二十一話 十四日間の夏季講習

【三日目】


 八時三十五分に俺は講義室に飛び込んだ。

 八時三十分では早すぎた。

 八時四十分では遅すぎた。

 よかった、今日も隣は空いている。

 俺は何気ないふうを装って、牧瀬まきせさんの隣の席に腰を下ろした。


「おはよう」


 精一杯さりげなく俺はあいさつする。

 向こうはこっちに少しだけ顔を向け、軽く頭を下げるだけ。

 すぐに参考書に視線を戻す。

 この程度のやり取りでも俺は幸せいっぱいだった。

 中学三年の夏。

 受験勉強で潰れるとばかり思っていたが、こんな出会いがあるなんて。

 この塾は夏季講習の間だけ来るつもりだったが、彼女がいるならこのままずっと通ってもいいかもしれない。

 ただ、他の中学の子なのでまるで接点がないのが困りもの。

 それどころか牧瀬さんは誰とも打ち解ける気がないようだ。

 ずっと固い表情のまま参考書から目を離そうとしない。

 赤いメタルフレームのメガネの奥には切れ長の目。やや厚めの潤んだ唇。三つ編みをひとつ後ろに垂らして。

 見てるだけでうっとりしてしまうが、じろじろと見るわけにはいかない。

 九時になって講義が始まる。

 今日もあいさつ以外何もできなかった。

 もっと仲よくなりたいんだけど……。




【五日目】


 この塾はそこそこ難しい内容を教えるとは聞いていた。

 だから俺には無理だとごねてみたが、母さんは無理矢理に夏季講習なんてものに放り込んだ。

 母さんには半分感謝している。

 牧瀬さんと出会うきっかけを作ってくれて。

 母さんを半分恨んでいる。

 やっぱり難しすぎるって、ここ。

 数学の小テストを解きながらうなる俺。

 小テストは隣の子と答案用紙を交換して答え合わせをする。

 つまり牧瀬さんと、だ。

 正直キツい。

 この子は顔もいいが頭もよかった。

 ほとんど毎回満点だ。

 一方の俺は……ツラい……。

 答え合わせが終わって、満点の答案用紙を彼女に渡す。

 俺は十点満点の四点……。


「因数分解が苦手なのね」


 思いがけず牧瀬さんの方から話しかけてきた。


「う、うん。まぁね……」

「そう、頑張って」


 ふいっと前を向いてそれっきり。

 「じゃあ、手取り足取り教えて、あ・げ・る」なんて展開にはならなかった。

 まぁ、そんなうまい話なんてないよな……。




【七日目】


 相変わらず講義の内容は難しいし、牧瀬さんとは会話ができない。

 俺の心は折れる寸前だった。


「きゃっ」


 かわいい声がしたので横を見ると、牧瀬さんが驚いたような顔をしている。

 ほとんど表情を露わにしない子なので俺も驚いた。

 焦ったふうに机の上を手で撫で回しているのを見て、何があったのかようやく分かった。

 メガネのレンズが落ちてしまったのだ。


「どうしよう……」


 ようやく見付けたレンズを手にして途方にくれている。

 ちょっと勇気を振り絞って俺は声をかけた。


「俺、直そうか?」

「え? 直せるの?」


 まっすぐ視線を向けられてドキドキしてしまう。

 顔が赤くなっていないようにと願いながら俺は話を続ける。


「メガネのネジが緩んだんだろ? 俺、精密ドライバー持ってるんだ」


 弟もメガネをかけていて、やっぱり前にレンズを落としていた。

 構造はそう違いはないはずだ。


「うん、じゃあお願い……」


 おずおずとメガネを外す牧瀬さん。

 普段メガネの子の素顔を見てしまうとものすごく照れくさいのはなんでだろう?

 直視できなくなった俺は顔を逸らし、自分のカバンの中をごそごそして精密ドライバーの六本セットを取り出した。

 彼女のメガネを見てみるとやっぱりフレームのネジが緩んでいるだけだった。

 レンズをフレームにはめ込んでから、ドライバーのひとつを使ってネジを締める。

 これでよし。


「はいどうぞ」

「ありがとう」


 ぱっと花が咲いたみたいな笑顔。しかも素顔。

 俺の顔は絶対に真っ赤になっている。


「あ」


 と牧瀬さんはホワイトボードの方を見る。

 もう大分先に進んでしまっていた。


「あの、ありがとね」

「おう、いいっていいって」


 牧瀬さんはもう一度だけ微笑むと、前を向いて講義の方に集中しだす。

 俺の方は当然講義なんて上の空で、ずっと彼女の笑顔を反芻した。




【八日目】


 八時三十七分に講義室へ。

 よかった、席はまだ空いていた。

 今日も牧瀬さんの隣に腰を下ろす俺。

 ふっと彼女が俺の方を向く。


「おはよう」

「お、おはよう」


 思いがけず向こうからあいさつされた。

 しかも微笑み付き。

 あれ? あいさつ以外にもいつもと違うところがある?


