間引


(1)畑の作物などを、まびくこと。間にあるものを省くこと。間隔をあけること。

(2)口べらしのため親が生児を殺すこと。


 辞書を適当に引いてあたった言葉を反芻した。

 言葉があるということは、言葉どおりのことが実際にあったという証明である。

 つまり、人間は間引をしたのだろう。人とはなんと残酷な。

 そして、実直でもある。己の感情に流され、過ちとも自覚すらなく平然と非人道的な行為をする。

 人間とは生きる価値のない存在だ。なぜか?

 俺がそう思うこと。疑問に思うこと。または、俺が常々考えていること。

 我思う、故に我あり。それが証明だ。



「生きてきた意味があったとでも?」

 芋虫に問いかけた。薄暗い公園の隅、街灯が届くか届かないかの距離。俺はホームレスを襲う餓鬼をねじ伏せた状態で聞いた。

 出会った頃の威勢は欠片もなかった。数人の少年は各所を押さえうなり、またある餓鬼は痙攣しながら白目を剥いていた。



「弱い者いじめはいけないよ。小学校で教わらなかったの?」

 俺は少年を屈む姿勢で訊いた。

「わからないんだよねー、俺、あたま悪いから」


 俺は少年の持っていた学生鞄から国語辞書を拝借していた。

「きみたち、どうして制服なの? 学校帰り? 帰宅途中にホームレスがいたから害虫駆除みたいな?」

「いけないなー、いけないよー。人としてそれは見習えないなー」



 俺は立ち上がり、片足をあげる。つま先であえて餓鬼の腹を突いた。

「体罰は顔を殴らず、蹴りはつま先ではなく足の甲で。常識だよね。でもさ、俺、馬鹿だからわからないんだよ。加減もわからない。その点については本当に申し訳なく思ってる。でも、これが俺のやり方だから、いまさら変えられないんだよね」


 俺はもう一度、加減も知らず腹を蹴り飛ばした。

 口から血を吐き、餓鬼は瞳孔を開きうめくのを止めた。俺はあたりを見回した。

 たすけてやったはずのホームレスの糞尿の臭いが消えていた。

 そのせいか、夜風がとても心地よかった。俺は餓鬼のもっていた国語辞書をもらっていくといってその場をあとにした。

 世界は淘汰されていた。弱者はより弱く、力のある者はありもしない理想を恥じらいもなく他人に問う世界になっていた。

 出所した間近。俺は浦島太郎になった気分だった。


 世界は爛れていた。

 腐り朽ちていた。


 餓鬼から回収した8万2152円を得た。最近の餓鬼は裕福だ。

 不平等である。ここは資本主義の国で共産主義ではない。だから、俺には他人の金が必要だ。

 餓鬼なら親がなんとかしてくれるだろう。俺は拝借することにした。

 立ち食いそば屋に入り、天麩羅そばをすすった。

 うまくはない。まずい部類の食べ物だが、食後だけはこのうえない幸せだった。

 人とは腹を満たせば大抵のことは気にならなくなる。

 壁の外でも中でもそれは変わらなかった。


 世界は腐っていた。汚れていた。

 唯一、隔離されている場所は刑務所でしたというオチ。


 娑婆の空気はおいしいか?

 おいしいですよ。壁のなかの看守はここにはいませんし、

 おつむの悪い優等生はいませんし、ここは、まるで天国ですよ。

 そもそもなぜ豚小屋など入っていたのだろう、思い出す。

 やっぱり、思い出したくない。


 豚小屋のなかでひとつ俺は学習した。

 生きるのに必要なものは金でもない。

 愛でもない。衣食住でもない。

 それらはすべて付加価値であり、大切なものは自我である。


(1)自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象(非我)・他者(他我)から区別されるが,他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として,認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。


 いい変えれば自尊心、プライドである。

 そう、なんの金にもならない、役立たず極まりない煩悩の権化。

 俺はそのせいで人生を棒に振った。世界とはつまり自我との戦いである。

 妥協はゆるされない。なれ合いもゆるされない。他人をゆるさない。自我すらもゆるさない。

 踏み外すやつらはろくなものではない。だが、貴様はどうだ?

 それでも誇っているつもりか?


 俺はこの世界がゆるせない。

 だから法を犯した。


 自分を変えればいいだけのことではないか。

 誰しもが思う。世界を変えられなければ己を変えればいいと。

 だがそれで、本当に変われるのだろうか。思い違いなのではないだろうか。

 ごまかしている。自尊心とはそうもたやすく変えられるほどゆらぐものではない。

 世界とは、つまり自我そのものなのだ。世界を見る。思う。それが、自我。

 考えること、それこそ生きることの主体。


 俺の目にははっきりと映っている。

 世界はろくでもない体たらくになっていた。


 だが、それでも、夜明けの空だけは綺麗だった。

 朝焼け。電車のホームに群がるサラリーマンを横目に煙草を吹かす。

 ごくろうなこって。まったくもって。

 生きることはたのしいかい?

 リストラに怯えながら、倒産に怯えながら、家庭を守ることが、

 どれほどのものか、俺にはわからない。

 だからさ、教えてくれよ?


 問い詰めたい衝動に駆られる。

 こいつら、俺とおなじ生き物なのかねぇ。

 昨日の餓鬼といい、ホームレスといい、看守の奴らといい、

 どいつもこいつも狂ってる。常人は俺だけだ。


 これからどうしよう?

 ふと国語辞書に目をやった。

 どうせなら広辞苑にしろよ。

 そう、つっこみたくなった。

 しばらく流し目に見つつ、立ち煙草。

 賑わう駅を横目に。


 世界とは、

 無関心である。


 だが、

 それは嘘だ。


 俺は知っていた。

 悪いことをすれば捕まるんだよ。

 値踏みする視線をサラリーマンに向ける。


 無関心が人を狂わせ、

 狂った人間は同じ釜の中に再び放り込まれる。

 つまり、それは、


 試されているということであり、

 俺の寄りかかる壁から見る世界が、

 全てだと錯覚させるためである。


 世界はここだけじゃない。

 俺はどこだっていける。

 それなのに、どうしてどこにもいけないのだろう。

 どこにもいこうとしないのだろう。

 斜に構えることで自我を保っている。

 汚れていることを前提にしている。


 いや、違う。

 俺は知ってしまったのだ。

 誰かが誰かをためしている。

 誰が俺を試している?

 どこの世界へいっても試される。


 自我は成長すれど、根本的に変わらない。

 釜のなかにある異物がそれを肯定することの意味。

 社会は無責任で無関心で、それを証明することが悪で、

 はっきりしない灰色が正義で。


 目の前に映る世界が俺を投影しているとすれば、それは俺で。

 俺は、どこで間違えた?


 俺は煙草を吐き捨てる。

 間引ねぇ。独白すると自然と昔を思い出していた。よりかかった壁から足先を街中へ向けた。

 のそのそと俺は歩き始める。

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