ロマンチストにできること

三角海域

ロマンチストにできること

 歩き始めてどれくらい経っただろう。

 ぼんやり空を見上げながら、そんなことを考える。

 疲れたな。少し立ち止まってもいいんじゃないか? 

 いや、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。

 あとどれくらいでゴールまでたどり着けるんだろう。

 そんなことを考えている間も、ずっと僕は歩き続けている。

 先が見えない闇の中。どこかから声が聞こえる。だけど、その音はあまりにも遠くて、聞き取ることができない。

 周りを見渡してみる。僕が歩んでいる道は真っ暗だけど、周りには景色がちゃんとあった。既視感のある景色がそこに広がっているけれど、モザイクがかかったようにぼやけていて、はっきりとその景色が何だったかを思い出すことができなかった。

 歩き始めてそれくらい経っただろう。

 僕は変わらず歩きながら考える。

 止まりたくない。こんなところで止まるわけにはいかない。

 わかってる。わかってるのに。足が、うまく動かなくなってきた。

 僕は。

 僕は、もう、ここで。



 目が覚めた。

 ベッドから身を起こすと、気だるさが肩から流れるように全身を包み込んで、体を重くする。ベッドサイドに置かれた目覚まし時計を見る。時刻は深夜二時。起きるのは三時だから、まだ一時間は余裕がある。

 だけど、寝直す気にはなれなかった。一時間だけ寝たところで、余計にだるくなるだけだし、またあの夢を見そうで嫌だった。

 ベッドを離れ、洗面所に向かう。顔を洗い、パジャマを脱ぎ、着替えを済ませる。着替えにはまだ早いのだけど、汗で濡れたパジャマを着続けるのは不快だったのだ。

 この段階で、まだ深夜二時半。まだまだ余裕はある。

 一度部屋に戻り、携帯を手に取り、キッチンに向かった。冷蔵庫を開け、炭酸水を飲む。飲みかけのジュースを入っていたのだけど、今は味のあるものを飲む気分ではなかった。

 炭酸水を飲みながら、リビングのソファに座る。

 家族がすぐ隣の和室で寝ているから、できるだけ静かに伸びをする。部屋にいればいいとは思うが、部屋で過ごしていると、夢を思い出してしまうので、戻る気になれなかった。

 携帯でSNSをチェックしながら時間をつぶす。まだ余裕があると思っていたのに、気が付くともう起きる時間を過ぎていた。あと十分もすれば家を出ないといけない。

 作業着を取りに部屋に帰る。開きっぱなしのSNSを閉じようと、携帯を見た。

『今のままでいいの?』

 という就職サイトの広告が妙に目についた。



 三月になり、二月ほどこたえる寒さではなくなったものの、時折震えるほど寒い日がある。今日がまさにそれだ。

 厚手のコートを着て、手袋をして家を出る。深夜三時過ぎの町はとても静かで、いつもの見慣れた景色がどこか異世界の風景に見えてくる。

 町を作るのは人なのだ。働き始めてそう考えるようになった。

 ファミレスの裏手。通風孔からもれてくるにおい。遠くから聞こえるチャイム。甲高い声をあげながら投稿する小学生。そうした人々の生活が、建物に印象という輪郭を作る。

 ちょうど、小学校の横を通った。歩みを止めず、ちらりと横目に校舎を見る。

 そこにあるのは、形を成したただの箱だった。



 職場に到着し、タイムカードを切って更衣室へ向かう。手早く着替えを済ませ、作業場へおりると、すでに何人かの人間が働いていた。

 あいさつを済ませ、その中に入る。

 与えられた仕事を行い、トラブルがあれば対応し、朝礼で言われたことを反芻しながら自分のすべきことを考え、ミスがあれば頭を下げる。

 仕事というのは、少なくとも、今自分がやっている仕事というのは、えらく単純な構造でできている。仕事の内容が違っても、たぶんそれは変わらない。人事だろうが総務だろうが、いろんな言い方をする部署どこも、流れだけを言葉にすれば簡単に見える。

 ただ、現実は言葉で定義できるほど甘くない。割り振られた時間の中で、やれることをやろうと思っても、なにもかもうまくいくことはない。これができたと思っても、ほかに綻びがある。

