鈍色

杉村衣水

第1話

迎えに行こうか、と言う電話の向こうの声は平坦で、いったいどうしてわざわざ連絡してきたのかと疑問を抱かせた。


「馬鹿じゃないのお」


時々、どうしたら良いのか解らなくなる事が有る。

樋高の身体では感じる事の出来ない柔らかさ、飾られた唇に長い爪、荒れていない指先、折れそうな細腰、滑らかな肌。

そういった物に触れたくなるのだ。


そこに至るまでの道のりは簡単で、飲み屋で頭の軽そうな女に声を掛ければ酔いの勢いも相まって、身体を重ねるのはそれこそ意味のない行いだった。

俺は何をしているんだろう。

女の演技のような喘ぎを耳にして、腰を振りながら、頭の中のもう一人の自分が唐突に冷静になる時が有る。

俺は何をしているんだろう。


「いいよお、迎えになんか来なくて」


『そうか、解った』


あっさりと通話は切られ、本当になんでこいつは電話してきたのだろうと思う。


「誰から?」


いつもと同じように声を掛けた女が俺の隣で首を傾げた。

居酒屋で上手い事いって、今はホテルに向かっている最中だった。


「恋人」


「うわ、恋人いるんだ。サイテーだね」


そう言いながら彼女はくすくすと笑う。

笑っても可愛くない。

樋高が笑った方が控えめで可愛い。


「そう、最低なの俺」


んなこた解ってんだよクソ野郎。


なんの癖なのか性癖なのか、なんなのか、初めてこういった事をした時に樋高はぼろぼろと涙を零した。

樋高は生まれつきゲイらしいけど、俺は違うからやっぱり別れた方が良いと言われた。

俺が嫌いになったのかと訊くと、「違う」と言うからじゃあ別れないと返すと彼はまた泣いた。


告白してきたのは向こうからだった。

中学の時に同じクラスになって、高校は別々だった。

大学で再会してそれから、少し話をするようになって、俺は中学の時の樋高なんて覚えちゃいなかった。

けれど彼は覚えていて、構内で見掛けると挨拶を交わすようになり、話をするようになり、飲みに行くようになり、家に泊まるようになり。

好きだと言われた。

中学の頃から好きだったと。

また会えると思わなかった。

そんな事を言って。

俺の何が良かったんだろう。

そんな何年間も、俺を想っているなんてこいつは馬鹿なんじゃないだろうか。


樋高の家で酒を飲みながら鍋を食べていた。

酒が無くなって、樋高がコンビニに買いに行った。

帰って来たと思ったら「高野、好きだよ」と言ったのだ。

一瞬何の事か唐突すぎて解らなかった。

それは冬の日で、外の寒さに鼻の頭を赤くした樋高は俺の顔を見れていなかった。


「はあ」


「中学の頃から好きだった。また会えるなんて思ってなかった。こんな、家に来るようになるなんて思ってなかった」


「まあ、こっち来なよ」


玄関に突っ立ったままの樋高を手招いて、こたつの布団を捲った。

いそいそと潜った彼は正座をして、こたつの上に買ってきた缶チューハイを置く。


「ありがとう」


「えっ」


「酒」


「え、ああ、別に」


ひとつ取ってプルタブを開けた。

二口のんで、彼の肩が震えている事に気付く。

ああ、好きって、そうか。

そうなんだな、お前。俺の事好きなのか。

俺は、どうかな。

ホモじゃないけど。まあそんなのはどうだって良いし。

今まで付き合ってきた女の顔があまり思い出せない。

きっとそんなに大事じゃ無かったんだろう。

樋高。

唇が青くなっている。

俯いて、長めの茶色い前髪が睫毛に掛かっている。

尖った顎。

彼のつくる鍋は美味かった。

大学で、少し離れた所から俺を呼ぶ声。

樋高。


「前髪、切りなよ」


指先で彼の髪を引っ張る。


「ハサミ有る?」


「ある」


樋高は立ち上がり、洗面所に消えたかと思うと五分くらいで戻って来て、「切って来た」と言った。

少し不揃いな前髪。

下手糞、と言うとまた俯いた。

俯いても彼の目がよく見えるようになった。


「樋高」


腰を上げ、斜向かいに座る青い唇に口付けた。

冷たい。緊張しているのか。


「キスするとき、前髪長いと痛いと思ったんだ」


樋高は目を白黒させ、壁際まで後ずさった。

びっくりした、と呟いた。

俺は付き合おうか、と返した。

樋高は泣いていた。

そんなに泣く程の事じゃあ無いだろ。


「ただいまあ~」


女を抱いた次の日、家に帰ると樋高が丁度朝食をつくっている最中だった。


「朝ご飯、なになに」


「たまごサンドとサラダとコーヒー」


「ウインナーが食べたい」


「焼くよ。……風呂、入って来て」


「なんで」


「いいから」


脱衣場で服を脱ぎながら、襟元の匂いを嗅いでみる。

ああ、女の匂いがする。

嫌がっているのに、顔に出さない樋高はいじらしくて可愛い。

丹念に身体を洗って、テーブルに置かれたご飯に手を合わせた。


「いただきます」


「うん」


俺の帰る場所は樋高だった。

何があってもそうだった。

喧嘩をしても、他の女と身体を重ねたって、帰る場所は樋高だけだった。


今までの彼女の顔は思い出せない。

樋高の顔は馬鹿みたいに浮かんでくる。

女を抱いても全然興奮しない。

樋高にキスした方が何倍も気持ちが良い。


昨日の女は、目元は樋高に似ていたような気がする。

……そんな事無いか。


樋高は、俺の事最低だと思っているんだろうか。

それなら、良いんだけど。

会えなかった時間分、変に幻想を抱かず、最低だと思って傍に居てくれれば良いんだけど。

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鈍色 杉村衣水 @sugi_mura

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