虐殺の徒
伊丹巧基
虐殺の徒
気が付くと、私は金の入った茶封筒片手に佇んでいた。ここはどこだったか、と一瞬戸惑いはしたが、すぐにバイト先の工場の前だと思い出す。そうだ、私は今までこの工場の中で作業をしていたのだ。手に持っている金も、今日の賃金のはずだ。それにしては、些か多すぎる気もするが。
今しがた出てきた工場は、日が暮れ始めてもなお、稼働を続けている。二十四時間稼働のシフト交代制で、工場が止まることはない。出入り口からは私のように仕事から上がる者か、どこからともなく現れて、再びどこかへ去っていくトラックだけだ。
打ちっぱなしのコンクリートの壁面と、ゆらゆらと青い室内灯が揺れている工場の外観は、どこか異様な雰囲気を漂わせている。ほんの数分前までこの中で働いていたというのに、一度も訪れたことのない場所のような気がして、私は少し顔をしかめる。
ここに働きに来ると、終わった後いつもこのような不思議な気分になる。頭にもやがかかったような、得体のしれない不気味さが一瞬脳裏をよぎるのだ。
無論、こういう仕事だということは承知している。自身の身体を一時的に貸し出し、ほぼ無意識状態で単純な労働作業に従事する仕事。己の意識が夢にうつつを抜かしている間に、身体は勝手に仕事をして金を稼いでくれるという寸法だ。人道的に問題があるだの、身体に悪影響があるだの、そういう馬鹿げた正論は聞き飽きた。私は楽に金が稼げればそれでいい。
「よう、今日も結構貰えたな」
横から誰かに呼びかけられて振り向くと、私と同年代くらいの男が、私と同じように茶封筒片手に突っ立っていた。誰だったか、と少し思案して、この仕事の同僚の須藤という男だったことを思い出した。偽名か本名かなんて、どうでもいいことだ。
おそらく彼も、私と同様ここに立っていることに気付いた後、私を見つけ、そして私が同僚だったことを思い出したのだろう。
「どうだ、この金で飲みに行かないか。いい酒場を知ってんだ」
須藤が茶封筒を揺らす。入ったばかりの金を使うなんて、随分と余裕のある奴だ。だが、特に断る理由も見つからない。それに久々に酒の味を楽しみたいという気持ちも多少はある。規制が始まってから、もう一年近く飲んでいない。
「ああ、構わないが。しかし、このご時世にまともな酒場なんて残ってるのか」
「わんさかあるさ。規制されりゃされる程、みんな酒を求めるからな」
確かにそうか、と須藤の言葉に納得する。須藤はにやりと笑いながら、ついて来い、と言うように工場から裏町へと続く道へ向かう。私は折角得た金をすり取られないよう、よれよれのコートの内ポケットにしまった。
飲み屋に着くと、早速須藤はメニューも見ずに酒を注文した。小汚い店に、明らかに堅気の商売をしているようには見えない店主。不安にこそなったが、頼んだ酒は注文通り運ばれてきた。どこからどう眺めても、ごく普通の酒だ。
「おいおい、そんな警戒するなよ。確かに真っ当な店とは言えんが、出してるモノはちゃんとしてるんだからよ」
須藤が明るく笑うと、軽くコップを掲げ、乾杯も言わずにぐい、と飲み出した。その様子を見て、恐る恐る酒に口をつける。するとすぅ、っと喉を通り抜けて、全身に染み渡っていく。旨い。久々にまともに飲んだ酒の味は格別だ。二口目からは、私は何も気にすることなくぐいぐいと飲み始め、須藤と共にろくでもない世間話に花を咲かせていた。
「この前のニュースを見たか? 自殺推奨プログラムでの自殺者が一万人を突破したんだとよ」
二日前のニュース記事を思い出す。政府が一定水準以下の自殺を希望した市民のみを対象に、安楽死の無償提供を開始したのが去年のこと。意外に希望者はいたらしく、めでたく先日一万人を突破したらしい。酒のネタとしては暗いが、明るい話の方が少ない今、このくらいの方が与太話としては悪くない。
「ああ、知っているとも。まあ、そういうやつもいるんじゃないか。楽しみも仕事も繋がりもなけりゃ、自殺した方がマシだと思ってもおかしくはない」
私に言わせれば、無抵抗で機械に仕事を奪われた人々の方が愚かだった、としか思えないし、どうせ死にたい奴は勝手に死ぬ、それだけのことだ。だが、須藤は義憤にでも駆られるのか、鼻息荒くまくし立てる。