 言い訳がましくそれを愚痴るのもばからしいので、口から飛び出そうになる愚痴を、ため息と一緒に飲み込んで、また仕事をする。

 達成感はある。だけど、充実はない。仕事なんてそんなもんだと言われるかもしれない。だけど、僕の周りの人は、疲れる、面倒だと言いながらも、やり遂げた仕事に充実を感じているし、そのためにいろんなことを改善しようと努力している。

 僕はなんだ? 何度も出そうになるため息を飲み込んで、ただ時間内に仕事をこなしてさっさと帰る。

 仕事はしている。だけど、これじゃあただそこに「いる」だけなのと変わらないじゃないか。

 ほら、今日もこんなことをグルグル考えているうちに仕事が終わった。

 さて、じゃあこれからどうする? まずさっさと着替えを済ませてしまおう。そのあと昼飯を食べて、帰宅しよう。帰ったら、僕が本来やりたいことをやるんだ。

 今日も変わらずの僕だ。変化を望んでいるはずなのに、何も変わらない日々を送る僕だ。なんでかって? 望むだけだからだ。わかりきっていることだろう。

 つまり、僕はバカってことだろうか。

 正解。よくできました。

 バカらしい。早く帰ろう。

 タイムカードを切り、外に出る。車と人が行き交い、声が車の駆動音にまざってそこらを飛び回る。

 日がのぼっても、外は寒いままだった。



 帰宅して、部屋着に着替えると、パソコンを開く。

 映像編集ソフトを立ち上げて、すでに撮り終えた分の映像を整理して、テキストファイルを開く。

 これが、僕の本来やりたいこと。

 映像を確認して、不必要なものをカットし、つなぎ合わせていく。

 そうやって、ひとつひとつのパーツを組み合わせ、シーンを作り上げていくのだ。

 僕はこの作業が好きだった。撮影も楽しいのだけど、撮影は友人に無理やり頼んで協力してもらっているので、スケジュール管理や、ロケの場所の調整などやることが目白押しで、手放しに楽しいと言い切れない部分がある。

 だが、編集はこうしてひとりで黙々と作業をしていくので、自分の思い描いた映像を自分自身で作り上げていく喜びがある。

 編集した映像を見て、役者の雰囲気や画面越しの印象などを見て、この後のシーンのイメージを変えたり、セリフをもっとこうしたいと思えば、同時に開いているテキストファイルを修正する。

 いつか、自分の撮影したものを、誰かに面白いと言ってもらいたい。

 たぶん、入り口はそこだった。

 昔から映画が好きで、大学で変にショートムービーなんかを撮ったせいで、ちょっとした欲が出てきてしまった。

 その時撮ったものはさんざんな出来だったけど、何度も撮って、きちんと反省して次にいかしていけば、いいものが撮れるんじゃないか。そして、それを誰かが面白いと感じてくれるんじゃないかと思っていた。

 それは、大学時代の僕の希望で、これから先生きていくうえでの光のように思えていた。

 マウスを動かす手が止まる。部屋着の、よれよれのズボンに涙が一滴落ちた。

 いつからだろうと考える。

 いつから、僕はこんな中途半端になってしまったんだろう。

 いま楽しいのは、逃避しているからだ。別にそれが悪いわけじゃない。でも、今の僕に、ひとつでも立ち向かっているものがあるのか? 仕事からも趣味からも、焦がれた夢からも目をそらして、そのくせ仕事に行くときにこんなんじゃないと思い続けて。帰ってきたらこうして光だのなんだのと息巻いていた自主制作映画を逃げ道にしている。

