第22話 夜明け前の夕暮れ

「ん……」

 皇帝への謁見がつつがなく終わり、陽が西の果てに吸い込まれ、昼が夜に呑まれるころ。

 ティルは帝城のテラスに一人立っていた。

 ……ここからの風景は、やっぱり素敵だ。

 臣民からみだりに姿が見えてはいけないと、公の式典でしか立つことが許されなかったテラス。

 見下ろすと港まで遠く広がる家々と街道。宵闇に覆われはじめる屋根の群れは、火の光を灯しはじめていた。

 肌寒くなった海風にあたりながら思い返すのは、先の謁見のことだ。

 ……カズキさんたち、すごかった。

 謁見はおおむねカズキたちの思惑通りに運んだと言える。

 武力を背にした半ば強引な協定。

 だが同時に、イデアが遂行すると約束した事業は、帝国を豊かにする助けとなるだろう。

 作物が実らない、魔物や盗賊に襲われた、流行り病で村が……それら悲鳴のようにティルの心に残響していた嘆願。

 ティルはそれを事前折衝で伝え、カズキたちは農業協力や治安維持、疫病対策や国境防衛として形にしてくれた。

 きっとそれらの事業を通じて、カズキたちは悲しみを食い止めてくれるはず。

 そうすれば帝国はこれから良い方向に変わっていくに違いない。

 ……でも、私は。

 その謁見により協約は成り、曲がりなりにも帝国とイデアは協調への歩みを始めた。

 今、カズキたちは帝国の官吏たちとその後の細やかな折衝、調整を始めている。

 様々な交渉のための約束ごとや連絡方法など。相互の身分の取り扱い方法などを話し合うなかで、ティルについての扱いが話題に上がった。

 そこで告げられたのは、

 ……私はもう、“巫女”ではない、ということ。

 帝国には既にティルが座る椅子がない。献身の巫女は既に次代が誕生し、その座に就く手はずが整っている、と。

 ……それは、そうですよね。

 ティルとしても、そのこと自体は全く不思議ではなかった。今回の謁見のことに夢中ですっかり忘れていただけ。

 天の御遣いに召されたという前提で考えれば、儀式のすぐあとからでも次代の巫女を立てる準備をすることは全くおかしなことではない。

 事実、今日この日まで帝国の誰もが本当にティルが帰ってくるとは思っていなかっただろうし、カズキたちイデアを先導してみせたティルの姿に少なからず疑念を覚えた者もいたことだろう。

 イデアを天の御遣いとしておきたい国法庁としても、次の巫女を立てることで、ティルは曲がりなりにも御遣いの下へ導かれたのだという印象を臣民に与えたいと考えているはずだ。

