下総国小金原
十数年前。
下総国小金原。
他に誰もいない草原に三つの影。
二つの影は対峙し、一つの影は離れその姿を見守っている。
見守っている影は伊東一刀斎。
対峙している影は、その弟子、小野善鬼と御子神典膳であった。
当時、天下無敵とされた剣客、伊東一刀斎には優れた二人の弟子があった。
恵まれた体躯を生かし、一刀斎の技をさらに極めんとする剛の小野善鬼。
一刀斎の技を理論、体系化し、その理を極めんとする柔の御子神典膳。
一刀斎は一番弟子である善鬼の粗暴な振る舞いを憂い、自ら心血を注いだ技の道統を伝えるにふさわしいのは御子神典膳であろうとの判断を下した。
もちろん、それには善鬼が納得しなかった。
そこで、弟子二人で決闘を行い、勝者に一刀斎の印可を与える事とした。
この時、一刀斎はたとえ真剣勝負をしても、十中八九、御子神典膳の勝利であろうと思っていた。
どれほどの時が過ぎたであろうか。
二つの影が交差し、一人の剣がはね飛んだ。
ひざまづいていたのは、小野善鬼であった。
「切らぬのか!?」
善鬼が問う。
それに答えて典膳 は
「もう、勝負はつきました。兄弟子である、あなたを切る必要などありません」
そして、踵を返して一刀斎の方に歩き始めた。
一刀斎は叫んだ。
「いかんっ!!」
その時には遅かった。
善鬼ははねとんで転がっている刀に飛びつくと一気に距離を詰め、典膳を一撃で切り捨てたのである。
一刀斎があわてて駆け寄り、典膳を抱き起こした。
「典膳!」
典膳は一刀斎を見て、にこりと微笑み……がくり、とこと切れた。
「貴様、なんと言うことを」
「相手が死んでもいないのに残心を残さぬのは剣客として失格……それはあなたの教えでしょう?」
善鬼は冷たく言い放った。
「これも兵法なり! ましてや相手に後ろを見せるなど、そのような覚悟では剣客としてしょせんは命をまっとうする事などできますまい」
一刀斎は刀に手をかけた。
「拙者を切り捨てるおつもりか? あなたの剣技を伝える者がいなくなりますぞ。しかもこの決闘の勝者があなたの印可を得る事は、あなた自身がお決めになった事」
それを聞いた一刀斎は……動けなかった。
善鬼は二人の中間地点に置いてあった印可状を懐に入れた。
「この、伊東一刀斎の印可状、
まるで己が切られたかのように膝をつく一刀斎。
善鬼はそのまま小金原を去って行った。
その後、善鬼は次郎右衛門忠明と名を変え、一刀斎の印可状をもとに一刀斎の正式後継者を名乗り、江戸に道場を開き、その名声の元に徳川家に仕えた。
一刀斎は典膳の遺児、善四郎を引き取り木曽山中に隠棲した。
一刀斎が朱印状の謎を解く為、小野次郎右衛門に会ったのは実にそれ以来の事であった。
一刀斎の脳裏を今、たびたびよぎるのは後悔の念であった。
なぜ、自分は弟子同士を戦わせるなどという事をしてしまったのか?
こんな結果であれば、
最初から善鬼に印可を与え後継者とすれば、
御子神典膳は命を落とす事はなかったのではないか。
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