グレブナー基底と亡霊
第1話
「圭介!早く降りろ!そのままだと大阪行っちゃうぞ!」
駅の新幹線のホームで、群城が大きな声を上げる。
俺は、忘れ物がないことを確認し、急いで車両から飛び降りた。
ピーという機械音とともにドアが閉まる。
「何してんだよ!行っちゃうところだったろ!」
群城は、息のまだ荒い俺に罵声を浴びせる。
いやいやいやいや。これ俺のせい?
群城の買った駅弁やらお菓子が多かったせいで、俺(荷物持ち)が降り遅れそうだったんだけど?
「まあ、とりあえず、京都に着いてよかったな。」
ともあれ、俺たちは三連休を利用し、東京を離れ京都までやってきた。
謎の恋人「
俺は、ずっとりんを妄想の彼女かと思っていたが、群城の京都旅行の写真から、実は存在することが分かったのだ。
ただ、手がかりは
捜索は困難を極めるだろう。
……それなのに、なんでこいつがここにいるんだ?
「はむはむ。やっぱり、生八つ橋は美味しいね!」
環奈が小麦色の三角形を頬張りながら言う。
今回の京都旅行には、俺と群城の他、
「環奈ちゃん、アタシにも1つちょうだい。」
「はい!すずさん、どうぞ!」
環奈と群城は2人ではむはむしてる。
俺は半ば呆れて問いかける。
「……やっぱり環奈は来ない方がよかったんじゃないか?」
「何言ってるの!お兄ちゃんって、タダでさえ頼りないんだから、私がいなきゃ京都で迷子になるでしょ!」
「いや流石にそんなことはないだろ。」
「そ、それにお兄ちゃんの彼女……ってどんな人か気になる……し……」
「ん?なんか言ったか?」
「なんでもない!!!」
そうやって環奈はいきなり怒り出す。相変わらず我が妹ながら訳わからない妹だ。
そんな俺たちを横目に、群城は冷静に地図を広げて言う。
「よし。とりあえず、数学徒がいそうなところから探ってみるか。なんせ、京都は『数学の都』でもあるからな。」
「え、そうなんですか?」
「そうそう。圭介は知ってると思うけど、京都、特に京都大学からは著名な数学者が多数輩出されているんだ。」
「へー。」
「例えば、『フィールズ賞』という数学のノーベル賞みたいな賞があるんだが、歴代の日本人受賞者3人のうち、2人は京都大学から出ているんだ。」
「えーすごい!」
「最近では、チャーン賞を受賞した柏原正樹先生や、ABC予想を証明した望月新一先生も京都大学に所属しているよな。」
「おおー!なんかよく分からないけど、すごいんですね……!!」
ということで、京都随一の
京都は南北に26、東西に30の街路がそれぞれ直交する全国的に珍しい都市である。その姿はまるでユークリッド平面みたいで、南北の通りと東西の通りから座標が一意に定まる。例えば、烏丸通と塩小路通の交差点は、烏丸塩小路と呼ばれるように。
俺たちは京都駅から17番のバスに乗り、京都大学農学部前で降りた。
京都大学の中を少し歩くと、目的地であるRIMSにたどり着く。
「おおー!ここがスリムなんですね!横に広くて窓がいっぱい!」
環奈が辺りを見渡しながら感嘆の声を上げる。
スリムじゃなくてリムスである。ぼーっとして間違えると、チコちゃんに怒られるぞ。
もちろん、リムズと呼ぶ人もいるので諸説はある。誰か正しい呼び方を教えて欲しい。
「環奈ちゃん、RIMSには40を超える所員(教授、准教授、助教など)に、50近い大学院生や研究生が所属しているんだ。それも日本トップクラスのな。いうならば日本の数学界を先導する天才たちの棲家というわけだ。」
「ひやー!とんでもないですね……お兄ちゃんとは大違い……」
「圭介とは……比べてやるな……」
大違いは余計である。お兄ちゃんだって、頑張ってるんだぞ。
ともあれ、俺たちはRIMSの中に入っていくとした。
建物前の数段の階段を登ると、自動ドアが開く。
中に入ろうと片足を前に出した時、全身に何か大きな力がのし掛かかった。
そのまま俺は膝から崩れ落ちる。
「お兄ちゃん!?大丈夫!?」
妹が心配して俺の顔を覗き込む。
肺が詰まったように息苦しい。
あれ?何が起こっているんだ?
体が思うように動かない。
「圭介!落ち着け!ゆっくりと呼吸をするんだ!」
群城に肩を支えられ、ようやく俺は自分から倒れたことに気がついた。
え、あれ?しかし、なんで?
「どうやらRIMSの
その時、コツコツコツ、とどこかで聞いた声が聞こえてきた。
こいつは……!!