 ゆえに、ティルは今、広いテラスにひとりぼっちでいる。

 いままでは、願っても自由に立てなかった場所。それが、今は見張りもなく、ふらっと立ち寄れば咎められもしない。

 この状況は端的にティルが帝国にとってその価値を失ったことを示していた。

 ……これから、どうなるんだろう。

 巫女としての任は名実ともに終わった。

 人々の悲しみや苦しみを、天の御遣い――それに近いカズキたちイデア――に届け終わった今のティルには、巫女としての立場も任も存在しない。

 背負ってきた何もかもがポッカリと消えてなくなったような虚脱感か、どうにも落ち着かずにティルはさっきから何を目的にするでもなく城内をぶらついていた。

 流石に肌寒いし、もう離れようか。そう気まぐれに身を翻した、その時だった。

「ティル様……ティル様ですよねっ!?」

 うわずった声が、ティルの名を呼んだ。

 廊下に見えた声の主の影は暗く顔も解らなかったが、それが誰なのかティルはすぐに解った。

 生まれた時から聞き馴染み、忘れるはずもないそれは、

「レファ……!」

 呼びかけに応えるように駆け寄ってきたのは、まぎれもなくティルの世話係であったあのレファだった。

 その姿を見たのは、あけぼしへ導かれたあの日以来。彼女は記憶と何一つ変わらない姿で、その瞳には目一杯の涙をためて。

「ティル様! ご無事で……ご無事で何よりでした……!」

 駆け寄り、レファは両腕でティルの身体を抱きしめる。

 その重みもぬくもりも匂いも、間違いなくレファのもの。

「ああ、ティル様、ティル様……まさか、またこうしてお会いできるなんて、夢のようです!」

「うん。……帰ってきてしまいました」

 今生の別れを覚悟した相手との再会に、少しだけ気恥ずかしさを覚えながらも、それでも喜びが上回った。

「いいのです。こうしてまたお会いできたこと――私、私は……」 

 それ以上レファの声は言葉にならず、ティルも目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。

 かつて自分から甘えていたときとは逆に、優しく強い懐かしい匂いに抱かれながら。

 そして、どれだけの時間が経っただろう。

 レファが泣き止み、身体を離してようやく二人は視線を交わした。

 両手は互いに握ったまま。言葉を発したのはレファが先だった。

「教えてください、ティル様。これまで御遣い様の下で何があったのか。今はどうされているのかを」



《やー、かずきっちゃんは働き者だねぇ》

 帝城内の廊下で、和貴は緩みきった女性の声を聞いた。

 声の主は、先程から和貴の護衛についていたガタイのいい黒尽くめの男性――を通じて通信を飛ばしてきた、八智だ。

 生体部品を使い、外見を人間と見紛うように作られた要人警護型の機械人間アンドロイド。戦闘判断に特化したAIを積んだこの機は、基本的に八智たち降下軍揚陸機動大隊の戦術管制室オペレーションルームからの指示で運用されている。

 八智はそのオペレーターであり、十数機の機械人間を同時に指揮運用する立場にある、のだが。

「八智先輩、そのナリでいきなり先輩の声がすると結構びっくりするんですけど」 

《ギャップ萌えだよね。筋肉ダルマが美少女ボイスで内面乙女アピール》

「変なこと言ってないで仕事してください。また無線を私物化して……」

《だって敵が妨害して来る感じもないし、帝国さんもおとなしいし。ぶっちゃけおねーさんヒマなの》

廊下こっちはいま僕しか居ませんけど、そっちは管制室しょくばでしょう。他の人に聞こえますよ?」

《みぃちゃんと中隊長はごはん休憩行ったし、大隊長も席外してるみたいだし》

「……熊野さんと谷町さんはいいんですか」

《うん。私がいちばん強いから。ねー?》

 その後のわずかな無言と、《ふふん》と満足そうな鼻息に、和貴は無言で目をそらした。

《ってか、かずきっちゃんはさっきから何バタバタ走り回ってんの?》

「ティル様のことで。ちょっと気が回らなかったというか、まずい状況になりそうなんでフォローを」

《いいねぇ。マメな男の子はモテるよ?》

「冗談。モテたことなんてないですよ」

《うんにゃ、事実ティルちゃんにはモテモテだと思うよ? いっそ付き合っちゃえば?》

「いやいやいや。ヘタしたら星間問題に発展しますからねそれ」

《面白くないなぁ、一気に行っちゃおうよ! だいたいそんなこと気にしてるからモテないんだよヘタレちゃんめ!》

「僕の評価一瞬で逆転しましたね」

 八智の言葉は話半分に聞けとの満葉の教えを守り、和貴は口で反応しつつも思考では完全にスルー。

 早足で目的の人物を探していたが、

「あ、いた。ティル様――」

 展望テラスらしい場所で、使用人らしい誰かと話している姿を見つけた。

 ……取り込み中か。

 しばらく八智先輩と雑談でもして待とうか、と思って柱の陰に隠れようとした時。

「あ……」

 ティルがこちらに気づいたのか、小さく手を挙げたのが見えた。



「ごめんなさい。邪魔しちゃいましたか」

 ティルの呼びかけに気づいたらしいカズキは、苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。

 その後ろにピッタリとつくのは黒尽くめの強面の男性。

 禿頭で瞳は黒いメガネのようなもので隠されている彼は、八智たちが操る警備の機械兵士だとティルも教わっていた。

 二人の異人を前に、レファは僅かに目を細め自然にティルをかばうように前に立った。

 ……警戒してるなぁ。

 その動きに、ありがたいものを感じながらもティルは苦笑。裾を引っ張って、自分の後ろに戻す。

「大丈夫ですよ。レファ」

「しかし……」

「紹介しますね。お話した外交官のカズキさんと、あけぼしの騎士さんが使っている兵隊さんです。――カズキさん。巫女をやっていた時に私の身の回りの世話をしていてくれた、レファです」

