くわけないのよ。
イシャータは勝ち誇っていた。
しかし……。なんだろう、この気持ちは?
モヤモヤした感覚で眠れない。
──何よ。ちょっと遅すぎない? マジでやめちゃうわけ?
イシャータは思い切ってベランダに出てみることにした。
ヴァン=ブランがフラフラと庭に入ってきたのは丁度その時だったのでイシャータはドキリとしてしまった。
二匹が顔と顔、そして目と目を合わせたのは約40日ぶりとなる。
ヴァンはニヤリと笑みを浮かべると「レディース& ジェントルマーン!」とおどけて見せた。
息づかいが荒い。
体調が悪いのは誰が見ても明らかだ。その夜の曲は今までの中でも最高の出来だったといえるがそれを歌うヴァンの声といえばガラガラでそれはそれは酷いものだった。
──何よこれ? 聞いてらんないわ……。
そんな気持ちとは裏腹に、それはイシャータが初めてフルコーラスをベランダの上で聴いた夜となった。『あの映画ではこのエピソードの結末はどうなっていただろう? 』そんなことを考えながら。
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65日目の朝、ヴァン=ブランに異変が起きた。
曲がうまく完成しないのだ。
こんなことはヴァンにとっても初めてだった。歌が閃かないわけではない。ただ、納得がいかないのだ。得体の知れない焦りの中、なんとかその夜は歌い終えることが出来たものの初めてヴァンは“歌う”ということに恐怖を覚えていた。
その日からヴァンにとって地獄の日々が始まった 。
75日目。
まるで“乾いた雑巾”を絞るような日々が続いている。本来、“無”から何かを作り出すということは突き詰めて言えば自分自身と向き合う作業に他ならない。
俺は本当にイシャータのことが好きなのか? ただクローズのことを忘れようとしてるだけじゃないのか? ──そんなことから始まり、
こんなことをしてイシャータが本当に振り向いてくれるのか?──と続き、
そもそも俺はいったい何をやってるんだ? 毎日毎日メスの気を引くためにこんなことをやってる日々に何か得るものなどあるのか? ──と、重みを増す。
そういった様々な疑問が行列をなし、ヴァンの答えを待ちわびている。まるで底のない奈落に向かってどんどん落下していく気分だった。
そして最後には、いつしか、
俺とは何者なのだ?──
何のため生きている?──
そういった
85日目。
ヴァンは憔悴していた。
どうしても心の奥底から歌が生まれてこないのだ。幸か不幸か耳を澄ませばメロディは溢れてくる。くるのではあるが──
俺は一度だって努力をしたことがあっただろうか? ──ふと気を抜くと疑問はまた顔を覗かせる。
俺の歌なんて、完成された絵に半紙を乗せて“なぞっている”だけじゃないのか? ──
ヴァンはいかに自分の歌が薄っぺらで
これでみんなが喜んでくれるだと?
ちゃんちゃら可笑しい。
ヴァンは自分の名前の由来ともなる“鳥のヴァンブラン”の物語をいつしか思い返していた。『なるほど声を盗まれるとはこういうことか……』全てがあの物語どおりに進行している皮肉にただ苦笑するしかなかった。
95日目。
ヴァンは行き場のない叫び声をあげた。
『ダメだ…… 俺の歌はクソだ! クソ以下だ』
これは実質的にヴァンの敗北宣言だったといえる。いったい自分が何に負けたのかすらわからないまま。
99日目。
ヴァンはとうとうオリジナルの曲を99日 歌い通した。約束の日まであと一日である。
イシャータは真剣に想いを巡らせた。
──ヴァンはやり遂げた。明日の夜は私が答えを出さなければならない。
その日、ヴァンはひょいと塀の上に飛び乗ると、いつもよりも長くイシャータの顔を見つめた。もちろんそれがしばしの別れになるであろうことなどその時のイシャータには気付く術もない。ヴァンは振り返ると闇の中へ勢いよくジャンプした。
それ以来、N区でヴァン=ブランの姿を見かけた者はいない。ただイシャータの目に銀色の残像が残っているだけだ。
イシャータはのちにそれが映画のエピソードの結末と同じだということを思い出した。
主人公の少年は老人に尋ねる。
『どうして彼は去ったの? たったあと一日じゃないか?』
老人は答える。
『さあな、それがわかったらわしにも教えてくれ』
そしてそれはイシャータの気持ちと同じだった。
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