ふう、ふう。
談話室でお茶を飲みながら、ようやく俺は落ち着いてきた。
環奈と群城がホッとした顔でこちらを見ている。
そして、俺は、前に座っているヤツに問いかけた。
「で、なんでお前がここにいるんだ?」
紳士服に身を包み、メガネをクイッと上げるコイツは、数連合高層第9位「杉裏解析」である。かつて、導来圏の部下として群城と闘った敵の1人だ。
「アナタになんでと言われる筋合いはないデスが、まあ、研究集会でこっちに来てたんだデスよ。RIMSは共同研究も盛んに行われていますカラね。」
「日比高山流、一の型、『
「わ!群城サン!なにワタシを攻撃しようとしてるんデスか!?」
「あ?お前がアタシたちにしたことは忘れてねえぞ。」
「チョット待ってくだサイ!今のワタシに敵意はありませんカラ!」
「そんなの信用できるか!」
「わああああ!!!!!」
2、3発殴られた後、杉裏解析はこちらに聞き返してきた。
高そうなメガネにヒビが入っている。
「ハア……ハア……アナタたちこそ何でここにいるんデスか……」
「あ?お前に教える義理があるかよ。日比高山流、一の型、『
「わあああ!!!!!!」
「ちょっと待て群城!もしかしたら何か知っているかもしれない。コイツに話してみよう。」
俺は殴りかかる群城を止める。
杉裏はなんかもう死にそうになってる。
「圭介、でも……」
「今のところ手がかりは何もないんだ。話すくらいだったら損はないだろう。」
群城を説得して、俺たちは事の顛末について全て話した。
北条環という女の子を探しているということ。
手がかりは京都で撮られた一枚の写真だけということ。
そして、東京には彼女が存在した痕跡が一切ないということ。
「ナルホド。そういうことデシたら、いい場所がアリマス。」
しばらく沈黙の後、杉裏はそう答えた。
さっきまでボコボコにされてたと思えないくらい冷静になっている。
「彼女、北条環がRIMSに来ていたとしたら、北臼川学舎に泊まった可能性が高いデショウ。」
「北臼川学舎?」
「この近くにある、宿泊施設デス。そこで聞いてみれば何か分かるかもしれマセン。ちょうど、ワタシは今日そこに泊まりマスし。」
「なるほど。」
「それに、RIMSは
そうして俺たちはRIMSを後にし、北臼川学舎に向かうことにした。
RIMSの北側の道を抜けて、住宅街ぽいところを5分ほど歩いたところに北臼川学舎はあった。
なかなか歴史のありそうな風貌だ。
「ここは定番の宿泊施設なので、今までに数多きの数学徒・数学者が泊まっていマス。ワタシのような海外からの来訪者も含メテ。」
ドアを開け中に入ると右側に受付のような小窓があった。窓の奥は管理人室のようで「御用の方はベルを押してください」と注意書きの紙が貼ってある。窓の横に置かれているホワイトボードには宿泊者の名前と部屋番号が並んでいた。
「そんなまさか……」
そこにあった名前に、いても立ってもいられず、俺は北臼川学舎への2階へと駆ける。
「おい!圭介、どうしたんだ!?」
群城がすぐ後を追いかけてくる。
長めの階段を登ると、すぐ横に201号室という部屋があった。
ここだ。間違いない。
ノックをする暇もなくドアノブを回す。
ダメだ。鍵が閉まっている。
その時、肩を力強く掴まれた。
「圭介!いきなりどうしたんだよ!」
群城が心配そうな顔でこちらを見ている。
俺はまだ荒い息で答える。
「……あったんだよ……宿泊者のところに…………北条環の名前が…………!」
「彼女が……ここにいるのか……!?」
その時、ガチャっと、鍵が中から開けられる音がする。
ゆっくりとドアノブが回され、扉がギギギと開いた。
「どなたですか?」
そこには、黒髪おさげの見知らぬ女の子が立っていた。
年齢的には北条環と同じくらいだが、明らかに彼女ではない。
じっと怪しい目でこちらを見ているので、俺はオタク特有の早口で弁解を始めた。
「え、あ、えあ、す、すみません。ほ、北条
「…………??北条りん?もしかして妹のこと?」
「え?」
思いもよらぬ回答が「北条環」から返ってきた。
ドアの前ではなんなので、俺たち4人は中に入れてもらうことにした。
「環って書いて、たまきって読むの。私の名前。」
北条
1人用のこの部屋に5人が入るのは少し手狭である。
俺たちは彼女の言葉に耳を傾ける。
「多分、あなたたちが探しているのは
「あの、それで、妹さんは、りんさんは今どこにいるんですか!?」
「……凛は、今から半年くらい前に突然消えたわ。まるで神隠しにあったかのように。」
「神隠し?」
たまきさんは深くため息をする。
そして、少しの沈黙の後、口を開いた。
