特定対象者観察日報
201■年7月■日(■)
観察対象者:本条圭介
気象:晴天、平均気温 27.2℃、平均風速0.8m/s。
対象者の1日の活動概要:
00:00〜13:04 自宅
13:04〜13:16 外出
13:16 ■■■線■■駅(最寄駅)到着
13:22 ■番ホームにて■■■行きの普通電車に乗車
13:23〜13:51 電車で移動
13:51 ■■駅に到着
13:54〜14:05 駅を出て徒歩にて移動
14:05 ■■大学に到着
14:05〜14:57 同大学。古城山研究室に訪問する
14:57〜15:05 大学を出て移動
15:05 カフェ「■■■■■」に到着
15:05〜17:10 同カフェにて滞在。16:03 対象者は群城すずと対面する
17:10〜17:23 カフェを出て徒歩にて移動
17:23 ■■駅に到着
17:27〜■番ホームにて■■■行きの普通電車に搭乗
17:27〜17:55 電車で移動
17:55 ■■■線■■駅(最寄駅)到着
17:57 駅を出て徒歩にて移動
17:57〜18:21 外出。途中コンビニ「■■■■■」に寄っている
18:21 自宅到着
18:21〜23:59 自宅
特記事項:対象者の明日以降の行動範囲の確定(後述)
日報:
対象者・本条圭介の観察を開始し丁度1ヶ月となる本日。対象者は相変わらず練馬の自宅を拠点に生活をしている。午前中は自宅におり特にこれといった活動は見られなかった。午後1時過ぎ、対象者は白いTシャツ姿にデニムブルーのジーンズ姿で家の玄関に現れる。背中には普段使っているバックアップの他、銀色の日傘を手に持っていた。最近流行りの「日傘男子」を意識しているものと思われる。しかし、日傘が壊れていたのか対象者はそれを開くことができず、数分間、傘と格闘した後にそれを戻して再び玄関から出てきた。対象者は徒歩にて最寄駅(■■駅)に移動した。■番ホームにて■■■行きの普通電車に乗車し、約20分後に■■駅に到着する。車中、特段変わった様子はなかったが、対象者は杖をついたお年寄りに席を譲ろうとするも、立ち上がる際に足首を捻ってしまい逆に席を譲られていた。この行動事実は対象者の「良い行いをしようとするも空回りしてしまう」性質を如実に表していると思われる(これは対象者の「特性報告書」にも記載済みである)。■■駅を出ると再び徒歩で移動を始める。そして、対象者の在籍する■■大学に到着する。対象者はそのまま真っ直ぐに古城山研究室を訪問する。数十分した後、同研究室から出て来た。中での出来事は不明だが、古城山ゼミは計算機代数の研究室であるから大学院での進学について相談していたものと想像される。対象者は大学を去った後、次の目的地と思われるカフェ「ベ■ーチェ」に着くと、店内の中央あたりの席に座った。観察者は気づかれないように同カフェの対象者のすぐ後ろに着座する。対象者はアイスコーヒを注文するとスマートフォンを眺め始めた。どうやらTwitterを開いているようで「飼い主の腕にしがみつく猫」の動画をリツイートしていた。「ヨシ!」と言いながら指差し確認する変な猫の画像もリツイートしていた。アイスコーヒーが届いた後、対象者は同様にスマートフォンを眺めていたが、数分後、奇妙な行動をし始める。対象者は突然何かに声を掛けられたかのように顔を上げ、慌てふためきアイスコーヒーをテーブルに零したのだ。 その後、対象者は店員を呼んだりするもどこかうわの空の様子だった。この時、対象者は自身の罹患する精神疾患「■■■■■■■■■■■■症」により幻覚を見ていたと考えられる。対象者はまるで誰かと会話をしているかのように独り言を呟き始め、さらにはノートを取り出しそこに何やら数式を書いていた。その呟きと数式から察するにどうやらグレブナー基底について定義をしているようだった。
これからその詳細について述べることとする。まず対象者は単項式順序について説明をしていた。これは単項式順序がグレブナー基底を定義する上で重要な役割を果たすからだと思われる。単項式順序は文字通り単項式の間に定まる順序で次の3つの条件を満たすものである(隙をみて撮影した対象者のノートより引用)。
***
定義.(単項式順序)
> をn個の変数 x_1,...,x_n からなる単項式の間に定められた順序とする. ここで, 単項式 x_1^{a_1}…x_n^{a_n} を簡単に a=(a_1,...,a_n) として, x^a で表す. このとき, 次の3つの条件を満たすならば, >は単項式順序と呼ばれる.
1. >は全順序である.
