オルガノン

時野マモ

オルガノン(全)

 家の庭を抜け、通りに出るまでの、ほんの少しの間、隣の家のお兄様はいつものように空を見上げ、何かを憂うような表情で、そこにおります、その人を、私は見ます、見つめます、立ち止まり、じっと、花の陰、季節は百合の時期でした、大きなポプラの作る濃い影の下、いつもより深く沈むその表情は、何事か深く悩んでおられるようで、

 ——お兄様、何か心配事でもあるのでしょうか、

 じっとつめる私と目があうと、お兄様は私のそばまで歩いてまいります、

 ——ああすまない、君を不安にさせたかな、

 お兄様は難しい顔を一気にやわらげると、茨の生け垣越しに、枯れ残ったバラの花を手折り、差し出して、

 ——怖がる事はない、

 ——少し悩んでいただけなんだ、

 ——君は心配することは無い、

 ——あら、しかしお兄様の悩みよう、

 ——心配することは無い、

 ——何も怖いことはない、

 ——でも、

 ——でも?

 ——終わってしまうんだ、

 ——終わってしまう?

 ——何がですか?

 ——なにもかもだ、

 ——なにもかも?

 ——世界がですか?

 ——世界!

 ——そうかもしれないね、

 ——いやそうだ、

 ——もう終わりだということだ、

 ——僕にとっては世界が、

 ——なにもかも、

 ——そうだ、

 ——それは……

 ——あれ、

 ——びっくりさせてしまったかい、

 ——大丈夫だよ、

 ——琴ちゃんは大丈夫だ、

 ——すまない、

 ——変な事言ってすまなかったね、

 ——琴ちゃんは何にも終わらないよ、

 ——気にしないでくれ、

 ——いいえ私には良く分からなくて、

 ——申し訳ありません、

 ——申し訳?

 ——お兄様の悩みの助けになれなくて、

 お兄様は少しびっくりしたような顔、罪人の顔、そのまま言葉を飲み込んでだまってしまいます、なので次の言葉は私、悩みを解決できない私にできる事といえば、

 ——それよりも、

 ——何?

 ——お兄様、

 ——指先から血が流れております、

 ——あれ?

 ——包帯を取ってまいります、

 ——大丈夫すぐに止まるので気にしないで、

 ——そうはいきませんですわ、

 私は、お兄様のお手を取り、やさしく口に含みます、指先を、花の香の残る、血の味は、もしかして、始めてのキスとはこんなものかと思いながら、私はそっと顔を近づける。


   *


 荒れた唇の、死に顔、アスファルトに転がる大勢の人間の中、私は見つけます、思い人、後をつけ、今日こそはそれを告げよと胸に秘め、駆け寄ったその腕の中、虚無に包まれて、消えるのは、私の恋。口づけに溶ける氷に、にじみ出す、赤い恋、世界を犠牲にしても、手に入れたいのは、私が恋慕の、その思い、そのままに彷徨う私、見つけましょう、見つけます、見つけました、空に幻、地には人。貴方を抱え、ここが終わり、世界の終わり、崩れる、消える、貴方まで、消え行くのならば、私は何のため、ここまで生きたのでしょう、横たわる死人の群れが笑います、あわれな女を笑います、何度でも繰り返す、哀れな生を笑います、死人達、もう放っておいてはくれないのでしょうか、私が悪人なればこそ。


  *


 隣の家にお兄様が越していらしたのは、もう三年近くも前の事でしょうか、私はその時にはまだ生きていた母と一緒にご挨拶に行き、ひたすらに照れて、うつむいて、何を話したのかも分からないまま、なぜそれほどまでに心が浮つくのか、自分でも分からないまま、家に戻り、寝る前に笑いが漏れるのを押さえきれず、枕で顔を隠しながら、いつまでも寝付けずに昼の事を思い出す、

