第3話水面
酷く時間がゆっくりと流れていた。週に一度、顧問が付き添わない日がある。付き添うといっても池の淵にあるベンチで本を読んでいるか、その本で顔を覆って寝ているかのどっちかしかないのであるが。今日がまさに、その日であった。水面に浮かぶ桜の花びらの中をカヌーは進んでいた。波跡が花びらをゆっくり揺らし、壊して進んだ。恐ろしく綺麗だった。自分が進んでいることの証明ができたみたいだった。奏は漕ぐのをやめ、深くまで足をのばし体勢を低くした。自分が自分でなくなるような感覚を覚えた。俗ではない環境にいると思えたのである。
気づいたときには、友の笑い声も水をかき回す音もなく、自分の鼻息と虫の声しか聞こえなくなっていた。辺りは少し薄暗くなって林は少し不気味さを増していた。ちっとも寂しくもなく、眼前に広がる光景の美しさに魅了されていた奏だったが、左腕の時計が18時を指していたのに気付き仕方がなく切り上げようと思ったのだった。
「流石に疲れたな」
船のボディに着いた花びらを落とすように水をかけていき、奏は満足げな表情を浮かべていた。水上に三半規管が狂ってしまったようで、少しおぼつかない足取りで片付けていくのだった。全てが片付いたのが19時5分前、変にだるくなっていつもは顧問が陣取っているベンチに腰掛け、水面を眺めていた。大きく欠けることのない月が浮かんでいている。
【件名:飯は食ってくるからいらん 宜しく】
もう少しだけ残っていたくて、奏は件名だけうったメールを母親に送った。メールの送信完了を伝えるバイブを確認し、手を止めふと顔を上げると池の対岸に富池高校の制服を着た女が立っていた。顔は暗くて確認できない。その女はジッと池に浮かぶ月を眺めていた。奏は幽霊や妖怪の類かと焦ったが、その後その女に足があることを確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。奏は対岸に行ってみることにしたのだった。
「カヌー部への入部なら大歓迎ですよ」
恐怖と好奇心が入り混じったため、少しギザなことを言ったものである。奏はちょっとクサい台詞だったなと反省した。
女の顔を確認しょうとしたのだが、ちょうど木の影と重なり薄暗かったのだった。
女からは返事がなかった。ただの女生徒のようだ。
「なぜ池に映る月を見ているのですか、薄暗くてよく見えないでしょう」
奏は続けてそう言った。
奏が質問を問いかけた後、沈黙と木の葉の騒めきが訪れた。次の瞬間、辺りが少し明るくなった。月がすごく近くにあると感じるほどだった。
「怖い」
その端正な顔立ちは、奏にとって馴染みが深いものだった。青白く透き通るような肌は月光に照らされてより白く輝いていた。望月かぐやだった。彼女は何かに怯えているようだった。
「怖いってあんなに綺麗な月なのに」
「ただ卑しくて、汚いだけ」
「僕には分からないな」
奏は眉をひそめた。
「今から言うことを笑わないで聞いてくれます…か」
望月の顔に影がさした。奏は何か思い悩みこんでいる彼女を受け止めようと思った。
肯定の意味を含んだ相槌を奏ではうった。
「実は私、この世界の人間ではないんです」
望月は言ったことを後悔しているのか、少し曇った表情をしていた。
「確かに、いい意味で浮世離れした人だとは思うけど」
「そういう意味ではありません。私は、月の住人なのです」
奏は、えっと素っ頓狂な声を上げた。本当は痛い人なのかなと思ってしまった。少々、ふざけているのかなとも思ってしまったのであったが、何らかの事情があるのだろうと一旦落ち着くことにした。
「何でそれを僕にわざわざ言うの」
とりあえず奏は、なぜ自分に言うのかと言及した。
「私に話しかけてくれる男子があまりいないし、頼れそうな人もいなかったから」
「それは、おかしいんじゃない。だって今日の放課後だって村井先輩に告白されていなかったか、あの人に言えば良かったんじゃないか」
「村井先輩には告白される前に打ち明けたのですが、話を受け入れてくれる素振りもなく馬鹿にされ」
続けてと奏は、手で話しを促した。
「その後、そこの間の記憶を消して帰りました。といっても貴方は信じてくれないでしょうが」
「いや、頼ってくれたのなら、僕は君を信じるよ。まぁ、でも少し疑っている部分もあるのは否めないけど」
「それでも、構いません。信じてくれる人が1人でもいてくれたら私は…」
俯いていたために顔は見えなかったのだが、彼女の声音から泣いているのがわかった。ただ黙って話を聞いているだけなんだけどなと奏は思った。実際には五割信用しているといったところだった。あまりにも話に脈絡も何もなく、ぶっ飛んでいたからだ。
「何か、証明はできないの」
「証明ですか、できるといえばできますが従者が追ってくる危険があるのでできない」
望月はトーンを落として言った。
「正直に話すと、何か絶対的な根拠が無いと完璧には信用できない。月の住人とか従者とかそれじゃあまるで、かぐや姫だ」
二回目の沈黙が二人の元へ訪れた。月がさっきより近くなったと感じるほど水面がキラキラと光を反射していた。その光は望月の顔色をユラユラと変えていた。その後、望月は少し俯いていたのを直し、奏の目を見つめた。
「私はかぐや姫です」
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