「メガネ変えた?」


 なんとなく聞く俺。

 相変わらず赤いフレームだけど、前は光沢があったのに今日のは光沢のないマット仕上げだ。

 途端に牧瀬さんが顔を耳まで赤くする。

 やべ、ヘンなこと言った?

 女子にメガネが変わったことを指摘するのはダメなの?


「うん……ネジが緩みやすくなってるらしいから、いっそのことで変えたの。……あの、ヘン……かな?」

「ううん、よく似合ってるよ」


 そう言うと首をすくめて照れてしまった。

 思わず抱き締めたくなる衝動をこらえていると、彼女が「あっ」と声を出す。


「ゴメンね、昨日せっかく直してくれたのに変えちゃって」

「え? いいよいいよ」


 ただネジを締めただけなのだ。


「ありがとう。とっても助かった。でも……?」


 と首をかしげる。


「なんであんな小さなドライバーなんて持ってたの?」

「ああ、俺ってラジコンやってるの。ラジコンヘリ。それで使ってたのを入れっぱなしにしてたんだ」

「へぇ、ラジコン……」


 お、興味持ってくれた?


「やっぱり子どもみたい……」


 ぼそっとつぶやかれた。


「え、いや、ラジコンヘリはどっちかっていうと大人ばっかりなんだぜ? 結構難しくってさ……」

「あっ! ゴメン、予習しないと……」

「そうだねそうだね。どうぞどうぞ」


 両手を合せて申し訳なさそうな顔をした後、すぐさま牧瀬さんは参考書を読みふけり始める。

 そっか……ラジコンは興味なしか……。




 そして今日の講義が終わる。

 すぐに隣の牧瀬さんは帰り支度をしていく。

 もう夏季講習も半分を過ぎてしまった。

 このままちょっと話をするお隣さんで終わるのはイヤだな。

 もうちょっと仲よくなりたい。


「ねぇ、牧瀬さん」

「ん、何?」


 立ち上がりながら牧瀬さんが応える。


「連絡先、交換しない?」

「連絡先? なんで?」


 やっぱりガードが固い。

 でも……。


「息抜きに、ちょっと話したいな、とか?」

「息抜き……」


 眉間に皺をよせて思案顔。

 やっぱり二人の仲はまだ微妙な段階だったのか?


「うん。あ、勉強の邪魔はしないから。それは気を付ける」

「……うん、……まぁ、……いいよ、別に?」


 そして連絡先を交換し合う。

 ここまで緊張した連絡先の交換は初めてだ。

 ガード固ぇ……。

 でも、ちょっとずつ前進してるぞ!




【九日目】


 八時三十二分に講義室に入る。

 あ、牧瀬さんはまだ来ていない。

 彼女が他の空いている席を選ぶ可能性があるので、俺はいつもあの子が座った後にここへ入るようにしてたんだけど……。


「おはよう」

「あ、おはよう、牧瀬さん」


 後ろから声をかけられた。

 それから彼女はいつもの席へ。

 俺もさりげなくを装いその隣の席へ。

 そして牧瀬さんに話しかける。


「昨日言ってたマンガ、持ってきたんだ。貸すよ」


 昨日、さっそくメッセージのやり取りをして、マンガの話で少し盛り上がったのだ。


「え? そうなんだ……」


 ちょっと暗い顔。


「あ、いや、無理にとは言わないけど」

「うーん、面白いんだよね?」

「うん、すげぇ面白いぜ」


 そう俺が言うと、いっそう表情が暗くなる。なんで?