「はじめまして。イデアにおいて、貴国との外交に携わらせています。フシハラ・カズキです。こちらは警備の兵隊なのでどうぞお気になさらず」

 非の打ち所のなさそうな笑顔を浮かべるカズキと、敵意はないよ、と身振りで示す無骨な外見の男。

「……献身の巫女付き、侍従長をしていましたレファンドラ・エンディートです」

 その二人を訝しげに見ながら、レファはカズキが差し出した手をとり握手を交わす。

 ぎこちない空気に、ティルも少し引きつった笑いを浮かべてしまう。

「カズキ様には、ティル様が、“大変”お世話になったようで」

「いえ。僕にできることを精一杯やったまでです。力の及ばないことも多々ありまして」

「ええそうでしょう。ティル様を幼少からお支えしてきた私が側にお付き出来ていなかったのですから」

 ……レファが何か刺々しい!?

「ははは、全く仰るとおりで」

 カズキはさらっと受け流しているが、レファはどうしてか敵意むき出し。

 さっき、あけぼしについて話す中でカズキについてなにか悪いようなことを話しただろうか、とティルはあわてて思い返すが心当たりはない。

 自分がどれだけカズキに世話になり、彼がいかに自分に優しくしてくれたのかと語っただけだったのだけれど。

「今後はもう私がティル様のお側におりますので。お任せいただいて十分ですよ」

「それは頼もしい。やはり文化が違うと、どうしても行き届いた気配りということができなくて」

 レファの言葉にもカズキの笑みは崩れないが、ティルはあわてて不穏なやり取りを遮ろうとカズキに話しかけた。

「そ、そのっ、そう言えばカズキさん。どうしたんですかこんなところまで。なにかご用事でも?」

「ああ、そうそう。ちょっとティル様を探していまして」

「私に……何か?」

 何の用件なのか心当たりが浮かばず、そろそろ夕食の時間だっただろうか、などと場違いな考えに飛んでしまう。

「今ちょっと向こうでもめてる件があるんですけど、よかったらティル様の意見が聞けないかなって思って」

「私の意見でよろしければ……」

 なんだろう、とティルは言葉を濁しながら応える。

 謁見の場ならまだしも、専門分野における官吏同士の調整作業においてはティルは全く役に立たない。

 そんな自分の意見が要るような案件とはどんなものだろう、と疑問に思っていると、

「ティル様は、ザッフェルバルの総督代行をなさるおつもりはありませんか?」

「ふぇ?」

 完全に予想外の問いが返ってきた。

 驚きのあまり、思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、思わず赤面。

 カズキもそれを見て小さく笑みを浮かべ、それから説明を始める。

「ザッフェルバルは、跡継ぎがあのとおりまだ幼くいらっしゃいますから、いっそのこと成人まではこちらから総督代行を出せないかって話になりましてね」

 その方がイデアがあれこれ口出しする理屈が立つから、と帝国側の官吏の提案なのだそうだ。

「で、こちらの代表を誰にするか話し合ってたんですが、これがなかなか決まらなくて」

「あのサンジョウさんでは、ダメなのですか?」

「残念ながら支局長は国法法儀まほうの適性がゼロで。領主や官吏ならまだしも、総督がそれではお話にならないと帝国側が難色を」

 国法の奇跡が使えることが権威に直結しているこの国では、適性は大きな問題だ。

 いくら客分と言えど、そこの線は帝国としては譲れないと言う。

 むしろ、国法を開示しろと大口を叩いた分、ならば伝統は守ってもらうと帝国側は強気なのだという。

「それで適正のある人間を慌てて探した訳なんだけど……それはそれで、では権限のない人ばっかりになっちゃって」

 総督代行なんて大それた立場に立てる人間がいなかったんだ、とカズキは苦笑い。

 そこまで聞いて、ティルにもようやく話が見えてきた。

 そうか、ならばいっそのこと――。

「だからティル様。僕は貴女を総督代行としたい」



 帝国に帰っても、ティルには巫女の座がない。

 和貴にとってそれは完全な盲点だった。

 深く考えればその理屈には気づくことができただろうが、それ以外のことで奔走していた中では、全く寝耳に水も同然だった。

 ティルは帝国の窓口となり、自分たちとの交渉を受け持ってくれるだろうと、当然のように和貴はそう考えていた。