「凛は1つ下の妹でね。京都は私たちの地元なの。凛は高校卒業と同時に上京して、東京の大学に入学した。そして、去年の12月、帰省にしてはまだ早い時期に急に凛が帰ってきたの。とても深刻な顔をして。」
12月……りんと連絡が取れなくなった時期と重なる。
「何かあったのか聞いたけど、凛は何も答えなかった。それから数日して、ふっといなくなったの。」
「どこか、りんさんが行きそうな場所はなかったんですか?」
「思いつくところは全て探したわ。警察に届けも出した。でも、半年以上経った今でも見つかっていない。生存は絶望的とも言われている。」
たまきさんの声は微かに震えている。
俺は息を飲み込んで、話を続けた。
「すみません、貴重な話、ありがとうございます。りんの名前『北条環』はお姉さんの名前だったんですね。『環』と書いて『りん』と読むのは確かに変だなとは思ってました。たまきさんのおかげで、大学の記録に『北条環』という名前がなかった事の謎が解けました。本当にありがとうございます。」
「……何かしらの事情があって、凛はそう名乗っていたのかもしれないわね。恋人であるあなたを事件に巻き込みたくなかったとか……」
しかし、同時に新たな疑問が浮かぶ。
京都に来る前に、りんのクラスメイトに、彼女の写真を見せて聞いてみた。
しかし、誰もりんの顔を知るものはいなかった。
記録にないならまだしも、クラスメイトの記憶にもないのは不自然だ。
「恋人か……」
横にいた群城がポツリと呟いた。
俺は特に気にも留めず、たまきさんに質問を続けた。
「りんさんの失踪の前後で、何か変わった事ってありませんでしたか?」
「変わったこと?」
「あの……例えば……周囲の人がりんさんのことを忘れてしまうとか……」
「………………なるほど……あなたたちも……」
「え?」
たまきさんは椅子から立ち上がった。
そのまま窓際まで歩いていき、こちらに背を向ける。
そして、ハッキリとした口調で話し始める。
「京都には、記憶を操る数学徒がいる。」
「記憶?」
「彼は、京都数学連合の幹部。数連合の高層10人のうちの1人でもあるわ。彼の能力は他人の記憶から特定の人物を消すことができる。」
「ちょ、ちょっと待ってください。記憶を消すなんて、そんな非現実的なことがあるわけ……」
「私も最初は半信半疑だったけど、そうとしか思えないことが続いているの。……あなたも腑に落ちることがあるんじゃない?」
「……。」
確かに、りんのクラスメイトから彼女の記憶はなくなっている。
この俺だって、先日までりんはそもそも存在しなかったと思っていた。
いやでも、フィクションの世界じゃあるまいし、記憶を操るなんてそんな非科学的なことが現実に起こるのだろうか。
「ねえ、あなた……名前は……?」
「あ、名乗ってなくてすみません。本条圭介です。こっちは、妹の環奈で、友人の群城、そして、特に友人でもないクソメガネです。」
「……やっぱりね。」
「へ?」
たまきさんは、キャリーバックから、封の閉じられた小さな封筒を取り出した。
まるで、待ち構えていたかのような仕草だった。
「あなたたちが訪ねて来た時から、なんとなく分かってたの。これをあなたにあげる。」
「これは……?」
「妹が失踪する数日前に私にくれた封筒。もし、本条圭介という人が訪ねて来たら渡して欲しいって。」
「中身は……開けなかったんですか?」
「開けちゃうと……もう本当に凛が帰ってこなくなるような気がしてね……。最後になるかもしれない、妹との約束を破りたくなかったの。」
悲しそうな顔をして、たまきさんは半ば自虐的に言う。
もしかしたら、りんが失踪する前に姉妹喧嘩でもしてしまったのかもしれない。
もちろん部外者の俺に、何があったのかを知る術はどこにもない。
俺は拳を力強く握りしめた。
たまきさんの許可をもらい、俺はこの場で封筒を開ける事にした。
中にはA4大の1枚の入っていた。
***
先輩へ。
クリスマス、待ち合わせ場所に行けなくてごめんなさい。
私のことは探さないでください。
京都は交差点が多くて迷ってしまいますから。
借りてた辞書も返せなくてすみません。
もしまたいつか会えたら一緒に喫茶店に行きましょう。
私はメイプルシロップのパンケーキです。
北条環
I=<x^3+y^2, x^2y+xy^2>
***
直感的に分かる。
これは、りんが俺に残した
解くことができれば、りんへの手がかりが掴める。
そして、おそらく解読の鍵を握るのは、グレブナー基底。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます