初恋温泉
西川エミリー
初雪温泉
プロローグ
紺色の夜空に、赤と緑の提灯が揺れる。そして同じ速度で、目の前の、母さんと父さんの繋がれた手も揺れた。あの冷たい風が吹いた瞬間を、今でも覚えているのは、手を繋いだ二人を、そのとき初めて見つけたからなのだろうか。
「なんで手、繋いでるの?」
尋ねた僕に、父さんは目を逸らし、母さんだけが振り返って、
「いいじゃない」
小さく答えた。
「暗いから、秀ちゃんも母さんのこっちの手繋ぎなさい」
駆け足で母さんの左に回り、右手が大きな温もりに包まれる。あぁ、と僕は生まれて初めて実感した。母さんと父さんは、二人きりだったのだ。
そこには妹も弟も、まだいない。僕らは三人だけで、左右に提灯の明かりの続く坂道を登っていた。いつしか提灯の列が途切れ、コンクリートの道も終わると、山の上から流れてくる一本の川に突き当たった。暗闇には、地上の雲とも呼べそうな大きな湯気が、もくもくもくと、形を変えながら、白く灯る。川は大地から溢れ出る、温かな流れだった。
白い風景に、僕は雪が降り始めたことにすら、すぐには気づかなかった。
けれど僕はやがて、暖かい湯船のなかで胡座をかいた、父の膝の上に腰を掛け、雪の舞う、静かな景色を見つめていた。それは、しんしん、というよりも、ひらひらという言葉の似合う、粉雪だった。雲の上で、大勢の天使が羽ばたき、その羽がひらり、ひらり、夜の闇を舞いながら落ちてきている。
湯船を囲う景色は一面、その冬既に降り積もった、分厚い雪に覆われていた。積み重なるいびつな岩たちに、隣の女子風呂との境の役目を果たす、背の高い木製の仕切り。広い湯船の一角を覆う、三角屋根。そういうものは全て、深い闇に半ば溶け、皺一つない、まっさらな雪布団が、それらの輪郭を白く形どった。
舞い落ちる雪粒が、闇に白い明かりを灯す。そして暖かい湯から立ち上がる、真っ白な湯気に触れては見えなくなった。湯の上一面に広がる、湯気と雪の混ざり合う空間が幻想的で、まるで僕らだけ、外とは全く切り離された時間のなかにいるような気がした。母さんは、仕切りの向こうの女子風呂に離れていたというのに、不思議とそのとき、心細いとは感じなかった。頭に載せた、四角たたみの手ぬぐいを落とさぬよう、じっと首を据えて、温かさに守られながら、雪明りのひらひら舞う、景色を見つめていた。
やがて父さんは、膝の上からそっと僕を下ろすと、秀、と呼びかけた。
「いい湯だなぁ・・・・・・」
湯気の向こうに、普段は厳格な父さんの、目尻の下がった笑顔が浮かぶ。
その瞬間を思い返しては、また行きたいなぁ、そう僕は、何度でも思ったのだ。
けれどそれきり、家族で温泉に行く機会は訪れなかった、次の年に弟、その次の年に妹と、立て続けに新しい家族を迎え、賑やかになった我が家にそんな余裕などなかった。だから僕は、いつも少しだけ長く目を閉じるとき、瞼の奥に、あの日の湯けむりと雪明りを、ぼんやりと白く思い浮かべた。あのとき本当に僕らだけ、現実から遠く離れた異空間に身を置いていた。まるで、綺麗な絵のなかにいたみたいな。そして、そちらの世界の風景は、僕の中に、静かに、温かい湯のように、いつまでも流れ続けたのだった。
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