 だからこそ事前交渉の場でティルには交渉の作法からプレゼン技術やらを叩き込んだのだが。

 ……迂闊だった。

 帝国にとっては“巫女の座にいたのがたまたまティルだった”だけ。それは取り換えの効く部品のようなものだ。

 ケチがついたから新品に取り替えよう。そんな風に枢機卿連中の一存でどうにでもできるお飾りだったのだ。

 ティル自身が今後の境遇についてなど全く言及しなかったから、和貴も心配するという視点すら失ってしまっていた。

 事前にティルから相談の一つでもあれば交渉に盛り込んでおいたのだが、もはや後の祭り。

 帝国との事後折衝の中でティルの扱いを知った和貴は、すぐにその対応に名乗りをあげた。

 レーザー通信で軌道上のゆりかごにコンタクトを取り、中でツテのある友人たち何人かに根回しを済ませたうえで、第三探査船団における市民権の発行と、外交部の対帝国交渉オブザーバーとしての職位を与えられるように申請を出した。

 それらの手続きが終わって戻ってみれば、総督代行の話で紛糾しており――

 その場でよぎったアイディアが思いのほか好感触だったため、こうして和貴はティルの前へとやってきていた。

 この選択がおそらく最善だとの確信を持って。



「えっと、その……大変、光栄ではあるのですけれど……」

 ティルは戸惑った。自分でいいのか、と。

 総督は法官として家柄と業績に優れた、領国における皇帝の代理人。

 その地位は帝国貴族として枢機卿に次ぐ名誉であり、お飾りとしてどこからか引っ張ってこられてくる名ばかりの巫女とは重みが違う。

 ザッフェルバルでその名を冠するザッフェルバル家が代々総督を務める数少ない特例の領国ではあるが、その特例を通すべく、歴代当主はその地位にふさわしい人間たるべく過酷な教育を施されているという。

 ……私が、できるのでしょうか……

 今回の総督代行はイデアの意を受けてザッフェルバルの人々を導く立場にあるはずだ。

 ザッフェルバルの代表としても、イデアの代表としても、ティルは不相応であるような気がした。

 そして、記憶を手繰れば、カズキもそこそこの魔法適性があったはずだ。ならば、

「カズキさんは、名乗り出られないのですか?」

 翻訳魔法が通じ、自分と魔竜の会話に割って入ることのできたカズキ。

 全体的に適性が低いように見えるあけぼしの人々の中では、カズキの適性は高いほうだと感じていた。

 あけぼしが――イデアが領国ザッフェルバルを導くのだ。ティルからすれば、そちらこそが主で、魔法はほどほどの適性があれば十分だろうと思うのだが。

「僕は、そんな場所に立てるような立派な人間ではないですよ。それよりも、ティル様のように堂々と人々の前に立てる方がなるべきだと思いますけれど」

「でも……難しいお仕事ではないですか?」

「大丈夫ですよ。 最低限、僕らが書いた帝国語の原稿を読んでいただければそれで回るようにはします」

 それは、操り人形としてのお飾りであることを示す言葉。

 事実、それを肯定するようにカズキは言う。

「見方を変えれば、この仕事はある意味“巫女の仕事の延長”のようなものです。僕らイデアの言葉を受け取り、人々に伝えるという、ね」

「……なるほど」

 言われてみればその通りだと、ティルは思わず手を打った。

 彼らが実は御遣いではなく、ティルの肩書が巫女でなくなるだけで、やることは同じだ。

 カズキはさらに一つ言葉を付け加えた。

「もちろん、ティル様が望むなら、僕らイデアの意に反しないかぎりで領国の長として人々を動かすこともできます」

 イデアの意に反しないかぎり。その言葉にティルは瞬きの星の日にユミカに教えられた言葉を思い出す。

 ――まずはお勉強。何が最善かを知る。ティルちゃんのお願いが聞き入れられない原因はどこにあって、何が問題で、どういうお願いを誰にすれば通るのかを、学ぶこと。

 その時に、助けになってくれるのはカズキだ、と冗談めかして言われた事も思い出し、ティルはふと気付いた。

 ……そうか。これがカズキさんなりの助け方なんだ。

 巫女という立場を失った自分への、それでも抱く使命感と無力感への助け舟。

 なら――

 そこまで考えたところで、二人の会話を遮るように横から声が上がった。

「待ってください」

 今まで黙っていたレファ。彼女が険しい表情で一歩を踏み出していた。

「ティル様、止めましょう。もういいじゃありませんか」

 ……え?

