第3話
『
「まず、ディクソンの補題から、HT(I) の最小の基底 S が一意的に存在する。ここで、各 t∈S に対して、ある f_t∈I で、HT(f_t)=t なるものが存在する。I はイデアルから、HM(f_t)=t としてよく、さらに、f_t を上の条件を満たす I の元の中で最小のものとしてよい。さて、G={f_t | t ∈ S} とする。この G が I の唯一の簡約グレブナー基底であることを示す。G がグレブナー基底であることは S の定義から自明であり、G の多項式は明らかにモニックであるので、簡約性と一意性を示せばよい。まず、Gの簡約性について、g_1≠g_2∈G、f∈K[x_1,...,x_n]で、g_1→_{g_2} f なるものが存在すると仮定して矛盾を導く。g_1→_{g_2} f が先頭で簡約されている場合、HT(g_2)|HT(g_1)から、S'=S\{HT(g_1)}もHT(I)の基底となるが、これはSの最小性に矛盾。先頭以外で簡約されている場合、HT(f)=HT(g_1)、f < g_1となり、g_1の最小性に矛盾する。よって、Gは簡約グレブナー基底。次に、一意性について、Hをもう一つの I の簡約グレブナー基底とする。g を対称差 G△H の元で、HT(g)がHT(G△H)の中で最小のものとする。ここで、g∈G\H としても一般性を失わない。この時、h∈HでHT(h)|HT(g)なるものが存在するが、Gの簡約性から、h∈H\Gである。したがって、g の最小性から、HT(h)|HT(g)は、実はHT(h)=HT(g)である。さて、f=g-h を考える。gとhはモニックから、HT(f)<HT(g)=HT(h)を満たし、さらに、HT(f)∈T(g)またはHT(f)∈T(h)が成立する。HT(f)∈T(g)とする。f∈Iから、あるp∈GでHT(p)|HT(f)となる。しかし、これは g のある項はGのある元の先頭項で割り切れることになってしまい、Gの簡約性に矛盾する。すなわち、これで、体上の多項式環 K[x_1,...,x_n] のイデアル I に対して、その簡約グレブナー基底は一意的に存在することが示せた。□」
すごーい!君は数学の証明が得意なフレンズなんだね!
俺は思わず語彙力を失う。
そのくらい、導来圏の口から出た証明は、一部の隙もなく正しかった。
一時、騒然とする会場――。
まるで、よく推敲されたテキストのような証明に、俺は感動さえしていた。
「さて、解答の審査が終わりました☆☆ ………………導来ちゃん、お見事!正解です!!☆☆←やったね!) しかも〜、回答時間は、なんと28秒!!」
こマ?
早すぎる。
いや、早すぎる。
早すぎだろ。
23歳の俺が、3時間かけてじっくり考えた問題は、8才の少年に、わずか30秒で解かれた。
いや、早すぎるだろ。チートかよ。
何が起こったんだ。
「ということで〜☆☆本条ちゃんの
――不正。
この驚くべきスピードに、そんな言葉が頭をよぎったが、残念ながら、不正をするには28秒という時間はあまりにも短すぎる。
……では、なぜ??
「カッ。教科書通りのつまらねえ問題出しやがって。30秒も持たなかったじゃねえか。」
導来圏は、小指で耳を掘りながら、同時に鼻もほじくっている。
その姿はどこからどう見ても8才児だ。
簡約グレブナー基底の一意性を証明できるとは、外見からはとても判断できない。
「あーあ。期待はずれだ。何のひねりも刺激もねえよ。……本条圭介、お前、大学の4年間で、何学んでたんだよ?」
計算機代数だ。グレブナー基底だ。
そして、大学は5年目だ。
いやいやいや、いくら何でも小学生に説教される筋合いはない。
しかし、導来圏の数学的能力は認めざるを得ない。
まさか、グレブナー基底の知識まであるとは。
もしかしたら俺と勝負することを予測して、事前に周到なる準備をしていたのかもしれない。
「確かに、今回は、俺の出題は失敗した。しかし、次は別の分野の問題で攻めればいいだけだ。いくらなんでも小学生に、大学4年間で培った知識で負けるわけにはいかない。」
「はあ。だからお前はつまんねんだ。」
導来圏がため息混じりに言う。
まるでおもちゃに飽きた子どものようだ。
いや、子どもなのだが。
「ど、どういう意味だよ!?」
「ケッ。そのままの意味だ。お前が知識でオレに勝てるはずがねえのさ。」
未だ言葉の意味がわからない俺をよそに、導来圏の背後のカーテンが開かれた。
300を優に超える本が、本棚に陳列されている。
特に、白に黄色の背表紙のものが目立つ。
これはまさか――
「Graduated Text in Mathematics。通称GTMは、アメリカの大学院生ように作られた数学のテキスト群で、その巻数は、274シリーズまで及んでいる。オレがただやったことは、ここにある GTMの内容を、一字一句すべて記憶しただけだ。オレの過剰なるスキル『
へ…………え!?