「まったく、お上は何を考えているのかねえ。煙草も駄目、酒も駄目、風俗も駄目、規制だけは強くしやがって、そのくせより良い社会だの抜かして、機械に任せて俺達一般市民から仕事を奪っていく。ちくしょう、やってられるかってんだ。……オヤジ、もう一杯頼む!」
別に酒も煙草も風俗も、法律の規制なんて最低限だけだ。単純に、そういう娯楽の必要性を疑問視する風潮が出来て、自然に廃れただけ。むしろ須藤のような男の方が少数派になった、それだけだというのに。
三杯目の酒が運ばれてくると、須藤はそれを豪快に飲み干した。須藤の目は座って来ていて、私は帰りの心配をし始める。肩を貸して慣れない裏町を彷徨うのは御免だ。旧式の時計を見ると、いい時間になっていた。
「仕方ないだろう。機械の方が優秀なんだ。むしろ私達は仕事についていられることを喜ぶべきさ。この国だけでも働き口すらないやつは山ほどいるし、他の国だったら戦争だのなんだので仕事なんて言ってられないだろう。こうやって酒を飲む金があるだけマシ、そう考えるべきじゃないか」
帰る方向に持っていくために、軽くいなすつもりの一言だったのだが、ふっ、と沈みかけていた須藤が顔を上げた。
「……それだよ。それで思い出したんだが、いや思い出せていないんだが、俺達はあの工場で何をしてるんだ?」
「何を、って作業だろう。意識が眠ってる間に、身体が勝手に作業してくれる。まあ、うっすらと何かを作っているのは覚えているが」
ぼんやりと浮かぶのは、己の手が何かが書かれた紙を、これまた何かの紙の間に入れている情景だ。無意識と言っても、ぼんやりと記憶していることはある。須藤も、何か覚えがあるのだろう。
「そりゃあ、俺も工場で何か紙……か何かを、これまた何かに突っ込んでいることは覚えているさ。だがよ、それがどんなものかは知らねえ。一体俺達は、何を作らされてるか、気になったことはねえか?」
「そりゃあ、気にならない、とは言わないが、そういうことは下手に詮索しない方が良いだろう。知って後悔することの方が多いんだからな」
所詮俺達は誰でも出来ることをやらされているだけだ。むしろ無意識の人間にやらせるような作業が、真っ当な行動のはずがない。その中身が何だろうが、知らない方が長生きできるだろう。だが、須藤は命より好奇心の方が勝るらしい。
「だがよ、作ってるものがヤバいものだったらどうするんだ。例えばアレが爆弾の材料とかだったら、無意識でやってるとはいえ俺達は人殺しに加担してることになるんだぞ」
随分と逞しい想像力だ。思わず苦笑してしまう。紙切れの兵器、なんてあるのなら見てみたいものだ。紙程度で人が殺せるなら、あっという間に人類を滅亡させられるんじゃないか。私が笑ったのが気に食わないのか、須藤は酔いもあってか、不機嫌そうに泡を飛ばす。
「そもそもな、あの工場自体怪しいじゃねえか。まともに名前も掲げてねえし、それになんで俺達は仕事の内容もちゃんと覚えてねえんだ?」
次から次へと、疑問ばかりだ。それに声まで荒げているせいで、人目を引き始めている。あの店主の眉間に皺が寄り出したのが見えて、私は慌ててなだめにかかった。
「まあまあ、いいじゃないか。下手に詮索して食いはぐれるのは御免だ。今日は大人しく帰って、明日からまた普通に働こう、な?」
そう言っても、もはや須藤は聞く耳を持たなかった――というより、酔いが回り過ぎてまともな思考すら働いてなかったのだろう。思うがままに喚き散らし始めたので、私は勘定の半額だけ置いて、その日はそそくさと退散した。
翌日工場に来て、作業着に着替え、マスクを装着しようとする。始業五分前だというのに、須藤の姿は見えなかった。飲み過ぎてどこかで行き倒れているのかもしれない。昨日助けるべきだったかもしれないが、そんな義務は私にはない。
マスクをつけることで、私の脳はレム睡眠状態になり、身体のみが指示通りに動くようになるんだったか。改めて見ると、随分と不気味なマスクだ。顔面の形状はガスマスクのようだが、妙に人間の顔の凹凸に合わせたようにも見える。不完全なデスマスク、とでも形容すればいいのだろうか。
駄目だ駄目だ、なぜ私はこんなことを考えている。私自身が考えなくていいと須藤に言っておきながら、興味が湧いている自分がいた。知ってどうなるものでもないというのに。