「面白いと、勉強が手に付かなくなるかも……」

「そんなに根詰めて勉強しすぎるのもどうかな?」


 前から思っていたことを言ってみた。

 牧瀬さんは勉強熱心だけど、熱心すぎるようにも思えたのだ。


「でも私たちは受験生なんだから。まずは勉強しないと」

「そうだけど、ちょっとずつ息抜きしてかないと来年まで保たないぜ?」

「そうかなぁ……」


 首をかしげて不満顔。

 しばらく様子を見ていると顔を起こしてうなずいた。


「だよね。ちょっとは息抜きも必要だよね」

「そうそう。今日は五冊持ってきたから……」

「五冊! 五冊は多いよ!」


 初めて聞く大声。


「そ、そうか……」

「重くて持って帰れないよ。一冊だけ貸して?」

「うん、じゃあ一冊」


 と、彼女に手渡す。

 指先がちょっと触れ合った。




【十日目】


 今日も牧瀬さんと隣同士。

 マンガは気に入ってくれたみたいで、講義の前に感想を言ってくれた。

 そして帰り際。


「あ、ちょっと待って」


 なぜか声を潜めて。


「あの……これ……」


 と人目をはばかるようにしてカバンから出したのは小さなタッパー。


「何これ?」

「クッキー。家で作ったの」


 え! 手作りクッキー! 牧瀬さんの!


「……お母さんが」

「ああ、お母さんが……」


 がっかりしてしまう。


「マンガを貸してくれたお礼に……ってことで。お母さんのクッキーはおいしいよ」

「じゃあ、ありがたくちょうだいするよ」


 甘いものは嫌いじゃない。

 それに、牧瀬さんがわざわざ俺のために持ってきてくれたのがうれしかった。


「あ、いちおう私も作れるんだよ、クッキー」

「へぇ、食べてみたいな」


 思ったままをぽろりと言ってしまう。


「え? 食べてみたいの? 私が……作ったクッキー……」


 赤いメガネの向こうからじっと見つめてくる。


「いやいや、催促したわけじゃないよ? それはちょっと図々しいよね?」

「図々しい? そうは思わないけど、今は忙しいからお菓子作ってる暇はないかな?」

「まぁ、そうか、だよね」


 ちょっと仲よくなったからって欲張りすぎはよくないか。

 自制自制……。

 と、牧瀬さんがにっこりと笑みを向けてくる。


「クッキー、受験が終わったら作るよ。その時食べてほしいな」

「ホント? 手作りクッキー?」


 思わず立ち上がって大きな声を出してしまう。


「いや、そんな期待されるほどおいしくはできないよ? じゃあ、また明日」


 ひらひらと手を振って、赤い顔をした牧瀬さんが講義室を出ていった。

 