どゆこと!?
記憶??え、これ全部??
「オレの『
嘘だ。そんな禁書目録を覚えてそうなスキル、現実にあってたまるものか。
そんな幻想みたいなこと、あってはならない。
「例えば、今回お前が出した問題は、GTM 141 Becker Weispfenning "Gröbner Basis"のp.209, Chapter 5, section 4 のTheorem 5.43に "Let I be an ideal of K[X]. Then there exists a unique reduced Gröbner basis G of I w.r.t. ≤." として載っている。ほれ、確認してみろよ。」
ほんとだ。導来圏から渡された数学書には、まったく同じことが書かれていた。
そして、さっき、導来が証明したことも、proof を和訳したものになっている。
少なくとも、導来は数学書を完全に記憶し、問題を聞いた瞬間、それらを検索し、同時にそれを翻訳していることになる。
記憶、検索、翻訳。
この3つを備えているなんて、
「
語句を検索する副作用『
文章を翻訳する副作用『
文章を解析する副作用『
暗算で計算する副作用『
自動で推論する副作用『
集中状態になる副作用『
睡眠状態になる副作用『
欠陥を見つける副作用『
多層に学習する副作用『
音波を聞き取る副作用『
音声を処理する副作用『
画像を解析する副作用『
図形を作成する副作用『
何回も繰り返す副作用『
同時に処理する副作用『
ケッ。役に立たない邪魔な副作用だけでもざっとこんなもんだ。欲しいなら、1つでも2つでも全部くれてやるよ。
」
/*********導来圏***************************************
*血液型:AB型
*能力:
*特徴: 過剰な副作用が派生されるスキル。
* ほとんど至るところ万能。
* 別名、派生範疇 (Derived Category)。
*********************************************************/
「…………勝てるはずがない……」
俺は、無意識に、思ったことを、いや事実を、口に出していた。
だって、すでに反則だからだ。
向こうは、人間離れした小学生。
こっちは、落ちこぼれの留年生。
文字通り、俺と導来圏では性能が違う。
「ケッ。こんな勝負早く終わらせようぜ。次にオレが適当に出題して、お前が答えられえなくて終了だ。Categories for the Working Mathematician に載ってるようなExercise 出せば勝手に死ぬだろ。つーか、それも面倒くせえから、もうここで降参しとけよ。」
導来が、侮蔑の眼差しで俺を見下ろしている。
当たり前だ。
彼と俺とでは数学力が違う。
数学ができない俺はゴミみたいなものだ。
あきらめよう。
そう思った瞬間、俺は、自分に向けられている視線に気がついた。
――環奈。
両手を前で強く握ったまま、こちらをじっと見つめている。
その目は微かに濡れ、顔は紅潮している。
そして、数戟管理委員会が彼女を囲っていなければ、今にもこっちに飛び出してきそうな雰囲気だ。
そうだ。これは、環奈のための戦いなんだ。
環奈をかけた戦いなんだ。
プライドを傷つけられて落ち込んでいる場合じゃない。
相手がいくら強くても、戦わない理由にはならない。
勝つためには、戦わなければならない。
これは、勝つための数戟なんだ。
「お前が、圏論の問題を出そうが、微分幾何の問題を出そうが、偏微分方程式の問題を出そうが、コホモロジーの計算を出そうが、基礎論の強制法を出そうが、誰も解けない問題を出そうが、俺が頭かっぽじって死ぬ気で全部解いてやるっ!!!未解決問題でも既解決問題でもなんでもかかってきやがれっ!!!」
俺は、GTMを床に叩きつけて叫んだ。
GTMには罪はない。
罪があるのは、さっきまでの不甲斐ない俺だけだ。
「あの〜。本条ちゃん、熱くなってるのはいいんだけど〜、次の出題タイムは〜、今じゃなく〜、明日からだからね〜」
平等院補題が、うざったそうに説明する。
え、あ、そうなの?今じゃないの?
