~好きでいいんだ~

 その日以来、本当に先輩は姿を見せなくなった。

 学校には顔を出してるようだが、そもそも一年と二年では階が違うので、そうそう会うこともない。

 朝晩の迎えもなく、昼休みも来ないので、崎田のグループに入れてもらって食べている。

 放課後は職員室に部室の鍵を取りに行き、一人で練習して、一人で帰る。

 今日ももちろん一人だ。ストレッチをして身体をほぐし、基礎練習を繰り返す。鏡で、たまに自分の姿勢や動きをチェックして、おかしなところがあれば直す。

 一通りのメニューをこなして、僕は休憩をとることにした。水分を補給して、タオルで汗をぬぐう。

 地面に座り込んで、呼吸を整えると、時計の針の音だけが耳に届いた。

 誰もいない部室は、静かだ。

「……いつも、先輩の方から、来てもらってたんだな」

 そういえば、部室には何度か来ているはずなのに、時計の針の音なんて、今日初めて聞いた気がする。

 壁に寄りかかって深く座ると、もう稽古する気分ではなくなってしまった。

 決して、練習が嫌いなわけではないのに。せっかく、自由に部室に来れるようになったのに。

 自分の意思の弱さに呆れる。

 先輩に隠れて、家で自主練していた方が、集中してやれていた気がした。

「別に、誰かと一緒だから相撲を始めたわけでもないのにな……」

 髪の隙間から垂れてくる汗がうっとうしくて、タオルで盛大に頭をかき回す。正面の巨大な鏡が、髪をぼさぼさにした僕を写していた。

 傍目に見る僕は、ずいぶんと小さく見える。

 ふと、自分の腹回りの肉をつまもうとすると、うまくつかめずに、指が滑っていった。だいぶ贅肉が減っている。

「やせちゃったな……」

 ただでさえ身長も体重も足りてないのに、練習に励めば励む程、やせていく。いくら食べても、追いつけない。

 かといって稽古を休むわけにもいかない。

 相撲部は、今月限りで廃部になってしまうかもしれないのだ。いや、今のままだと、廃部は確実だ。貴重なこの期間を、無駄にするわけにはいかない。でも。

「疲れた……」

 稽古がつらいなんて、初めてだ。

 あれだけ憧れたはずなのに。僕の決意なんて、これっぽちのものだったのだろうか。

 こんな状況で、稽古なんかしても意味があるのか。

 そもそも、相撲なんて、向いてないんじゃないのか。

「――っ!」

 慌てて、自分の頬をはたく。

 なに弱気になってるんだ!

