ゆきのひ
七星いつか
ゆきのひ
「何か飲み物入れるね。コーヒーでいい?」
そう言った彼女のゆるいウェーブのかかったセミロングが揺れた。大学を出て、彼女の部屋まで歩くあいだに纏った雪の一粒一粒が、部屋に満ちた暖気に触れて溶けていく。
「…はい。」
「なに緊張してんの」
「…」
「とにかく座ってちょっと待ってて。」
僕はダイニングの小さなテーブルの前に座って、渡されたタオルを手に持ったまま、所在なさげにあたりを見回す。棚の上にはくまのぬいぐるみ。CDラックには、聞いたことのないアーティストばっかりだ。
彼女はキッチンで細口ポットを火にかけ、手際よくコーヒーサーバーにドリッパーをセットする。
急に、僕はこれを、どこかで見たことがあるような気がした。開けられたコーヒーの缶から広がる香ばしい香り。彼女の所作のひとつひとつ。窓の外の真っ白な雪。棚のくまが、僕をじっと見下ろす。僕はきっと、ここを知っている。
「おまたせ」
コーヒーカップを二つ手に持って、彼女は静かに僕の向かいに座った。
「心配しなくていいのよ。みんなここで聴いているから。あなたの話したいこと、全部話して。」
僕がいつまでも何も言わないのを、彼女は変に思ったのだろうか。
「コーヒー、濃かった?ミルク入れる?」
「大丈夫です。」
僕の言葉は、果たして声になっていたんだろうか。
雪の積もる音がする。カップの中のコーヒーが、音を立てて冷めていく。彼女の無言の優しさだけが、音もなく僕を飲み込もうとする。
暗くなってきているんです。今度こそ、僕は自分の声が聞こえた。
「まだお昼だよ?」
「違うんです。そういうことじゃなくて。なんか、世の中が、暗くなってきてるんです。」
「夜が来るのね。」
僕の言おうとしたことを、彼女が理解しているのか否かの判断がつかずに、僕は彼女の顔をまじまじと見た。彼女は僕の気持ちが分かったのか、小さく頷いてみせた。僕は頭の中に散らかった言葉を拾い集め、それらをなんとかつなぎ合わせて言う。
「今の世情を見ていると、全体主義に染まっていくんじゃないかって、そう思うんです。誰ひとり気づかないうちに、恐ろしいことが動き始めるような気が、するんです。」
「あなたの言おうとしていることは分かるわ。」
「暗いと思いませんか。」
「そうねえ…」
「僕は暗い毎日が怖いんです。」
「…」
「黒い雲が空を覆っていくんです。ゆっくりと、ナミビアの砂漠が街を飲み込むように、だんだんと、やってくる。その足音がするんです。」
「…」
「みんな気づかない。誰も逆らおうとしない。そうして気付いた時には、もう手遅れなんですよ。」
彼女はまっすぐ僕の方を見て、しかし決して話を急かそうとはしない。
「怖いと思いませんか。死ぬんですよ。僕たち。」
「どうしてあなたが死ななきゃならないの?」
「戦争になるんです」
「うん」
「戦争になって、好きだった映画も本も音楽も全部奪われて僕の手にはいつの間にか自動小銃が握られてて目の前に敵がいて撃たれて死ぬんです。」
「…戦争なんて起こりっこないわ。」
「…じゃあどうしてこんなに不安なんですか。」
彼女は黙っている。
「…怖いんです。たまらないくらい。毎日イヤホンをして、気が狂いそうになるくらい大音量で音楽を聴くんです。そうしないと、僕はおかしくなってしまいそうなんです。戦争の足音が、どんどん近づいてくる。かき消そうと必死になって…不安で…とにかく…」
彼女が着ている薄桃色のニットが滲む。崩れてゆく自分を、どこか他のところから見ているもう1人の自分がいる。もしかしたら、それはあのくまのぬいぐるみかも知れない。
「…」
「ごめんなさい。こんなはずじゃなかったのに…」
「いいのよ。」
僕はシャツの袖で目をこすった。彼女はなにも言わず、ハンカチを差し出してくれた。それから辛うじて湯気の立つコーヒーを一口すすって、テーブルの上のクッキーの箱を手に取った。彼女の真っ白な手は、その細い指の一本一本に血が通っていると到底思えぬほどはかなげで、まるで冗談みたいだった。
「わたしだって…怖いわ。」
独り言のようにつぶやいて、彼女はクッキーの箱を弄んだ。
「あなたの言う通り、世相は確かに暗くなっていると思う。」
「…」
「でもね。やっぱりどうすることもできないのよ。」
彼女は努めて穏やかに、言葉を選びながら話した。
「だから。怖いって思わないように、見ないふりをして生きていくの。」
僕が望み続けた答えを、彼女はいとも簡単に言う。ずっと繰り返した自問自答。この不安を、どうすればいい? 僕はきっと、僕の不安に向き合い過ぎていたんだ。辛いことから目を背けるな。逃げるな。僕が子どもの頃、大人たちは僕に言った。僕は逃げなかった。ただの一度も。不安さえも、真面目に向き合ってきた。