2. 任意の単項式 x^a, x^b, x^c に対し、x^a>x^b ならば、x^a x^c > x^b x^c.
3. >は整列順序である.
***
対象者曰く、単項式順序は多項式の割り算をきちんと行うための順序でもある。単項式順序の例として、対象者は辞書式順序を挙げていた。
***
定義(2変数の辞書式順序)
a_1, a_2, b_1, b_2 を0以上の整数とする。
単項式 x^{a_1}y^{a_2} と x^{b_1}y^{b_2} を考える。
このとき、順序>を
x^{a_1}y^{a_2} > x^{b_1}y^{b_2} ⇔ 「a_1>b_1」 または 「a_1=b_1 かつa_2>b_2」
で定義する。この順序のことを(x>yの)辞書式順序と呼ぶ。
***
辞書式順序は名の通り、単項式を辞書的に並べるものである。例えば、辞書式順序では x^2y>xy^3 が成り立つ。これはまず x の指数で比較をした際に、x^2y のx^2の方が xy^3 の x より大きいからだ。x の指数が同じ場合には y の指数で比較する。例えば、x^2y^2>x^2y が成り立つ。
変数が2変数以上の場合、単項式順序の条件を満たす順序は無限に存在する。しかし、対象者は辞書式順序しか導入していなかった。確かに連立方程式を解く観点においては辞書式順序で十分だが、計算効率などを考えると他の単項式順序も定義するのが筋であろう。ここでは、辞書式順序以外の単項式順序を1つ紹介したいと思う。「次数付き辞書式順序 (graded lex order)」だ。次数付き辞書式順序とは名の通り、次数を考慮に入れた辞書式順序である。まず、単項式の全次数(total degree)というものを定義しよう。
***
定義.(全次数)
単項式 x^a=x_1^{a_1}…x_n^{a_n} の全次数とは、指数の和 a_1+...+a_n のことである。また、単項式 x^a の全次数を |x^a| で表すこととする。すなわち、|x^a|=a_1+...+a_n である。
***
例えば、単項式 x^2y の全次数は |x^2y|=2+1=3 である。1変数単項式 x^n の全次数は |x^n|=n であるため、全次数は1変数の時の次数を多変数に拡張したものとなっている。ただ、一変数の場合と異なり、異なる単項式でも全次数が同じになることがある(例:|x^2y|=|xy^2|=3)。次数付き辞書式順序ではこの全次数により単項式を比較する。簡単のため 2変数で議論する。なお、辞書式順序と次数付き辞書式順序を区別するため、辞書式順序を > (lex)、全次数辞書式順序を > (glex) と括弧書きで表記することとする(本当は、>の右下に「lex」や「glex」を付けたいがこの観察日報の仕様上、数式モードが使えないため便宜上 > (lex)、> (glex) と表記している)。
***
定義(2変数の次数付き辞書式順序)
a_1, a_2, b_1, b_2 を0以上の整数とする。
単項式 X^a=x^{a_1}y^{a_2} と X^b=x^{b_1}y^{b_2} を考える。
このとき、順序> (glex)を
X^a > X^b (glex) ⇔ 「|X^a|>|X^b|」 または 「|X^a|=|X^b| かつ X^a >X^b (lex)」
で定義する。この順序のことを(x>yの)次数付き辞書式順序と呼ぶ。
***
ここでは、x^a=x^{a_1}y^{a_2} とすると、左辺の x と右辺の x が被ってしまうので、左辺の x を 大文字の X にした(X^a=x^{a_1}y^{a_2})。次数付き辞書式順序では、まず単項式の全次数で比較する。全次数が同じ場合には、辞書式順序で比較をする。具体的な例をみてみよう。単項式 x^3y と xy^2 の全次数はそれぞれ |x^3y|=3+1=4、|xy^2|=1+2=3 である。よって、4>3 であるので、次数付き辞書式順序の定義から、x^3y>xy^2 (glex) である(X^a=x^3y、X^b=xy^2とすると、「|x^a|>|x^b|」を満たす)。別の例として、x^3y と xy^3 を考える。ここでは、全次数が |x^3y|=|xy^3|=4 で一致しているので、lex 順序で比較する。lex 順序では x^3y > xy^3 (lex) であるので、次数付き辞書式順序の定義から、x^3y > xy^3 (glex)が言える(X^a=x^3y、X^b=xy^2とすると、「|X^a|=|X^b| かつ X^a >X^b (lex)」を満たす)。
次数付き辞書式順序は単項式順序であることが知られている。特に気にしない人は証明は本日報とは関係ないので読まなくても良い。
命題A:次数付き辞書式順序は単項式順序である。