 稽古なんか、だと。相撲なんて、だと。僕が一番嫌いな言い回しじゃないか。なんてこと考えてるんだ。

 そりゃ確かに、思い描いていた生活とは違っていたのかもしれない。けれど、それを嘆くばかりでどうするんだ。

 他人のせいにしても、何も始まらない。言い訳を探しても、何にもならない。

 僕は今、できることを精一杯やるしかないんだ。

 たとえ、どんな結末だろうと。明日廃部になるのだとしても。

 自身に活を入れて立ち上がる。

 そこにあるのは、鉄砲柱だ。保孟高校の部員たちが、自らの力と体重と、思いをかけて打ち込んできた柱。

 姿勢を整えて、一度放つ。ぱあん、と軽い音がした。

「……弱い」

 歯を食いしばる。

 まずは、自分の弱さを認めることからだ。僕は弱い。できることも少ない。だけど、それは前からわかっていたことだ。

 逃げるな、考えろ。先輩に胸を張って、相撲が好きだと言えるように、努力し続けるんだ。

 今、僕に何ができる。何が足りない、何が欲しい。最後の最後まで、あがき続けるんだ。

「考えろ、東雲昭弘。逃げるな、考えろ……」


***


「いて」

 金曜日には、僕の両手はマメだらけだった。見えないけど、足にも結構ある。

 一応、テーピングはしてあるから、物を持てないほどではないけれど、熱をもって、じんじんした違和感がある。

 今も落とした消しゴムを拾おうとしたら、指先がちくりとして、結局また落としてしまった。

 後ろの席に座る崎田が、心配して声をかけてくる。

「大丈夫か、東雲」

「うん、なんとか。シャーペンくらいは持てるから、授業もやれるし」

「せっかく部活できて嬉しいんだろうけど、あんま無茶すんなよ。つーか、お前、結構細くなってないか」

「あー、うん、まあ」

 やはり、崎田でもわかるくらいやせてしまっているのか。

 もう笑って、ごまかすしかない。

「……俺のチョコ、やるよ」

「へ?」

 ポケットから、崎田がブロック型のチョコレートを取り出すと、包み紙をはがして、僕の口にねじ込んだ。

「ふごっ」

 のどの奥がむせそう。チョコレートだから、ねばりが強い。なんとか飲み込む。

「崎田、お前なあ!」

「何だよ、もう一個欲しいってか? ほら、あーん」

 僕は息をついた。崎田なりに、心配してくれているのだろう。

 しぶしぶ口を開けると、二個目は舌の上に乗せてくれたので、むせずにすんだ。

「……サンキュ」

「どういたしまして。ま、たまには休むのも手だぜ」

「うん」

 けれど、部室はあとちょっとしか使えない。

 気持ちは嬉しいが、おそらくその忠告をきくことはできないだろう。そして、たぶん、崎田もうすうす気づいてる。

 ふと、クラスメイトの一人から名前を呼ばれた。

「東雲、お客さん」

 どうやら、誰かが僕をたずねて、教室の外に立っているらしいが、姿が見えない。

 ま、まさか先輩だろうか。

 まずい。今のを見られていたら『俺だって、東雲にあーんしたことないのにっ!』とか余計なことを言い出しかねない。

 僕は慌てて、廊下へ飛んでいく。

「違うんです、先輩! 今のは男同士の友情の延長線上で――」

 先輩が騒ぎ立てるより前に、僕は釈明を図った。けれど、そこにいたのは先輩ではなかった。

 赤山部長だ。

「しばらく顔を出せなくて悪かったね」

「あ、いえ……すみません」

 恥ずかしさで顔が赤くなる。まさか部長と先輩を間違えてしまうとは。

 でも、それをほっとするような、残念に感じるような、変なしこりが心のどこかにあるような気がした。

「それで……部員は集まりそうかい?」

 部長の問いに、僕は首を横に振る。

「そうか。僕の方でも探してみたんだけど、なかなかね……。すまない」

「いえ、部長が謝ることじゃ」

「東雲。君には申し訳ないと思ってるんだ。……廃部寸前だってことを隠して、君を入部させただろう。あの時は部を続けたい一心で、無理矢理引き入れてしまったけど、結果、君一人に責任を負わせてしまった」

「部長……」

 僕は、もう一度首を横に振る。

「あの時、たとえ廃部だとわかっていても、僕は入部していましたよ。――それに、もし部活がなくなったとしても、他に相撲を取る方法はあります。気にしないでください」

「東雲くん……」

 部長の目は、少し潤んでいるように見えた。

「部室にはあまり立ち寄れないけれど、何かあったらいつでも相談してくれ。これでも、まだ、相撲部の部長だからね」

「ありがとうございます」

 そうだ。まだ、自分一人の相撲部じゃない。

 部長のためにも、めげている場合じゃないのだ。

「……部長。一つ、聞いてもいいですか」

「なんだい」

「部長は、なんで相撲を始めようと思ったんですか」

「ふんどしが好きだからだよ」

 あまりにも堂々と答えられて、僕は一瞬納得しかけてしまった。

「ふんどし!?」

「む、何だ、東雲くん。君までふんどしをバカにする気かい」

「あ、いえ、バカにするとかじゃなくて……でも、ふんどしですか」

「そうだよ」

 部長は悪びれずに、胸を張っている。

 言っていることはしょうもないのに、堂々としているだけで、なんだか僕の方がおかしいような錯覚に陥る。

「どんなにくだらないものでもね、好きなものを持つっていうのは、大事なことなんだ。君みたいな子にはピンと来ないかもしれないけど」

「はあ」

 確かによくわからない。

「何かを好きだという気持ちは、次の好きという気持ちを呼ぶ。実際、僕はふんどし好きがこうじて、相撲も好きになったわけだしね。そして、好きになるたびに、自分の手が届く距離が伸びていく。あれをしてみよう、これもしてみたい、ああしたらどうだろうか。そうやって、人はいろんなものや人と関わって、自分を広げていくんだ。だからね、僕は何かを好きだと思う気持ちは、対象がなんであれ、誇っていいと思うんだ」

「うーん。すみません、まだいまいち、わからないんですけど」

「ははは、そうだね。こう言えばわかるかな。僕は東雲くんが好きだよ」

「え? あ、はい。ありがとうございます」

「ほらね。言われて、嫌な気持ちがした?」

「あ……」

 そうか。確かに、よっぽどのことがない限り、好きと言われて嫌な気はしない。

 何かを好きだと言う人がいても、その人を嫌なやつだなんて思わない。むしろ、一生懸命頑張っているなって、好感度が上がるくらいだ。

 何事にも、例外はあるけれど。

「そっか、好きでいいんだ……」

 不思議とその言葉は、胸の中にすとんと入り込んだ。

「ありがとうございます。僕も部長が好きです」

「そう? ありがとう」

 なんて、シンプルなやりとりだ。

 それが逆に、これでいいのだと言われている気がした。

 そうか、これでいいのか。

 その時ふと、僕はある考えにたどり着いた。

 これで、何か問題が解決するわけではないのかもしれない。けれどやるなら、これしかないというアイデア。

「部長。頼みたいことがあるんですけど――」

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