【十一日目】


 講義が始まる前。

 俺が一枚のチラシを見ていると、牧瀬さんが横から覗き込んでくる。

 肩が触れそうなくらい接近されて胸がドキドキしてしまう俺。


「これがラジコンヘリなの?」

「うん、そう。今度、俺が入ってるクラブで飛行会があるんだ。みんなしてヘリを飛ばすの」


 チラシにはラジコンヘリの大きな写真を中心に、場所や日程が書かれてあった。


「へぇ……。面白いの?」

「うん、面白いよ。ちょうど夏季講習が終わった次の日なんだけど、牧瀬さんも来ない?」


 さりげなくを装って。


「え? なんで?」


 冷たく言われてしまう。

 俺から離れて自分の席につく牧瀬さん。


「いや、息抜き息抜き」


 内心の焦りを抑え込みながら取り繕う。


「ダメだよ。私たちは受験生なんだよ?」

「うん、そうだね。ゴメン、もう誘わないよ」

「違うよ。キミだって受験生なんだよ? ラジコン飛ばしてる暇はないはずだよ?」


 きつい調子で俺に言ってくる。


「大丈夫だよ、一日くらい。夏季講習が終わった後のご褒美だよ」

「ダメ、そういう考えはダメ。受験を生き残れない」


 彼女の視線は厳しい。


「いやいや、大げさに考えすぎだよ」

「キミ、分かってるの?」

「え、何が?」

「キミ、未だに因数分解もちゃんと解けないんだよ? なのに遊んでる暇なんてないはずだよ?」


 毎回小テストの採点をし合っているので、こっちのでき上がりは知っているのだ。

 確かにそのとおり……だけど、人に言われると腹が立つ。


「俺が因数分解解けないの、牧瀬さんになんか関係あんの?」


 思った以上にきつく言ってしまって後悔する。

 でも、手遅れ。


「そっか、だよね。キミは一人でだらだらと堕落していって、脱落すればいいんだ」

「おい、そういう言い方って……」

「マンガありがとう。でも、これ以上私まで堕落させないで」


 貸していたマンガを俺の前にバンと置き、荷物一式を持って立ち上がる。


「いや、ちょっと待てって」

「話しかけないで、二度と」


 きつくひと睨みした後、牧瀬さんは席を移動してしまった。




【十四日目】


 今日は夏季講習の最終日。

 九時五分前に俺は講義室に駆け込んだ。

 どうにかセーフ。

 ここ数日はいつもギリギリだ。

 後ろの方に空いている席を見付け、腰を下ろす。

 赤いメガネの女子は一人ぽつんといつもの席に座っている。

 あの子が俺以外の生徒と話をしているところは結局一度も見なかった。

 彼女はあくまで受験第一。

 他の生徒と馴れ合うつもりはないのだろう。

 それなのに、牧瀬さんの背中はとてもさみしそうに見えた。




 最後の講義が終わる。

 みんなが伸びをしたり遊ぶ相談を始めたりする中、俺は牧瀬さんの席へと駆けていった。


「牧瀬さん!」


 しかし彼女は俺を無視して席を立とうとする。


「ちょっと待てって」


 掴んだ彼女の腕は細くて柔らかくて俺の胸をどきりとさせた。


「触らないで」


 彼女はあくまで冷たく言う。


「これを見てくれ」


 牧瀬さんの前に一枚の紙切れを差し出した。


「え……へぇ……」


 彼女はその紙を見て、ちょっと気の抜けたような声を出す。


「数学小テスト、満点、因数分解、完璧」


 俺がそう言うと、牧瀬さんはようやく俺を見てくれた。


「頑張ったんだ」


 微笑みを浮かべて。


「うん。俺だってちょっとは頑張るんだよ」


 彼女の腕から手を離してももう立ち去ろうとはしない。


「ごめんなさい、ヒドいこと言っちゃって」


 牧瀬さんが小さな声で言う。


「いいよ、俺が堕落してるのは事実だし」

「今のはイジワルな言い方だ」


 ちょっと口を尖らせて。


「でもああ言ってくれたおかげで頑張る気になれたんだ。ありがとう」


 俺が笑いかけると向こうも笑みを見せてくれた。


「それで……その……私からも……」


 もたもたとカバンの中を探り、取り出したのはタッパー。


「クッキー。私、作ってみたの」

「え? いいの? 忙しいのに?」

「……キミに食べてほしかったの。なのに私、こんな奴だから……」


 牧瀬さんがうなだれてしまう。

 その姿を見ているだけで、俺の胸はじんわり温かくなった。


「牧瀬さん、仲直りしてくれる?」

「うん……こちらこそ、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げてくる。

 なんだか結婚でもするみたいだ。


「また会ってくれる?」


 俺がそう言うと、牧瀬さんは顔を上げてうれしそうに笑う。


「うん、一緒に勉強しよう。さっそく明日図書館に……」

「あ、ゴメン、明日はラジコンヘリの飛行会で……」

「何それ?」


 厳しい厳しい目付きで睨んできた。


「い、いや……息抜きというか、俺の生き甲斐っていうか……」


 しどろもどろな俺。


「ふふ、冗談だよ。会うのは明後日にしようか。二人で受験を乗り切ろうね」


 俺の肩をぽんぽんと叩くと、牧瀬さんは軽やかな足取りで講義室を出ていった。

 ちょっとは期待してもいいのかな?




【一日目】


 今日から夏季講習だ。

 前の塾みたいないざこざに巻き込まれるのは勘弁なので、貝みたいに心を閉ざしてやり過ごそう。

 受験生が色恋だなんて馬鹿げている。

 講義が始まるまでは予習をしていく。

 寸暇を惜しんで受験勉強に励むのだ。

 と、いきなり誰かが机に突っ込んできた。


「セェェェフッ!」


 大きな声を張り上げる。


「アウトだよ」


 私は思わずつぶやく。もう九時一分なのだ。

 その男子は私の隣の席に陣取った。

 こういう頭が悪そうなのが隣なんて勘弁なのだが。

 頭が悪そうというのは修正しなくてはいけない。

 実際に頭が悪い。

 私が答え合わせをした数学の小テストは十点満点の三点。

 特に因数分解が壊滅的だ。

 触れるのすらイヤになってくるその答案用紙を隣の席に突き返す。

 向こうも私の答案用紙を戻してきた。


「牧瀬さん、すげぇな! いきなり満点じゃん!」


 目を見開き、鼻の穴を広げ、口を半開きにした馬鹿面。

 こんな馬鹿面を中学三年にもなって女子に向かって晒すような奴がいようとは。

 ……すごく純真。

 ……とてもいいと思います。

 受験の鬼たる私が、恋をした瞬間である。




(「十四日間の夏季講習」 おしまい)

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