短篇集 普遍

鋼 虎徹

秒針


 私は時計の音が嫌いだ。秒針が秒を刻み、狂いもなく進むその過程が嫌いでならない。昔はこんなことは感じなかった。ただ、歳を重ねるに連れなんとも言葉にしずらい恐怖心をいだくようになった。そんな私がいま手首に巻いているもの、父の形見の時計だ。


 破天荒な父親だった。でも私にはやさしく接してくれた。いつも母と喧嘩をしていた。苦い思い出しかない。父は本当に母を愛して結婚したのだろうか。結婚というものは皆、このようなものなのだろうか。子供心に人間が醜いと思った。言葉は汚く、開口するたびに唾をとばす、威嚇する猿のように前足を広げ相手に伝わらないとわかりきった上での表現を見せる。そのすべてが人という概念を同一視させた。人は醜い、馬鹿だ、そして孤独だと。



 一昨年、父が死に昨日、母が死んだ。

 葬式はあげなかった。火葬のみを行った。私が生まれ育った場所は田舎のほうで村八分という言葉も少しまえまで聞こえてくるような場所だった。人が、ましてや自分の親が死ぬとなれば、通夜、葬式は避けては通れぬはずだが、私はそれを平然と無視をした。


 父が死んだ日もそうだった。

 もともと、仲の良い夫婦ではない。だからこそ、母も了解してくれた。火葬のみを行い父を見送った。遺体を霊柩車で火葬場まで運び、亡くなってから24時間は火葬ができないため、その間安置する。そのための備品も費用も火葬とは別にかかる。火葬場へ支払う費用が5万円ほど、葬儀屋へ支払う費用は棺桶3万、寝台車1万5千、防水シーツ3千、枕飾りセット1万、ドライアイス8千、人件費と葬儀運営費などで3万、収骨容器1万5千、遺体安置保管料3千。



 世間一般ではなんとおもうだろうか。

 私にはこれでさえも洒落にならない出費だった。

 私は今年で40になった。定職にはついていない。

 無職というわけではない。日雇いのただの派遣だ。

 だから金などもちあわせているわけがない。



 しかたがなかった?

 嘘だ。


 金など、誰でもいい、借りれば済む話だ。

 だが、私はそうしなかった。


 火葬場で久しく合っていなかったひとつ年上の従兄弟に合った。

 私の心情を知ってか知らずか段取りについては口を挟まなかった。

 こんな薄情な私とは関わり合いたくないのだろう。父が死んだときもそうだった。


 わたしはこの歳まで独身だ。

 たぶんこの先も。いうまでもない。


 無言で喪服を着ている自分はなんなのだろう。

 そう考えるときが自分の人生に来るとは思わなかった。

 遺体を焼くのをまっていた私は疲れてそばにあったパイプ椅子に座ると、自然と腕にはめた時計を見ていた。

 秒針を凝視していた。



「久しぶりだな」

 顔をあげるとやけに気苦労した顔の従兄弟が見下ろしていた。

「お前みたいな奴でも落ち込むんだな」

「私が落ち込んでいるように見えるか?」


 私は鼻で笑った。

「金ならなんとかなっただろ? なぜ式をあげない。去年もそうだったよな」

「金なんか…」

「言えば貸してやったさ。困ってるなら返さなくてもよかったんだぞ」

 従兄弟の言葉に胸が抉られる思いだった。

「もう遅い」


 俯く私に従兄弟は怒るでもなく憐れむでもなく静かに言った。

「産まれたときだって自然に産まれたわけじゃないだろ。それ相応の死に方だってあっていいじゃないか」



 私はなにも言えなかった。

 なにも。



 火葬が終わり納骨を済ませると嘘のように静寂がながれた。

 身内だけといっても初老のあつまり。食事会を済ませ、そこで解散した。

 まるで母など死んでいなかったように軽い会合だった。

 家に帰り、喪服のまま母の遺品を整理した。夜中までかかった。

 思いのほか少なく、畳の上に大の字に寝転がると静寂だけが私のまわりをつつんだ。

 手首から音がした。秒針の刻む無機質な音が。この世界で自分ただ一人が取り残された気分になった。

 いや、実際にそうなってしまったのだ。


 私はまぶたを閉じた。

 秒針を聞きながら思い出そうとした。

 幼少の頃。自分が産まれた頃。愛されていたはずの頃。

 父も母も人間として未熟だった。わかっていた。わかっていた。

 父は、父であるまえに自分と同じ弱いひとりの人間であると。

 母は、母であるまえに自分と同じ弱いひとりの人間であると。

 誰もいない畳の上に私ただ一人。

 刻む秒針だけが聞こえた。

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