「はい!ということで、
***
こうして、
長いようで、時間的にはあっという間だった気もする。
というか、ここに来てから、色々なことがありすぎて、ようやく気持ちが落ち着いて来たというべきか。
会場からの去り際、導来は「カッ。ま、せいぜい悪あがけよ。」という言葉だけを残していった。
相変わらずつまらなそうな顔をして、さっきの俺の言葉にどう反応しているかは、よく分からなかった。
しかし、この数戟の最中に、ゆっくり休めるわけがない。
明日の問題に答えられなけらば、この数戟に負けるのだ。
緊張の糸を切らすわけにはいけない。
対策という対策を練らなけらば。
カポン。
そんなことを、俺は温泉に浸かりながら考えていた。
温泉の産地、群馬。
温泉の効能には、学力促進もきっとあるはずだ。
血流が上昇して、頭の回転が早くなるとも聞いたことがある。
ふう。44度の熱いお湯が、体を芯から温める。
「少し、熱いかもしれない。」
隣の南條が、ボソッとつぶやいた。
というか、いたのか。
まあ、確かに、44度のお湯はちょっと熱めだ。
「少し、冷まして持って来ればよかった。」
そう言って、南條は湯呑みに入ったお茶をすする。
なるほど。そっちか。
確かに湯気も立って熱そうだ。
というか、どこから持って来たんだ、それ。
「本条、今日は、お疲れ様だった。よく健闘した、と思う。」
南條は、お茶をすする手を止めて言う。
「ああ、ありがとう。数戟管理則とか、南條とファミレスで対策したのが役に立ったよ。まあ、俺は自体は役に立たなかったけど。」
「否。そんなことは、ない。本条は、あの場で、あのプレッシャーの中で、出来る限りの問題を作成した。導来圏の
「え、あ、ありがとう。」
南條から、励まされるのは珍しい。
いつも、厳しいことを言われてるので、なんか若干恥ずかしくなる。
それと、今気づいたんだが、南條は、見た目は美少女なので、なんというか、その、俺は今、女の子と一緒に温泉に入って……いるかのような錯覚がする。
お湯のせいもあってか、俺は顔がだんだん熱くなってきた。
「お、俺は、もうあがるよ!」
いかん。いかん。
のぼせて倒れたら大変だ。早く逃げよう。
「ちょっと、待って。」
「あひゅっ!」
南條に腕を掴まれた俺は、思わず変な声を出してしまう。
お湯で濡れた南條の髪が、白い額を露わにしている。
裸眼のはずのその瞳は、いつもより少し大きく見える。
「本条に、言わなければならないことがある……」
言わなければならないこと……
まさか。いや、まさか!
「ちょっと、ちょっとタンマ!いや、今裸だし、あひゅーだし、心の準備っていうか、なんというか、壊れかけのレディオっていうか、まだ思春期の少年っていうか……」
「少年?思春期?」
「いや、だってね!俺、思春期だからね!まだ童貞だからね!大人になってないからね!」
「よくわからないが、とにかく言う、ぞ。」
俺は、覚悟を決めた。
「……この、
え、あ、そっちね。なるなる〜。
***
温泉から上がって、自分の部屋に戻ると、群城が一杯やっていた。
もう一度言うが、自分の部屋に戻ると、群城が一杯やっていた。
「おっ!圭介!遅かったなっ!」
遅かったなではない。
そして、片手に一升瓶を持ちながら、一升瓶を振り回して言うセリフでもない。
というか、どこから持って来たんだ、それ。
「お兄ちゃん……おかえり。」
群城の横で、妹の環奈も座っていた。
手には、オレンジジュースを握っている。
「ほれ!明日もあるんだから、今日は存分にリラックスしやがれ!南條もお茶飲むだろ!?」
「頂く。」
まったく、明日もあるというのに、こいつはいつでも騒がしい。
そう愚痴りながらも、軽く飲むことにした。
1時間くらい経って、突然、群城に肩を抱かれた。
こいつ酔ってるなと思ったが、群城は以外にも冷静な声でこう囁いた。
「……環奈ちゃん、このセミナーハウスに来てから元気がないんだ。……なんかこう思い悩んでるというか、抱えているというか……。今回のことに、責任感じているのかもな。……だから、せめて環奈ちゃんの前では、アタシらが、楽しんでいる雰囲気を出そうぜ……。」