冗談にも程があるが、もし須藤の言う通り兵器の部品だったとして、それがなんだというのだ。知ったからと言って警察に通報しよう、とは思わない。作ったのは俺の意志でも何でもない、無意識の身体じゃないか。
『作業員のシフト交代の時間です。引き継ぎの者はすみやかに所定の位置に着くように……』
アナウンスが流れ、私は慌ててマスクを着用する。そうすると私の視界がゆっくりとぼやけて、そして真っ白になった。
気が付くと、私は金の入った茶封筒片手に佇んでいた。ここはどこだったか、と一瞬戸惑いはしたが、すぐにバイト先の工場の前だと思い出す。そうだ、私は今までこの工場の中で作業をしていたのだ。手に持っている金も、今日の賃金のはずだ。それにしては、些か多すぎる気もするが。
既視感を覚えるが、この既視感ですら何度目の事だか分からない。毎回朝に工場に来て、作業着に着替えマスクをつけると、再び意識が戻ったときには工場の玄関で立ち尽くしているのだ。
一つ違うとすれば、今日は須藤の姿がないことか。やはり昨日置いていったのはまずかったか。しかし連絡先も知らない他人を見つけるのは至難の業だ。しばらく悩んだが、私は昨日の記憶を頼りに、裏町へと向かう。
多少迷いこそしたが、見覚えのある道を探し、昨日飲んでいた居酒屋に辿り着いた。店内に入り、あの凄みのある店主に、須藤のことを尋ねる。
「ああ、昨日泥酔してたにいちゃんか。薄情なアンタが帰ってから、そうだな、二時間後くらいだったか。起きて金置いてふらふらとどっかに歩いてったよ」
なんだ、大丈夫だったのか。余計な心配だったらしい。別に二日連続で飲む必要もないし、こんな裏町に長々といるのは良くないだろう。私は早々に引き上げることにした。
しかし、翌日も、その翌日も、須藤は姿を現さなかった。工場は三日連続の無断欠勤で、あっさりと彼の解雇を宣言した。まあ、当然だろう。しかし、それと同時に宣言された内容に、私は耳を疑った。
「それともう一つ、この工場は間もなく閉鎖する。君は長い間良くやってくれた。今日の給料にはボーナスを付けておこう」
閉鎖、だと。確かに次の仕事が見つかるまでの当面食い繋ぐだけの金はある。だが、これだけ羽振りのいい職場は今後出逢えるとは思えなかった。
「ま、待ってください。何故閉鎖するんです?」
「理由は単純だ。我々の作っていた物は既に目的を果たし、需要が無くなった。それだけさ」
給料が良かった理由は、特殊な需要があったからか。口惜しいが、ここで粘っても仕様があるまい。むしろ仕事の割に随分といい思いをさせてもらっただけマシだ。もしまた再開したら是非私に声を掛けて下さい、とだけ言って、私はその日の業務に参加し、そして工場の前にぼんやりと立っていた。
それから更に数ヶ月が経ち、私は新しい働き口をどうにか手に入れていた。前ほどではないが、悪くない給料を確保することが出来た。
あの工場の閉鎖後、須藤にも工場の関係者とも、一度も顔を合わせたことはない。殆ど忘れかけていた時、私の家に二人組の男達が現れた。何も用意しないのは悪いかと思い、珈琲を淹れてもてなそうとしたが、彼らは丁重に断ったあと私に警察手帳を見せ、こう尋ねてきた。
「内海さん。あなたは数か月前に、ある工場で働いていましたよね?」
「はい、そうですが。何かあったんですか」
警察が来た、ということは、やはりあの工場は危険なものを作っていたのか。私も何らかの罪に問われるのだろうか。そう言われても無意識でやらされていた事だ、と突っ張るしかない。
「そうですね……念のため、あなたは他の国への渡航経験や、外国語の学習経験はありますか」
突然何の質問だろう。不審に思いつつも、私は正直に答える。
「いいえ、一度も。外国語も話すどころか、文字すら分かりませんよ」
「なら良かった。では、この紙に見覚えはありませんか」
そう言って、刑事は懐からビニールに入ったパンフレットのようなものを取り出した。よく分からない記号のようなものがびっしりと書かれている。どこかで見たことがあるような、ないような。あまりうまく思い出せない。
「どこかで見たような気もしますが、何とも。で、それが何なんです?」