彼女は一旦目線を机の上に落とした。それからもう一度、僕をしっかりと捉えて続けた。
「たぶん、他のみんなもよ。誰だって戦争は嫌。だから、暗い世情にも蓋をして、明るい話題ばかりを好むの。太平洋戦争前夜の日本で、老若男女問わずけん玉が流行したって話、知ってる?」
彼女の目は、言葉は、僕を射抜き、さらにその奥の遠くをも貫いているようにも思える。
「民意なんてないわ。わたしたち市民が…なにをやっても…残念ながら無駄なのよ。」
「…」
「だから、見ないふり。知らないふり。どっちみち、わたしたちには何も知らされないわ。」
僕はまた黙り込んでしまった。真剣な表情の彼女ごしに、窓の外でちらつく粉雪が見えた。
「怖いのは、わたしも同じ。これだけは、本当よ。」
彼女は急に声のトーンを落とし、内緒話みたいに、言った。そうして彼女は手に持ったクッキーの箱を開けた。チェスの駒の形をしたクッキーを食べながら、僕はますます強まっていく真っ白な雪を、じっと見ていた。
彼女は、強い。僕はただ惨めで、馬鹿で、大げさで、この社会の足手まといなんだ。こうやって、何も関係ないひとの前で乱れて、迷惑をかけて。みんなちゃんと生きているのに、ちゃんと生きることを怖がるものを生かしておく余裕なんて、この狭い世界にはないんだ
「僕は、もう疲れたんです。」
ひどく勝手な言い草だ。心にぽっかりと口を開けた底のない穴。そこに嫌悪感がまた一片積もる音がした。
「そうね。あなたは疲れていると思うわ。とてもとても、ね。」
「僕は…僕は…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
僕は頭を抱えた。だめよ! 彼女がはじめて大きな声を出した。雪の粒が窓を打つ。音楽を聴かなくちゃ。耳が壊れるくらいの大音量に逃げなきゃ。消したかった。僕をこの場から。僕が生きてきた全ての軌跡を。事実を否定したかった。何の意地悪か、僕がこの世界に産まれ落ちてしまったという、事実を。
「…どうしてそんなに自分を責めるの?」
見抜かれてる。彼女の優しさは時として、鋭い。
「…だって。いきなりこんなわけ分かんない話されて…めんどくさいし」
だったらやめろよ。遠くから見ているくまが言った。
「そういうことじゃないわ」
「じゃあ…どうして…どうしてですか」
彼女のハンカチを握りしめた僕の目からは、とめどなく涙が溢れた。どうしてそんなに優しいんですか、とは言わなかった。
わたしは聴くわ。聴いているから。彼女は落ち着きを取り戻したかのように見えた。穏やかな口調だった。
それから僕は、文字通り声が枯れるまで話し続けた。くだらないこと。悲しいこと。どうにもならないこと。苦しいこと。終わった恋の話。誰とも好みが合わない音楽のこと。いまのアルバイト。旅したこと。僕がいかに汚く歪んだ思想を持っているか。これで、消せると思ってた。話すことで、僕の頭の中身が空気に触れて、溶け出してくれると思った。そうして記憶のなくなった僕は、存在しないっていう選択肢を選べるんだ。もうこれでおしまいにできる。棚の上のくまを見返してやれる気がした。
彼女はときどき相づちを打ちながら、最後まで聴いてくれた。僕の話の端々に挟む彼女の言葉は、冬の澄んだ夜空を伝わってくるみたいにクリアで、やわらかい粉雪みたいに僕の心に降り積もる。彼女は話を引き出すのが上手だ。完全に、僕の負けだったのだ。彼女の前でちょっとでも高尚な話をしようとか、意地をはろうとか、そんなひねくれたことは、はじめっからできるはずもなかった。僕は、全てを吐き出してしまったのだから。
結局、記憶は消えなかった。僕の存在も消せなかったし、くまの方も全く駄目だった。くまはあくまでも第三者なんだと思った。僕がどうこうできるものじゃない。でも、僕の記憶は彼女も持っている。ほんの一部かも知れないけど、僕の悲しい記憶や、どうにもならないことや、恋の話や、その他の僕についてのくだらないことは、彼女のなかの僕の記憶にもなったんだ。それだけで、ちょっとだけ、嬉しい。彼女がちょっとだけ、好きだ。コーヒーはすっかり冷めて、棚の上では彼女のくまのぬいぐるみが、何千年も前からそうだったかのように黙って座っている。オイルヒーターが億劫そうに暖気を吐き出し続ける彼女の部屋の外で、いつの間にか降り積もった雪が夜空の下に放り捨てられたような水銀灯に照らされて、ただ、光っていた。
ゆきのひ 七星いつか @cassiopeia
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