怪文書探偵・新賀美良一事件譚

一ノ瀬ケロ

妖精の涙

妖精研究日誌編①


 新賀美あらがみ良一りょういちは、極彩色の摩天楼を歩いていた。見上げると、黒を基調としたビルに、ペンキを無造作に塗りたくったような模様が描かれている。地面で煌めいているネオンも相まって、視神経を刺激し続ける。建物はすべて、積み木をただ置いていったような不安定さで、少し指で押せばガラガラと崩れそうだ。

 街は暗かった。ネオンとペンキで覆っても覆いきれないほどの暗さが、街を支配していた。空には雲一つない。月もないし、ましてや太陽もない。この街には何もない。ただ何もないことを悟られたくなくて、この街は自らを厚化粧で覆い尽くしている。

 二つの円柱の上に三角形の屋根を置いただけの”家”に、”何か”がペンキを塗っている。”何か”には手がない。足もない。”何か”はただ涙を流す。虹色の涙を流して、自らの家を色づける。

 ビルのモニターでは日本の総理大臣が核発射の声明を出している。都知事がアメリカ合衆国を買い取ると宣言する。ホームレスたちが笑顔で乾杯をする。有名ミュージシャンが恋人を刺し殺す。良一の両親が息子を糾弾し泣き叫ぶ。同級生が良一の写真を切り刻む。BGMとして「かごめかごめ」が流れている。

 ”何か”はそれを見て騒ぎ立てる。ほらみろ。所詮奴らにも何もないのだと。

 良一はそんなものには目もくれなかった。ただただ、前だけを見て歩いていく。

「ようこそ。妖精の王国へ」

「私に手をちょうだい」

 通りがかる”何か”が次々に声をかけてくる。

「ようこそ。妖精の王国へ。君はもう帰れない。帰れない。ようこそ。よう妖精のおうおう王国よううよ国へ。帰君はようこそもう帰ない帰れない。帰れない。帰れない。還れない。帰れない。還れない。帰れない」

「手をちょうだい。足をちょうだい。目をちょうだい。口をちょうだい。耳をちょうだい。臓器をちょうだい。心をちょうだい。心を、心を、心を」

「君を飾ろう。深い青色で。滲むような赤色で。眩しい黄色で。濃い緑色で。心配しなくていい。君には何もない」

 所詮は何者でもないものたちの何でもないことばだ。良一は耳を塞がなかった。目を瞑ることもしなかった。何も、心には届かなかった。

 良一は手に持っているノートを開いた。真っ白だったノートも、今やびっしりと文字が刻まれている。すべての始まりはここからだった、と振り返る。調査しなければよかった、とは思わない。今ここに立っていることこそが、”アレ”に近づいている証拠なのだから。

 不意に、良一の足首を老婆――正確には老婆のような何か――がつかむ。舌打ちして振り払おうとするが、力が強く、離れない。その時、どこかからカラスが飛来して老婆に襲い掛かり、老婆は良一から引き剥がされた。彼は何事もなかったかのようにまた歩き出す。老婆の爪が食い込んだ痕からは、虹色の血が流れ出ていた。

 

 


 


 怪文書、と呼ばれる文章を目にしたことはあるだろうか。連続殺人鬼の予告状や、誘拐犯の脅迫状などはニュースで目にしたことがあるかもしれない。

 恐怖で精神が追い詰められた人が遺した手記。これも、よくフィクションのなかに演出として登場するから、読んだ人も多いだろう。

 あるいは、そう、幽霊、妖怪と言った怪異に実際遭遇してしまった記録、という可能性もある。――そんなものは、存在するはずがないが。

 そういった、常識的な感性を持ち合わせた人間では読み解くことが難しい文章についての調査を専門に取り扱っている、変わり者の探偵がいる。

 赤峰あかみね市――都会の喧騒から離れた町に、その探偵の事務所はあった。

 街の外れには森が生い茂っていて、そこを抜けた先に、中世ヨーロッパを思わせる大きな洋館が建っている。まるで吸血鬼でも棲んでいそうな趣のその洋館こそ、探偵・新賀美あらがみ良一りょういちの事務所。

 街の人々は侮蔑も込めて彼をこう呼ぶ。

 ――怪文書探偵と。

 事件は、その事務所に一人の依頼人が来たことから始まった――





「定時になったので上がります。今日もこのクソッタレ事務所に依頼人はゼロ。お疲れ様でした」

 壁時計の音だけがカチカチと鳴っていた静寂な空間に、凛と張ったよく通る声が響く。探偵助手・守田川すだがわ響子きょうこの声だ。

「余計なこと言わなくていいから黙ってあがって? お兄さんも傷つくよ?」

 まるで傷ついたような素振りなど一切見せずに、顎に無精髭を生やした男は答えた。にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべ、机に足を乗せ、タバコを口にくわえながら話している。この態度の悪い男こそが、怪文書探偵その人である。

「もう本当に今更ですけど、怪文書専門とか、やめません?オカルトが流行るような時代じゃあるまいし、フツウに探偵してる人の方がまだマシな収入得てますよ」

 肩まで伸ばした黒髪をかきあげながらため息をつく。艶のあるその髪がなびくとふんわりとシャンプーの匂いが漂った。

「そもそも探偵自体、時代にそぐわない、労力に見合わない、社会のはぐれ者の仕事って感じだし」

「じゃあ何で助手なんかやってるのさ」

 新賀美は意地の悪い笑みを崩さず問う。

「好きだから」

 響子もまたニヤリと口角を上げて答える。

 新賀美は、まぁ分かってて聞いたんだけどね、とつぶやきながら引き出しを開け、茶封筒を取り出して机の上に置く。

「そもそも、君みたいなちゃんとした学生がこんな仕事手伝う道理なんてないんだけどね。ほい、今月のバイト代」

 響子は現役の女子大生である。県内の有名大学の法学部に通っており、成績も優秀。将来の夢は裁判官だという。

両親共に法曹であり、エリート一家で育った、まさに令嬢と言ったところだ。容姿も端麗で、学部内にファンも多い……というのは本人談である。

「私みたいなスーパー女子大生が手伝ってるんだからもっとくれてもいいと思うんですけどね」

 茶封筒を開いてお札の枚数を数えた響子は言う。

「無理言わないでよ。うち貧乏だし」

「貧乏……ねぇ」

 響子は事務所をぐるりと見まわす。新賀美の机はビンテージもの。照明はシャンデリア。床にはフカフカで踏み心地の良い絨毯が敷いてある。テレビは壁掛けの薄型。窓ガラスは防音で、仮に依頼人が声を荒げても隣人に聞こえることはまずない。

 ――まぁそもそも、依頼人がくること自体がまずないのだが。

 新賀美家というのは、この辺りでは有名な一族らしい。響子の記憶では、資産家……ということになっているが、本当のところはどうかわからない。とにかく、貧乏というのが嘘であるというのは火を見るよりも明らかであり、それが依頼人の来ない探偵の懐から給料が出てくる理由でもある。

「ま、金持ちの道楽だよねぇ……」

 響子は小声でつぶやいて肩掛けのバッグに封筒をしまう。そもそもこの現代に給料手渡しってどうなんだ、と初めは思ったがもう慣れたようすだ。

「それじゃあ、失礼します。また明日の夕方に……」

 と言いかけたところで、インターホンの音が鳴った。響子は思わずびくっと体を震わせた。なにしろここ半年、鳴ったことがなかったのだから。そっと窓を覗くと、半泣きの女性が、くしゃくしゃの紙を握りしめながら、門の前に立っていた。




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