 情けない。なんて情けないんだろう。

 そろそろ泣き止まないと。双子の妹が帰ってきてしまう。

 ただでさえ、リビングのパソコンで作業しているのを見て鬱陶しいと言われているのに。こんな姿をさらしたら何を言われるかわかったもんじゃない。

 だけど、今日は妙に泣けてしまう。今朝みた変な夢のせいかもしれない。

 周りのものが何もみえないモザイクの景色。先の見えない目の前の道。歩き疲れて立ち止まりそうな自分。

 ああ、情けない。嫌になる。

 お涙ちょうだいの安っぽいドラマのようだけど、こんなはずじゃという言葉が頭を駆け巡る。

「なに泣いてんの?」

 声がした。確認の必要なんかない。妹だ。

「おかえり」

「いや、ここで普通にただいまって返せるとでも思ってるわけ?」

 そりゃそうだ。いい歳した兄がパソコンの前で泣いてりゃ、こういう反応になる。

 妹は大きくため息をはくと、自分の部屋に帰って行った。

 なんか、もう情けないというか、恥ずかしくなってきたな。なんなんだ僕は。

 もう、今日は部屋に帰って寝よう。明日も仕事だ。ちょっとでも楽しいことをして、マイナスの気分を少しずつプラスに変えてしまおう。

 そう考えはするものの、その場を動くことができなかった。

 今朝見た夢を思い出す。歩き疲れて、足を止めそうな自分。まだ歩いていきたいはずなのに、足は限界を訴える。

 ここで、僕の歩みはお終いなのかもしれない。

 重石を乗せたように動かない自分の足を泣きながら見つめる。

「ねえ」

 また妹の声がした。見ると、部屋着に着替え、面倒そうな顔で僕を見ている。

「部屋入っていい?」

「僕の?」

「ほかに誰の部屋があるんだよマヌケ」

 相変わらずの毒舌だった。妹は僕とは違い、現実をきちんと見据えて生きている。自由に生きていきたいというのが口癖で、そのために勉強も頑張り、あまり上に行くとついていくのが大変だからと、自分の能力に見合った学校へ進み、自分の生活を理想的に送れるような人生設計を中学のころから計画し、実際その通りになってしまったという、本当に僕と同じ血が流れているのかと疑ってしまう。

 なんだか、より悲観的になってしまった。

「で? いいの?」

「別にいいよ」

 僕がそう言うやいなや、妹はさっさと僕の部屋に向かい、すぐに帰ってきた。

「映画観るけど、一緒に観な」

「……普通、一緒に観る? なんじゃないのこういう時って」

 僕の疑問を無視して、妹をデッキにソフトをセットする。

「何観るのさ。正直、今は小難しい映画観る気分じゃないんだけど」

 少し嫌な言い方になってしまう。妹が好むのはアート映画なので、たぶんその類だろうと考えたのだ。僕はジャンルで映画を観るより好きなものを何度も観るタイプなので、いろいろと映画の映像ソフトを購入している。妹がチョイスしたのは、ゴダールかフェリーニか。僕も好きだけど、正直、今はいろいろ考えたくない。

 無理やり立ち上がって部屋に帰ろうとすると、映画が始まった。

 聞き覚えのある、というより、脳に刻み込まれたセリフが聞こえてくる。

 ゴミを出しに行く男。その男を回収業者に化けて待ち伏せし、射殺する男たち。

「いや、これコマンドーじゃん」

「そうだよ」

 妹はなに当然なことをという風に答える。

「筋肉映画だよ?」

「いや、だから何」

「あんまり観ないでしょ、こういう映画」

「その通りだけど、みちゃいけないわけでもないでしょ?」

 確かにその通りである。

「はやくこっち座んなよ。ちゃんと観れないでしょそこじゃ」

 言われるがまま、僕は妹の隣に腰掛ける。ちょうど、シュワルツェネッガー演じるメイトリックスが丸太を担いでいるシーンだった。顔より先に筋肉を映す、僕が大好きなカットだ。妹がそれを観て笑う。

「このあからさまな筋肉アピールがいいね」

 僕もつられて笑う。

 セリフを暗記するほど観た大好きなアクション映画。ツッコミながら観れるけど、きちんと面白い。この映画を観ていると、テレビで映画を観てときめいていたころを思い出す。

 終盤。まるでヒーローの変身シーンのような演出で武装したメイトリックスが、島の兵隊を薙ぎ払っていく。ひとりでものすごいかずの敵を蹂躙し、ほとんど傷を負わずに敵の本拠地を制圧していく。

 楽しい。面白い。単純な映画だと言われるかもしれない。ネタだけの映画だとバカにされるかもしれない、だけど、コマンドーは僕にとって超名作だ。笑えてかっこよくて、肩ひじ張らずに楽しめる娯楽作品。なんて素敵だろう。