証明)まず、単項式順序の条件「1. >は全順序である.」を示す。全順序とは単項式同士が比べられることであった。つまり、単項式 X^a と X^b が X^a>X^b (glex)、X^a=X^b (glex)、X^a<X^b (glex) のどれかを満たすことを示せばよい。ここで、全次数の比較により、|X^a|>|X^b|、|X^a|=|X^b|、|X^a|<|X^b| のいずれかが成り立つ。さらに、|X^a|=|X^b|の場合には辞書式順序で比較するので、次の場合分けが成り立つ。
・|X^a|>|X^b|の場合⇨ X^a > X^b (glex)
・|X^a|=|X^b|の場合⇨(次の3つに分かれる)
・X^a > X^b (lex)の場合⇨ X^a > X^b (glex)
・X^a = X^b (lex)の場合⇨ X^a = X^b (glex)
・X^a < X^b (lex)の場合⇨ X^a < X^b (glex)
・|X^a|<|X^b|の場合⇨ X^a < X^b (glex)
いずれの場合にしても、X^a > X^b または X^a = X^b または X^a < X^b が成り立つことが分かり、つまり、次数付き辞書式順序は全順序であることが証明された。
次に、単項式順序の2つ目の条件「任意の単項式 X^a, X^b, X^c に対し、X^a>X^b ならば、X^a X^c > X^b X^c.」を示す。そのために次の簡単な事実を確認しよう。
事実A:任意の単項式 X^a, X^c 対して、|X^a X^c|=|X^a|+|X^c| が成り立つ。
証明:簡単のため二変数の場合で示す。X^a = x^{a_1} y^{a_2}、X^c = x^{c_1} y^{c_2} とすると、全次数の定義から、|X^a|=a_1+a_2、|X^c|=c_1+c_2 である。一方、X^a X^c = x^{a_1} y^{a_2} x^{c_1} y^{c_2} = x^{a_1+c_1} y^{a_2+c_2} であるから、|X^a X^c|=(a_1+c_1)+(a_2+c_2)=a_1+a_2+c_1+c_2 が成り立つ。したがって、|X^a X^c|=|X^a|+|X^c| である。(事実Aの証明終)
この事実Aを用いて2つ目の条件を証明する。事実A から、|X^a X^c|=|X^a|+|X^c| 、 |X^b X^c|=|X^b|+|X^c| が成り立つ。では、X^a>X^b (glex) が成り立つとしよう。 この時、glexの定義から、|X^a|>|X^b|または |X^a|=|X^b| が言える。
(i) |X^a|>|X^b| の時、|X^a X^c|=|X^a|+|X^c| > |X^b|+|X^c|=|X^b X^c| が言え、次数付き辞書式順序の定義から、X^a X^c > X^b X^c (glex) が成り立つ。
(ii)|X^a|=|X^b| の時、辞書式順序での比較になるので、X^a X^c > X^b X^c (lex) が成り立ち、 X^a X^c > X^b X^c (glex) が成り立つ。
いずれにしろ、X^a>X^b (glex)ならば、X^a X^c > X^b X^c (glex)が言えたので、2つ目の条件が示された。
最後に、単項式順序の3つ目の条件、「3. >は整列順序である.」を示そう。これはつまり、減少列 x^{a_1}y^{b_1} > x^{a_2}y^{b_2} > x^{a_3}y^{b_3} > … がいつかは止まることを示せばいいが、次数付き辞書式順序の定義から全次数は、上がることはない。しかし、全次数は0以上の自然数なので、永遠に下がることもなく、いつかは下がらなくなる。つまり、あるk番目で全次数が一致して、|x^{a_k}y^{b_k}|=|x^{a_{k+1}}y^{b_{k+1}}|となり、これ以後は辞書式順序による比較になる。しかし、辞書式順序は整列順序であるから、元の減少列はいつかは必ず止まることが分かる。したがって、次数付き辞書式順序は整列順序である。(命題Aの証明終)
以上から、次数付き辞書式順序は単項式順序であることが分かった。辞書式順序と次数付き辞書式順序の違いについて、具体的な例で実感してみよう。x^3y と xy^4 をそれぞれの順序で比較する。辞書式順序では、x^3y の方が x の指数が大きいので、x^3y > xy^4 (lex) が成り立つ。一方、全次数を比較すると、|x^3y|=3+1=4、|xy^4|=1+4=5 であるので、次数付き辞書式順序では、x^3y < xy^4 (glex) である。このように、辞書式順序と次数付き辞書式順序では、単項式の順番が異なっている。では、それぞれの順序で単項式を小さい順に並べてみよう。まず、辞書式順序では一番小さい単項式は 1 であり、次に小さいのは y である。その次は、y^2, y^3, … と y だけの単項式が並んでいく。y だけの単項式の次に小さいのは x であり、その次は xy, xy^2, xy^3 …, と x に y が付いたものが並んでいく。
