2.
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数日後。
「特異点における人類文明のオートマトンへの屈服」なる古典的に過ぎるテーマの演説をがなりたてる狂人を尻目にして、ルーメンス・ライヴシフトはその歩みを緩めない。世の中には色々な奴がいる。ミュージアムの一般入場者の群れの誰もが、狂人を完全に無視する形で各々の目的地へと進みゆく。それでも絶叫じみた主張を止める気配もない狂人の方向から、ルーメンスは巷に出回るラセミ化アンフェタミンを主成分とするグレイス・キャンディのストロベリー臭を僅かに嗅いでいた。くだらない。
目眩を催すほどに広大なホール――ティアサイド・オートマトン・ミュージアム会場のすべての豪奢と喧騒が、歩むルーメンスを包み込んでいた。企業ブースは掘削用巨大オートマトンの実働展示を遂行し、都合四基のクレーン先端が強烈なシグナル・ライトを放ちティアサイド・ホールの一部を七色に照らし出す。自動人形系の人気歌手ユニットが、人類には発声不可能な音程を時に混ぜながら一度歌い上げさえすれば、集合した観衆の嬌声じみた歓声を欲しいがままにする。小柄な宇宙探査用の最新型オートマトンは環境カプセル内に擬似構築された真空無重力空間における探査作業のシミュレーションに没頭し、その成否を親子連れに見守られている。遠いオートマトン競技ブースからは格闘模様のヴィジョンが上空に拡大映写されており、実況者の決死じみた叫びとそれを凌駕する客どもの唸りが響き渡ってくる。大昔のフィクション内のオートマトン由来の奇矯な格好をした一般客がルーメンスの隣を平然と通り過ぎ、どこかの売り子がどこかのブースのチラシを声高に叫びながら配り歩き、売店脇では学童連中が熱烈な議論を繰り返していた。どこを見てもお祭り騒ぎ。
すべてはくだらない。
ルーメンス・ライヴシフトが喧騒と雑踏の何もかもを足早に通りすぎて、目的のブースへと向かう途で。
――ふう。
と、小さな溜息を吐いた。
ある存在と、出会ったから。
『蔦をその体に巻いた子象』と、出会ったから。
盛況を極めるティアサイド・オートマトン・ミュージアムにおいても、ホール内の余剰スペースは存在する。どのブースもコーナーも敷設されておらず、また一般客たちの通路にも必然的に成り得ない場所。そうした地点には概して手持ち無沙汰になった客がたむろしているものだが、そうした中でも誰にも支配されていない、ひとつのホールの奥まった隅の、照明さえ陰るひとつの小空間――そこに、
ルーメンスは、一匹の子象を見ていた。
そこで初めて、歩みを止める。
横目に、しかし鋭い眼光で、ホールの陰に黙然と屹立している、場違いな野生生物を、彼は凝視している。
子象は、ルーメンスの幻の尖兵であった。
全高はルーメンスと同程度。くすんだグレイの体躯は、いつも何故か細長い蔦たちに絡まれている。身動きひとつせず、自慢の鼻も揺らさずに、ただ一対の黒瞳が、ルーメンスをじっと凝視している――どこか、哀しげな色を湛えて。
ルーメンスは、眉をひそめていた。
――この子象は比較的出現度の高いものだったが、まさかこの場所で、この瞬間に現れるとは。
ルーメンス・ライヴシフトは、時折、「幻」と彼が呼称している存在と遭遇する。
彼はそれらを、自らの無意識上における一種の外的発散現象であると冷徹に把握している。幻は数日から数ヶ月に一度の頻度で彼の前に現出する。いつ始まったのかは覚えていない。幼児期からであろう。それらが己の脳神経系が意図せぬ原因により造成し、他者には認識され得ない幻像であるという事実は常として理解し客観視していた。
経験的に導き出したこの生理現象の一般的な経過は、まずルーメンスの意識が奇妙な方向に逸脱し、現状とは無関係な光景や物体が脳裏に浮かび始める。この初期過程は省略されることもある。続いて視覚的ヴィジョン――あるはずもない幻像が、彼の認識する視界内に唐突に出現する。それを放っておけば範囲領域が自動的に増大し、聴覚ほか別感覚にも訴え始めるようになる。
蔦を巻いた子象は、典型的な「尖兵」だった。ルーメンスの認知する幻のスタート地点のひとつ。このまま子象を放置するならば、徐々にその周囲に「仲間」が増えてゆくのだ。いつのまにか、異様に背の高い紫色のひまわりが聳え、燕に似た鳥たちが空中を飛び交い、風車を頭に生やしたアザラシがあくびをすれば、正十七面体のサイコロたちが転がり、巨大でふくよかな体を持つ雀蜂が舞い踊って、遠いさざ波の音色とともに、勝手に跳ね回るブロックの玩具が地に音を立て、綺羅びやかな青い蝶が視界を遮り、ペイズリーじみた何らかの紋様が延々と続く長い布のようなものが、ルーメンスの体をまさぐり始めて――。
ルーメンス自身の、少なくはないと自負する経験を通して、この生理的現象に関して彼が得た、ひとつの解釈が存在する。
これは、何の答えも示唆していない。
いかなるものにも繋がっていない。
理由も、意味も、意義もない。
それでも幻たちは、彼の前に現れる。視覚的、聴覚的、時には他の感覚的作用を伴いながら。
出現こそ唐突ではあるが、ルーメンス自身に何かしらを強要する類の現象ではなかったのは幸いと言えた。また彼は幻たちの性質を心得ていた。故に、それらによって大きな損害を被った経験もない。
ティアサイド・ホールの、照明の当たらない隅で。
いつまでも身動きせず、彼をひたすら見つめている一体の獣に向けて。
消えろ、と念ずる。
ルーメンス・ライヴシフトの視覚領域内において、蔦を巻いた子象の存在がふと透明度なる要素を増大させる――次の一呼吸後には、完全に消滅していた。ティアサイド・ホールの、誰にも見留められない陰の空間は、本来あるべき姿を取り戻していた。
ルーメンスは背を向けて、再び歩き出していた。執着は一切存在しない。幻との遭遇とその潰滅は彼の日常の一部であり言わば呼吸のようなものだ。何らかの「異変」ですらない。
ただ、
――ルーメンスは、ミュージアムに溢れる現実の雑踏を掻き分け、現実の映像看板を無視し、現実の騒音を聞き流しつつ、黙々と歩を進めながら、あてどもなく考える、理由はわからない、
ただ、
頻度が、増している。
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