家族


 家族とは共同体である。

 相互扶助である。

 お互いが成長し人間としての尊厳を学ぶ場である。


 私の父は箸にも棒にもかからない父親だった。

 今で言うデキ婚というものだった。母親は甲斐性なしの父の分も働いた。

 下戸だった父は不真面目というよりは不器用な人だった。

 なにをするにも鈍くさいらしく、しかし理由もなく生まれ持った自尊心の高さゆえ、職場を転々とすることが多かった。泣き言も多かった。平然と自分の子供のまえで虚勢を張ることもせず、口からこぼれる言葉は自分の子供を気にかける親のものではなかった。心の底には、どうして私だけがこんなことに、という類いの哀れみを恵んでほしいという下心が幼い私でも感づけるほどだった。事実、父はそうだった。家族というものがありながら、常に自分は一人だと、相談してもおまえらに理解できるはずがないと、だからその日、わかっていても母は激昂してしまったのだろう。蓄積した感情を抑えきれなかったのだろう。母は父とは違い弱くはなかった。しかし、強くもなかったのだ。



 その晩、包丁を手にした母は、私の目の前で父を刺し殺した。

 事の顛末はいまとなってはあまり覚えていない。微かにだが、断片的にときどき夢を見る。

 ひどくうなされた夜中に、はち切れそうな小さな心臓がまだ生きていることだけを知らせてくれた。

 父は死に、母は刑務所へ。私は母の祖父祖母の元で暮らしていた。


 当時小学生にもあがらなかった歳だった私は中学生になっていた。

 思春期まっただなか、私は母に会える機会を与えられた。本当の所、怖くてしかたなかった。

 できることならば会いたくなどなかった。面会室、私がまっているとやせ細った女性が現われた。

 自分の名前をその見知らぬ女性から言われるまで、その人が母親だとはわからなかった。


 たわいもない世間話。学校でのこと。祖父祖母のこと。

 そして、過去のこと。謝罪というにはあまりにも支離滅裂していた。

 当時のことなど幼かった私にはほとんどおぼえていない。そのことについて謝罪されても返答のしようがなかった。

 ただひと言だけ心に残った言葉がある。


 「私を憎んでる?」


 私は無言だった。

 ただ、わからない。心の整理がつかない。とだけ言った。

 面会が終わり祖父が車で迎えにくると電話があった。私はほうけていた。

 少なくともあれは夢ではなかったと思い知らされたぐらいだった。

 祖父と祖母にどんな顔を向ければいいのだろう。そのことが先に気がかりだった。

 私にとって家族とは祖父と祖母で、そこに父と母はいなかった。

 だから別段憎みもなかった。


 面会の日を境に、まるで家族というものが最初からいなければよかったのにという感情。

 そう思う頻度が日に日に増えていった。学校では平然を装っていたが心にぽっかりと穴があいたようだった。

 無気力とは違う。生き様という流れに身をまかせる覚悟を知ってしまったようなよくわからない気分だった。

 父が生きてたら、いまの私になんていってくれるだろう。相談して、もし助言をいただけるようならば、父はなんて言葉を返してくれるだろう。私にはとうてい想像がつかなかった。



 面会から数日後、祖父が散歩に行こうといった。

 土曜の休日。祖父と並んで歩いた。とても気持ちのいい春の澄み切った青空だった。

 しばらく当たり障りのないことを言う祖父がらしくないと思った。

 わかってるよ、面会の日から私はどこか変になっていた。

 こんなことになるなら面会なんて行かなければよかった。

 学校を卒業したら、ここを、地元を離れよう。


 一人暮らしするんだ。

 とくに目的もないし、将来やりたいこともない。

 だけど私はここにいてはいけない感じがしていた。

 一人だと思った。なぜだろう。

 そばには祖父も祖母もいてくれているというのに。

 私にはわからなかった。わからなかったからこそ、ここを離れればなにかわかると思った。


 公園のベンチに座ると祖父が隣に座り、遠くを眺めていた。

 昔話をしよう。祖父はゆっくりと語ってくれた。父のこと、母のこと、それでも私は両親のイメージが湧かなかった。

 最後に祖父はこういってくれた。


 「私たちは家族だ。それでも、家族だ」



 否応なしに産まれ堕ちてきたこの世界に私はなんの感情も抱いたことなどなかった。

 母が父を殺した晩、私は悟った。家族とは所詮、この程度のものだと理解した。

 価値観が変わらない。誰がなんと言おうと。これだけは絶対に揺るがなかった。



 大学進学を機に上京することになった。

 引っ越しの荷物をまとめている際、私は偶然見つけてしまった。

 父と母と、幼い自分が写っている一枚の家族写真を。

 破り捨てようとした。ビリリと私を境にして写真は勢いをつけてふたつに裂けてしまった。

 ほぼ無意識にやってしまったことに後になり後悔した。


 家族という存在。

 私は門出の前に祖父と祖母に頼み事をした。

 家族写真。それは、祖父と祖母、そして私が写った写真。

 もう会えないかもしれない。もう会わないかもしれない。

 でも、家族なら、また会える日がくるかもしれない。


 だから、残そうと思った。

 電車に揺られるなか、窓越しに私はセロテープで修復した家族写真と、祖父母ととった家族写真を手持ち無沙汰にいじっていた。今は無理かもしれない、だけどいつか自分の気持ちに気付き向き合える日が来るかもしれない。それまで、私は家族というものを忘れないようにしようと思った。



 家族とは共同体である。

 相互扶助である。

 お互いが成長し人間としての尊厳を学ぶ場である。


 私はいつか向き合えるだろうか。

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