「どう?」

 スタッフロールが流れているときに、妹が言った。

「超楽しい」

 僕はそう答えた。答えながら、泣いていた。今日は泣いてばかりだ。

 だけど、今の涙はつらいから流してるんじゃない。

「小難しく考えるなってのは無理だと思う。生きてるってことは悩むってことだから。あんただけじゃないよ辛いのは。でもさ、それは私が言えることじゃないんだよ。辛いのはあんただけじゃないけど、あんたの辛さを知ってるのはあんただけなんだから」

 映画が終わり、ソフトを片付けながら、妹は続けた。

「いろいろなことを知って、いろいろなことを楽しめるようになったと思ってるのかもしれないけどさ、そういうのって、結局理屈で楽しんでるだけなんだと私は思ってるわけ。結局、小さいころとかにさ、熱中してたものが、本当にその人にとって大切なものなんじゃないかって考えてる。それは、たぶんあんたを見てきたからってのもあると思うんだよね」

「僕を見てきたから?」

「だってさ、夏休みに入ったら、起きたらまず映画だったでしょ? で、映画が終わったらまた映画。それを長い夏休みほぼ毎日。私は何度シュワルツェネッガーを見ればいいのかってずっと思ってた。好きなわけじゃないのに、何本かは内容暗記しちゃってるしね」

 妹は、ソフトをしまい、ケースを僕に渡す。

「私は身近にいる夢見がちバカはあんたしか知らないんだよ。だから、私はそんなロマンチストで現実から逃げてる愚か者はあんただけだと思ってる」

「ひどくない?」

「事実でしょ」

「まあそりゃそうだけど……」

「だけど、そんな本気のバカってなかなかいないと思う。親にゲイだと疑われるレベルで筋肉を愛してるやつって、面白いと思わない? わが兄は面白いバカだってさ、その時思ったわけ。泣くのはいいよ。嫌な事あったら泣くってのは、別に悪いことじゃない、子供じゃないんだからっていうけどさ、子供も大人も同じ人間であるわけで、別に歳重ねたって我慢できなかったら泣けばいい」

 一度、言葉を切る。わかったか? と視線で訴えているのが分かったので、うなずいた。

「泣くのはいい。でも、自分はバカだなって泣いてるくらいなら、突っ込んでいけばいいじゃん。バカだって泣くのは、失敗してからでもいいでしょ? 時間の無駄だよ、何もしないで自分を悲観して泣くのなんて」

 妹は、ものすごく悪い顔で笑う。

「あんたの現実的に考える思考を、たぶん母親のおなかの中にいるとき、全部私が持ってちゃったと思うんだよね。だから、現実的な考えなんてのは私に全部任せて、あんたは夢だけ見て生きていけばいい」

「いや、でも夢だけ見てって言っても」

「だから、夢を現実にしろということ。そうだな。最低三年で結果を出すために、夢をちゃんと見て生きていけ」


「なんか、夢を語るわりに現実的すぎない?」

「だから、それが私の役目なわけ。きちんと現実を教える存在が近くにいれば、夢だけ食い物にして生きていけるでしょ?」

 なんという理論だ。でも、こういうやつだったなというのを思い出す。

「だからさ、本気で夢見てな、バカなロマンチスト」

 言いたいことを言いたいだけ吐き出すと、妹は「じゃ、資格の勉強するから、夕飯まではつまらないことで呼ばないでね」と言って、部屋に帰っていった。

 残された僕は、コマンドーの映像ソフトを手に取り、ジャケットで勇ましい姿を見せているシュワルツェネッガーを見つめた。

「道は険しいなぁ。なんとかなるかね、シュワちゃん」

 ソファに寝転がり、目を閉じる。今は、とりあえず寝よう。夕飯の前に少し寝ておきたい。で、起きて夕飯すませたら、今度はトゥルーライズでも観よう。

 少しずつ進んでいけばいい。夢を見るだけのバカなロマンチストにできることなんて、それくらいなんだから。幸い、頼りになる現実主義者が近くにいる。

 そんなことを考えていると、ゆっくりと船をこぎ始めた。

もう、眠るのは怖くなくなっていた。

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