群城、お前、イケメンかよ。
確かに、ここに来てから、環奈の様子はおかしい。
もしかしたら、今回の誘拐事件に何かあるのかもしれない。
いや、あったとしても、環奈が自ら言い出したいタイミングを、兄として待つしかないのだ。
結果としては、ここで強引にでも聞いておけばよかったのかもしれない。
俺は、この時、あんなことが起きるなんて想像もしていなかったのだから。
***
翌朝、目が覚めると、部屋には誰もいなかった。
群城と、環奈は自分の部屋に戻ったとしても、俺と同室の南條の姿もない。
この後すぐに、群城ら二人の部屋にも誰もいないことに気がつく。
嫌な予感がした。
俺は、とりあえず、急いで宿泊所からセミナーハウスに向かう。
セミナーハウスの中に入ると、そこには、平等院補題だけが、テーブルの上に座っていた。
同時に、黒子により、セミナーハウスの鍵が施錠された。
「おはようございます☆☆ 本条ちゃん!!☆☆」
補題が高らかに、声を上げる。
俺らの他には誰もいない教室に、声は渇いて響く。
「そして〜、同時に〜、導来ちゃんから、問題が出題されました!!☆☆」
***
【問題】
このセミナーハウスの周囲、半径5km以内には、13の小屋がある。
小屋は、全部で31本の電話線でつながっており、つながっている小屋の関係は図のようになっている。
図:(省略)
図の説明:
それぞれの小屋と電話線でつながっている小屋の関係。
(例えば、小屋3は、小屋1、小屋9、小屋11と電話線でつながっている。)
小屋1:3,4,5,6,7,10
小屋2:5,9,10,12
小屋3:1,9,11
小屋4:1,7,8,9,10,12
小屋5:1,2,7,8,13
小屋6:1,8,9,13
小屋7:1,4,5,9,12,13
小屋8:4,5,6,11
小屋9:2,3,4,6,7,10,11
小屋10:1,2,4,9,12,13
小屋11:3,8,9
小屋12:2,4,7,10
小屋13:5,6,7,10
この時、次の2つの条件を満たす、3つの小屋 A,B,C を探せ。
条件1:A,B,Cは互いに、電話線でつながっていない。
条件2:A,B,C以外の小屋はすべて、A,B,Cのうちのどれか1つと電話線でつながっている。
ただし、次の添付ビデオを見てから、回答を始めること。
***
なんだ、この問題は。
添付の図には、円が描かれていて、その円周上に、13個の点と、それらを結ぶ31本の直線が描かれている。
そして、環奈たちはどこに行ったんだ??
そうこうしている内に、目の前のスクリーンでビデオが再生された。
『カッ。本条圭介、見ての通り、導来圏だ。』
動画の中で、導来圏が椅子に座っている。
『このビデオが、再生されているということは、たった今、問題が出題されたわけだが、今から、問題とは関係ないことをお前に説明しよう。』
?どういうことだ?
『問題に出題された小屋は、実際にこのセミナーハウスの周りに存在する。もちろん、電話線もつながっているし、その関係も図で説明した通りだ。さて、問題とは関係ない、さして重要でもないことの1つ目だが…』
ビデオのディスプレイが切り替わる。
いくつかの小屋の内部を写した監視カメラの映像のようだ。
そこに映るのは……
!?
『問題の答えとなる3つの小屋には、それぞれ、群城すず、南條体、そして、本条環奈が監禁されている。』
椅子に縛られ、目隠しをされたあいつらが、ディスプレイの中にいる。
なんで!?
『そして、関係ないことの2つ目、今から、この13の小屋は、10分ごとに1つずつ爆発していく。2時間後には、全てが燃える計算だ。』
はあ!?何言ってんだこいつ。
『そして、関係ないことの3つ目。問題とは関係のないヒントをお前にやろう。それは、
「整数は、数学の女王」
だ。では、せいぜい頑張ってくれ。』
瞬間、遠くで、ボンと鈍い音がした。
窓を見ると、白い煙が森の中から揚がっている。
「それでは、
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