辞書式順序:1, y, y^2, y^3, y^4, …, x, xy, xy^2,…
一方、次数付き辞書式順序は、一番小さい単項式は同様に1であり、次に小さいのは y である。ここまでは、辞書式順序と同じだが、次に小さいのは全次数が 1 の x となる。なぜならば、1,y,x 以外の単項式の全次数は 2 以上であり、x よりも大きくなるからだ。x の次に小さいのは、全次数が 2 の y^2 である。その次は、xy, x^2 であり、さらにその次は、y^3… と全次数が徐々に上がっていく。このように、次数付き辞書式順序は、次数により、辞書式順序を並べ直したような順序になっている。
次数付き辞書式順序:1, y, x, y^2, xy, x^2, y^3, xy^2, x^2y, x^3, y^4,…
次にそれぞれの特徴について述べよう。対象者も説明していたが、辞書式順序は連立方程式を解く際に使われる。一方、次数付き辞書式順序はそのまま直接的には連立方程式に利用することはできないが(間接的な方法は存在する)、辞書式順序よりも効率的にグレブナー基底が計算できることと言われている。例えば、{x^7+y^3-1,x^2+y^2-1} の辞書式順序でのグレブナー基底は、
{-y^13-y^12+6*y^11+6*y^10-15*y^9-15*y^8+20*y^7+20*y^6-16*y^5-16*y^4+5*y^3+7*y^2,(3*y-3)*x+y^12+y^11-7*y^10-6*y^9+22*y^8+14*y^7-38*y^6-16*y^5+38*y^4+10*y^3-19*y^2-3*y+3,x^2+y^2-1}
であるが、次数付き辞書式順序でのグレブナー基底は、
{(-y^3+1)*x-y^8+4*y^6-6*y^4+4*y^2-1,(-y^6+3*y^4-3*y^2+1)*x+y^3-1,x^2+y^2-1}
であり、より少ない多項式で表されていて簡単なことが分かる。実は辞書式順序は概念としては素朴な単項式順序ではあるが、計算する面においては効率の良くない順序であるのだ。このように単項式順序にはそれぞれの特徴があり、グレブナー基底の用途に合わせて単項式順序を設定する。1つのイデアルに対し、単項式順序を色々変えることで様々なグレブナー基底が登場する。例えるならば、イデアルはギターであり、単項式順序はそれを用途に合わせて調整するチューニング、そして、そこから出る音色がグレブナー基底だ。
少々脱線してしまったが、日報の報告に戻ろう。対象者は見えない何かとずっと数学の話をしていた。単項式順序、割り算の話、そしてグレブナー基底。1時間ほどした後に、対象者の元へ群城すずがやってきた。対象者は彼女との待ち合わせのためにカフェに来たようだった。群城すずは、別紙報告書でも記載のように対象者の関係人物の中でも特に重要な人物である。群城すずは本条圭介の幼なじみであり、反背理法主義者として東数でも名を轟かせている。留学していた1年間のブランクもあってか東数内でのランクは高くはないが、数年前は「
対象者と群城すずは次の行楽の計画を立てているようだった。その際、群城すずは彼女が友人と訪問した京都の写真を見せる。対象者はそこにある人物を発見する。それは対象者が幻影だと思っていた恋人「北条環」であった。北条環は去年の冬に対象者と同じ授業をとっていた女学生であり、同じカフェで対象者とデートをしたこともあった。しかし、彼女はその年のクリスマスに対象者の前から姿を消す。対象者は北条環の行方を探したが、大学には彼女がいた痕跡はどこにもなかった。今日、対象者の前に北条環の幻影が現れ、対象者は彼女の存在自体がそもそも「
しかし、今日、北条環が群城すずの写真に写っていたことから、北条環が空想ではなく実在する人物であることが判明する。対象者および群城すずは、北条環の手がかりを求めて京都に向かうことを決めた。
以上が本日の観察報告の主な概要である。明日から対象者は京都に移動する。おそらく彼らが「北条環」と呼んでいる人物(本名:■■■■)の正体を掴んでしまうだろう。しかしながら京都は、数連合高層第■位■■様の本拠地でもある。■■様の抱える戦力を考えれば、対象者および群城すずなど微々たるものだろうが、念のためこちらからも数学徒数名を派遣することとする。ただ1点注意すべき点としては対象者の妹・本条環奈が色中英祐様の■■■■■■であることだけだろう。京都数学連合の面々が彼らを歓迎してくれることを祈り結びとする。
文責:
高層第1位 専属秘書
古城山リサ
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