 ——お嬢さんはおいくつに、

 ——高校に入ったばかりでして、

 ——あら、もっと幼く見えてましたよね、

 ——お母さん、

 ——いえいえ、立派なお嬢様で、

 ——あら同じ高校の先輩でいらっしゃって、

 ——お隣の山田さんのご親戚で、

 ——独り者の叔父が亡くなったあと僕がこの家を受け継ぐ事になりまして、

 ——大学まではちょっと遠いのですが、

 ——あら隣街の大学にお勤めで、

 ——何をご研究ですの、

 ——はあ、ご立派で、

 ——申し訳ないですわ、私みたいな学の無い者では何を言われてるのか分からなくて、

 ——いや、同業者もあんまり分かってくれない研究でして、

 ——いえ、いえ、ご立派ですわ、

 ——これ琴、何で下ばっかり見ているの、

 ——あら、素敵なお兄さんなので赤くなっているのかしら、

 ——お母さん、

 ——そろそろご迷惑でしょうからおいとまさせていただきますわ、

 ——いえ、いつでもいらっしゃってください、

 ——これ、琴、最後にちゃんと挨拶なさい、

 ——お兄さんこれからよろしくお願いします。


 お兄様は笑っておりました、そろそろオジサンと呼ばれた方が落ち着くんだけどね、と恥ずかしそうにわらいながら、しかし、お兄様はお兄様、私の素敵なお兄様、何でも知って何でもしてくれる、茨の茂みの向こうから、微笑みを返し、星を指差すと、あっという間に時は流れ、この世は、幸せに満ち、天は回る、光の渦の、時は回る、繰り返す、永劫が潜む、星を指差すと、あっという間に時は流れ、繰り返す、

 ——あれ、こんなこと前になかったかしら?


   *


 人の降る、夜空には、夢を見る、乙女なら、光なき、荒野から、飛び立った、夜の鳥、思いは、天の果て、そこになら、あるのかも、朽ち果てた貴方の骨が、地に埋まり、再び虹を見る時を、一緒に、この宇宙が無限なら、無限の数の宇宙があるのなら、私が幸せに、星を貴方と共に見る、骨となり、埋まる地には、微笑みが降るその夜に、月などとっくにどっかに言った、この地を照らすのは、遠き星だけとなり、冷えきった世界には、その死さえ懐かしい、無いものの先に何も無し、人の降る、世界の終わり、その恐怖さえも懐かし。


  *


 お兄様は、時々夜遅く、酷く疲れて帰る事がありまして、そんな日は、私はじっと、勉強をしているふり、窓をちょっと開け、こっそりと入り口を覗き見て、その帰りを待ちわびる、私こそ、おかしな様と知りつつも、偶然に気づいたふりを装いながら、手を振ると、振り返す、今日は、

 ——月が綺麗ですね、

 ——こんな遅くまで勉強かい、

 ——感心だね、

 ——でも無理しちゃ行けないよ、

 ——大丈夫ですわ、

 ——私、意外と夜型なんです、

 ——若いからって過信しちゃ駄目だよ、

 ——後で歳をとってからがたが来る、

 ——僕みたいに、

 ——あれ、うふふ、って何が可笑しいの、

 ——だってずいぶん年寄り臭い事言うんですもの、

 ——だって年寄りだよ、

 ——君に比べれば、

 ——人生もう終わってるも同然だよ、

 ——そんな事は……


 そうです、お兄様、まだ人生は、遠く、遠く、果てしなく、長く、歩むのです、私がその年になる頃には、きっと、大丈夫、若き日は、過ぎ去り、しかし、人生は続く、その時にいて欲しいのです、永遠の後の世界に、私は貴方といたいのです、時が過ぎ、時が消えた、その向こう、私は貴方と歩くのです、若さなど、何の頼りになりましょうか、人生の終わりにあたなといたいのです、今日はおやすみなさいのその後で、閉じた扉を見つめています、明日にはまた開くでしょう、いえ私は開きます、その扉、そして……


   *


 誰もいなくなってしまった、街の中、悲しみももういなくなってしまった、この果てで、思い焦がれるのは、感情、愛した人は、沈んでしまった、握った手は千切れてしまった、その先の世界はむなしき、かつて渡った深淵も、かかった橋は落ち、声はその闇に飲まれて消える、貴方を呼んで、答えは無く、深く沈む、何度繰り返し、呼べば良いのでしょう、見つめる、視線さえ消え去って行く、止まる世界は止まる、動け、一度だけで良いから、いえ、一度だけであればよかったのに。


  *


 いつのまにかすごく親しくなった私達母子の家に、お兄さまは時々遊びに来てくれるようになっておりました、日曜の午後にお茶をしに、平日でもたまたま早く帰って来た日には、夕食を一緒に食べる事もありました、例えば、今日のように、

 ——またこんないただいてしまって申し訳ありません、

 ——あら気にしなくても良いですのよ、

 ——もう育ち終わった母とダイエットが気になる年頃の娘では料理も作りがいがなくて、

 ——お母さん、

 ——あららダイエットはしてなかったかしら、

 ——いいかげんにして、

 ——いえ、お嬢さんダイエットなんてする必要ないですよ、

 ——とても健康的で、

 ——あの、

 ——はい?