 突然のレファの横槍に、ティルは思わずあっけにとられ、言葉を失う。

「もういい、って――」

「ティル様はもう巫女ではないんです。無理をしてそんな大変な役を引き受けなくとも良いではありませんか」

「…………」

 いきなり何を言うんだろう。そう思いながらも、レファの真意を読み取ろうと、ティルは沈黙を選んだ。

「覚えておられますか、ティル様。あなたは時折おっしゃっておられました。『あと何年。それまでになにができるのだろう』と」

「……それは、もちろん」

 それは忘れようもなく、常に感じていた危機感。

 献身の巫女として広く帝国を見通せる位置にあり、されどそれを救うための方法がほとんど与えられずにいた、いつかのある日にこぼしてしまった弱音。

 命の時限が迫るまでに、やるべきことを可能なかぎり成したい、という本音だ。

「私は、思い悩みながらも巫女という立場にどこまでも殉じるあなたを美しいと思っていました。――けれど」

 けれど、と否定を置いて言葉を切るレファ。

 言うべきか言うまいか迷ったようだったが、まもなく意を決したように口を開いた。

「それ以上に……巫女という立場に縛られて、いつも辛そうにしていたあなたを、哀しくも思っていました」

 ……レファが……そんなことを。

 いつも弱音を吐く自分を勇気づけ、時に叱咤してくれたレファが、そんなことを思っていた。それがティルには少なからず驚きだった。

 けれども、彼女の言う通りでもあった。巫女の仕事が楽ではなかったのは確かだ。

 弱音を吐きながら、それでも懸命にこなしてきた役目。

 カズキたちの下にいた日々があまりに衝撃で、新鮮な驚きに満ちていたため、ティル自身そのことを忘れかけていたのかもしれない。

「あなたが負っていた生け贄となるべきとされた運命は、一人の女の子にはあまりに重いものだと、思わずにはいられませんでした」

 ……思えば私が巫女としての使命について話した時、レファは、いつも哀しそうな顔をしていたっけ。

 励まし勇気づけてくれたけれど、どこか哀しげな瞳は変わらなかった。

「けれど、ティル様は生きて立派に巫女の任を終えられた――残酷なしきたりから、死の運命からやっと解放されたんですよ」

 レファはティルに訴える。

「これでも私は国法庁でも指折りの侍従です。少しなら蓄えがありますし、実家は小さくとも家柄のしっかりした家ですから、ティル様お一人ぐらいならちゃんと養えます。だから――」

 もう何もする必要はないのだと。

「もう、無茶などせずお休みください。ティル様は、十分すぎるほど頑張られたんです」



 ……確かに。おっしゃる通り。

 和貴は、どこか納得したようにレファという侍従の訴えを聞いていた。

 ティルはまだ十六の半ばを越したばかりの女の子だ。常識で考えればそんな子どもに領地を一つを預かれなどと言う自分の提案が無茶な話であることは、和貴も重々承知していた。

