『花壇』
矢口晃
第1話
ホースで、水を撒いていた。先端のノズルのつまみを調節して、水がシャワー状になるようにして、花壇全体にやわらかく均等にゆきわたるように、水を撒いていた。
花壇には、ポピーやらゼラニュームやらが、色とりどりに花を咲かせていた。私の撒いた水を浴びて、きらきらと、一段とまばゆい光彩を放っていた。私には、それが、「ありがとう」と花たちが言っているように聞こえた。「いいんだよ」。私は、心の中でそう返した。
小学校の正門前の花壇を手入れするのは、毎日の私の仕事だった。私は、その仕事が楽しくて仕方なかった。手入れをちゃんとすれば、花はその分きれいに、長く咲いてくれる。私の注いだ愛情の分だけ、美しく輝いてくれる。私はそれが嬉しかった。正門の前を通りかかる近所のみなさんから、「きれいだね」と言ってもらえると、嬉しくて飛び上りそうだった。
でも、実は私には、もっと大きな、もう一つの楽しみがあった。それは、毎朝八時十分きっかりに、トシオが登校して来ることだった。
トシオは今年六年生に上がった。スポーツマンで、顔立ちも端正であったことから、学年で一番女子から人気があった。でも、本人は特にそれを気にしているようでもなかった。どんな女子とでも、普段の態度で、フレンドリーに楽しく会話をした。それがまた、女子からの好感を得てもいたのだった。
トシオは、毎朝校門の前にいる私の姿を見つけると、「おはよう」と気さくにあいさつをしてくれた。でも、私は、まだあまりトシオと言葉を交わしたことはなかった。トシオの周りにはいつもたくさんの男友達がいて、容易に声をかけづらかった。トシオは誰とでも対等に接するから、男子からも親近感を集めていた。トシオは、みんなの人気者だった。まさに、学校のアイドルだった。
私は、もう一年以上も前から、トシオのことを意識していた。私なんかがトシオのことを好きになったって無駄だってわかっているのに、トシオの前では緊張してうまく言葉が話せなかった。ドキドキして、息さえつまりそうなくらいだった。一度でいい。トシオと二人きりになって話がしてみたい。たとえ十分でも五分でもいい、トシオの目を見て、ちゃんと会話がしてみたい。でも、そんなことは言いだせなかった。何しろ、トシオの周りにはいつもたくさんの仲間がいる。その中に割り込んで行ってトシオに私の要望を伝えるのは、勇気のない私になんて、とてもできることではなかった。
それでも、いい。いつか、チャンスがあるかもしれない。いつか恋の女神が私に振り向いて、かわいそうな私にウインクを一つ送ってくれるかも知れない。そうしたら、トシオと、二人きりで話せる日が来るかもしれない。
そんな乙女みたいな気持になって、私は毎朝、校門の前でトシオの登校してくるのを待った。花壇を、きれいにして。
ホースで、水を撒いた。花壇全体に、やわらかい水のしぶきが行き渡るように。流れる水のリズムを、ホースを通して、手の平で感じながら。トシオの来るのを、今か今かと待ちながら。
無駄だなんて、最初からわかってる。いくら私がトシオに想いを寄せたって無駄だなんて、私が一番よく知っている。
だって私は、しょせん、用務員のおばさんだもの。もうとうに四十歳を過ぎた、おばさんだもの。
でも、いいんだ。
私は、トシオを愛している。
『花壇』 矢口晃 @yaguti
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