私の答えに、刑事たちが目配せする。私が何も知らないようだ、と判断したらしい。無論、私は何も知らない。見覚えがあったとしても、あやふやな記憶だけだ。
「これは、あなたが勤めていた工場で作られていた物です。ここに書かれているのは、複数の外国語の文章だそうです」
言われてみれば、何となく見覚えがあるような気がするのはそのせいか。あの工場で組んでいた紙も、そのくらいの大きさだった気がする。
「そういえば、あの工場で組んでいた物も、そのくらいの紙だったような気がします。でも、私はそれがなんだかは知りませんよ。なにしろ、身体だけ貸していたので」
「俗に言う、『身体レンタル業』というやつですか。あの法律が合法化されて、我々はお手上げですよ。あれを使っていた、と言って言い逃れしようとする輩が増えたものでね」
「何が言いたいんです。私は身体を貸して、バイトとして何かの物品を組んでいた、それだけですよ」
沈黙。この刑事たちは、私に何らかの疑いを持っているのか。それともかまをかけて推し測っているのか。どちらにせよ、私にやましいところはない。堂々と刑事を見つめ返していたが、そのうち刑事は私から視線をそらし、肩を竦ませた。
「いえ、あなたを疑ってなんかいませんよ。ただ、我々はこの紙にまつわる情報を、出来る限り集めないといけないのでね」
「そんな紙のパンフレットが、何か問題でも? 爆弾の材料にでもなるんですかね」
「まさか。紙切れ一枚が爆弾になる訳ないでしょう」
だ、そうだ。ついこらえられず笑い出したが、頭の固い刑事に、冗談は通じないらしい。
「この紙はね、理由は分かりませんが、少なくとも危険なものであることは確かなんですよ。洒落にならない程のね」
「と、言いますと?」
「どんなカラクリが仕込まれているか分かりませんが、このパンフレットは海外でばら撒かれていましてね。そしてこのパンフレットが配られた国では、内紛が急速に加速していまして。既に四百万人以上の死者が出ている国もあります」
四百万人。そっちの方がよっぽど悪質な冗談にしか聞こえない。私は一笑に付した。
「まさか。偶然でしょう。紙に書かれた言葉で人が死ぬわけがない。ホラーじゃないんですよ」
しかし、刑事の顔は本気だった。まさか。巨大な冗談仕掛けか、それとも夢か。そんな馬鹿げた話があるものか。信じられない。
「我々だってそんなオカルトは信じたくありません。しかし、現にこれは事実なんですよ。ここに書かれている言葉を解読しようと、署内で語学に堪能な者に見せたところ、前触れもなく拳銃を発砲したんです。他の者も同様です。ここに書かれた言語を理解出来る者は、一様にこれを見た瞬間周囲の人間を無差別に殺そうとする」
改めて、置かれているパンフレットに目を落とす。どこにでも転がっていそうな紙に、私には読めない文字、記号の意匠。たったこれだけで、四百万人もの人が殺し合いを始めたと言うのか。
「なので、こうして捜査線上に浮上した人物に片端から聞いて回っているという訳です。直接理解してはいけないらしいので。しかし、他の関係者に当たっても、あなたと同様あまりいい回答は聞けませんでしたな」
だが、私には関係の無いことだ。私にはこのパンフレットはただの紙だし、過去に私の身体が勝手に組んでいたというだけ。私には何の責任もない。
「無論、仕事を紹介した人物でも何でも、思い当たることがあれば御報告をお願いします。では、我々はこの辺りで失礼します」
刑事たちが立ち上がった。ふと、私はあることを尋ねる。
「そういえば、聞いて回った者の中に、須藤という男はいませんでしたか」
刑事は振り返らず、淡々と言った。
「いましたが、我々が訪れた時には既に自室で首を吊っていました。遺書がありましてね。どうやら、個人的に調べたところ、偶然その事実を知るに至ったようです。彼はそれを罪と感じたようですね」
では、と刑事たちは立ち去り、自室には私だけが取り残された。
そうか、アイツ死んだのか。四百万人の死に責任を感じるとは。思ったよりも本当に優しい人間だったようだ。私は鼻で笑うと、温くなった珈琲を口に運ぶ。真っ黒なその液体は、なぜか鉄の味がした。
虐殺の徒 伊丹巧基 @itamikoki451
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