 だから和貴も、仮にティルが総督代行の案を拒絶しても構わないと考えていた。

 会議ではもう何人か候補は出ていたし、乗り気ではないものの最悪自分がこなしても構わなかった。

 付け加えるなら、ティルが遊んで暮らしたいといってもそれを叶える算段もできていた。

 けれども。

 ……僕の知っているティルは、きっとそんなことは望まない。

 気高く、頑固で、好奇心に満ちた彼女は――



 ……私は。

 ティルに課せられた役目は全て終わった。だから休んでもいい、とレファは言う。

 確かに巫女の役目は辛かった。命を捨てねばならない宿命は当然と思ってはいたけれども、不安もあった。

 そしてようやく、今のティルはそれらから解放された。ならばもう何もせずに休んでいてもいいのだろう。

 けれども。

「ごめんなさい、レファ。そのお願いは、聞けそうにありません」

「ティル様……どうして!」

 巫女という役目は、確かにティルの心と体を、その命の行方すらがんじがらめに絡めとっていた重石だった。

 ……辛いことばかり、だったけど。

 ティルはそこから先へ進む方法を、手探りであるけれど見つけつつあった。

 魔竜に命を捧げようとして、カズキに止められたあの日から。

「私は、未だ苦しむ帝国の人々を見捨てたくない」

 それだけは、確固としてティルの中で揺るがない信念。

 巫女として産まれ、巫女として生きる中で積み上げた、確かな自分の想いだ。

「そんな彼らに、私でもできることがあるのなら、助けになりたい。その手段があるのなら」

 人々の前に立ち、お飾りとしての役目を任じられ、全うするために存在してきた。

 その任から解放されたとしても、身に染みこんだ技術や性格は容易には変えられない。

 けれども、一つだけ変わったことがあった。

「でも、そのために私自身を犠牲にするという選択は、もう選びません」

 成したいこと、成すべきことは正しい形で成功させる。

 自分が望んだ形で結末を手に入れる。

 だからそれは、レファを悲しませるような形であってはならないのだ。

「レファが私のことを案じてくれるのなら、私は決して自分を粗末にしないと誓います」

 まっすぐとレファの瞳を見て言う。

 自分はもう大丈夫なのだと。

 だから、

「その上でお願いします。カズキ様の提案を、受けさせてはくれませんか」

 また一歩、先に進んでみたいのだと。

「ティル、様……」

 ティルの宣言に、レファは少し驚いたようにつぶやくと目を伏せる。

 それからカズキを振り返り、

「カズキ様」

「はい。レファンドラさん」

「……ティル様に託されるその役目において、ティル様を命の危険に晒さないこと、この仕事において苦痛を与えないこと、約束できますか」

「それはできかねます」

「な――」

 否定の言葉を予想しなかったのか、レファの表情が愕然としたものへと変わる。

 ティルもわずかに背筋に冷たいものが走るが、声を上げずにカズキの言葉を待つ。

「僕らの仕事は、世界を相手にした大立ち回りです。簡単で優しいことばかりで済むとは思えません」

「貴方は……!」

 レファの非難が放たれる前に、さらにカズキは言葉を続けた。

「お約束できるのは、僕らがティル様を同じ志を持った仲間として迎えるということ。共に帝国の人々のためにできることを尽くすということだけです」

 それは、レファの条件に代わるカズキの宣言。

「仲間として、我々は彼女に命の危険が無いように精一杯守りましょう。悩み苦しめば、共に答えを探し支えもしましょう。けれども、彼女が苦難に立ち向かう選択をなせば、それを引き止め籠に閉じ込めることはしません」

 カズキとしてでもあり、イデア全体としての宣言でもある言葉だ。

「…………」

 レファは、カズキの持って回った物言いに目を瞬かせ、理解が行き届いてようやく大きくため息をつく。

「万全は約束しないが、努力はすると。……全く困ったお人ですね。ひとこと『約束する』とおっしゃればいいものを」

「ティル様を大切に想われる方に嘘はつけません。これが僕らなりの誠意だとお考えいただければ」

「わかりました。……でしたら、その約束が履行されるかどうか見届けるため、私が随行することもお認めいただけますね?」

 その言葉に、カズキは少し驚いたように、しかしすぐに得心がいったかのように笑みを浮かべる。

「それはもちろん。すぐに上に掛けあってみましょう。人手は足りていないので、おそらくは歓迎されるはずです」

「じゃあ、レファ!」

「……もとよりティル様が望まれる道行きを、私ごときが左右などできるはずはありません。進むべき先へ存分にお進み下さいませ」

「そんな! 私のことを真剣に考えての言葉、本当に嬉しかったです」

「もったいなきお言葉です。……少し変わられましたね、ティル様。瞳がちゃんと前を向いていらっしゃいます」

「そう、でしょうか」

 自分では自覚のない言葉に、ティルはすこしばかり首を傾げる。

「ええ。雰囲気も明るくなられたように思います」

 レファはどこか満足そうにそう言うとティルの背に回り、その両肩を持ってカズキの方へ向ける。

「私への言葉は十分頂きました。あとは――」

 言われ、ティルはその意図に気づく。

 すっかり気持ちはそのつもりであったけれど、まだカズキに向かって正式な承諾の言葉を告げていなかったのだ。

 ……よし。

 ティルは背筋を伸ばし、小さく息を吸う。

 カズキが少しの緊張を持ってティルに向き合うのを見て、ティルは言葉を吐き出した。

「カズキさん。ザッフェルバル総督代行のお仕事、正式にお受けしたいと思います」

 改めて告げられたティルの宣言に、カズキはいつもどおりの穏やかな表情のまま頷いた。

「はい。それではよろしくお願いします。――総督代行」

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