 ——健康的って、褒め言葉じゃないんですが……

 ——あらら、

 ——でも全然太ってなんかいないじゃないですか、

 ——今の時期へんな食事制限なんかするよりも、

 ——可愛いと思いますよ、

 ——あら琴、何赤くなってるの、

 ——お母さん、

 ——いえこんな話はこれくらいで、

 ——いやいや今日もおいしい、

 ——この間のお茶のお菓子もおいしかったですが、

 ——それは、

 ——琴が作ったのですよ、

 ——はい、

 ——そりゃすごい、

 ——将来よいお嫁さんになれそうだ、

 ——琴、真っ赤になって、

 ——お母さん、

 ——そうね、今日ももうお茶にしようかしら、

 ——ポットを取って来てもらっても良いかしら?

 私が立ち上がり、台所に行く間も、お兄様とお母さんは楽しそうにお話をしております、私はなぜか少しむっとしながらも、浮き立つ心、なにかこういうのも良いなって、思いながら、こんな日々がこのまま続けな良いなと思いなが、私は過ごすのでした、しかし……


   *


 離れて行く、置いて行かれる、別れて行く、その世界に私はいらないと言うのなら、私はどこへ行くのでしょう、その世界に私がいないと言うのなら、どうすれば、その世界なんて終わるのでしょう、私は、どうすれば、良いのでしょう、いっそのこと、全てがめちゃくちゃに、なってしまったのなら良かったのに。 


   *


 満開の薔薇の季節、その中にいて、咲き遅れているつぼみが私です、咲き誇る仲間が、しおれ落ちた後に一人花を広げ、何を待つのでしょう、茨の向こう、秘め事は繰り返す、私は部活に行く振りをして、日曜日、裏山から、鳥の声、自転車を山の裾に隠し、打ち捨てられた小道、草の間を這うように登り、見張ります、お兄様の家に、あの女が入るのを、大胆にも、林から覗いている者などいるわけは無いというのでしょうか、カーテンも閉めず、一階の窓の中、寄り添う二人、絡み合う身体は、激しく動く、私は手を握りしめ、恨みに、吹き上がる感情に身を任せ、言葉にならない言葉を喉の奥で繰り返す、蛇よ、私の足下では鎌首を持ち上げた蛇が、私と同じ方向を、同じように冷たい目で、睨む、進む、視線よ進む、這いずりながら、進む、

 ——死んでしまえ、

 ——死んでしまえ、

 ——死んでしまえ、

 私は激情に捕らわれたまま、子音ばかりの蛇の声、つぶやき続けます、鳥の声、二羽のつがいは忍び寄る蛇に気づかずに、太陽の、木漏れ日が、優しく照らす気の枝に、こっそりと這い登る蛇は、狙います、二羽の小鳥、二人は床に転がって、鳴き声も絶え絶えに、絡み合う、仲睦まじき、二羽の小鳥、忍び寄る私、

 ——消えてしまえ、

 ——消えてしまえ、

 ——消えてしまえ、

 噛みつかれ、飲み込まれた、つがいを捨てて、飛び立つ鳥は何処へ行く、鳴き声に、一斉に飛び立つ鳥達は、嵐のごとく、林は騒然と、何事かと、裸のまま立ち上がる二人の前、私はそこにいるのです、驚き、私のことを驚愕の目で見つめる、その女の顔に向けて、私は石を持て、投げる、

 ——琴、

 ——琴ちゃん、

 鳴り響くでしょう、続くでしょう、その割れる音、落ちる音、崩れたガラスの広がる音の、届かぬ場所へと駆け出すでしょう、私は、何処に向かうのか、何処にいるのかも分からずに、走ります、転がり倒れた野原、まぶしい太陽に、目をつむり、泣き続けていたのは薔薇の季節、あちこちが擦り剥けた肌を、草の中に横たえて、流れる、涙は吸い込まれます、いつまでも、誰もいない野原、風の音だけが聞こえます、

 ——私は死んでしまいたい、

 ——私は何をしてるのでしょう、

 ——嫌われたに違いありません、

 ——私は何をすれば良いのか分かりません、

 ——このまま、

 ——このまま世界が終わってしまえば良いのに。


   *


 彷徨います、取り返しのつかない場所、何度も逃げ続け、それ故に逃げる事のできない場所、逃げ続けると言う考えさえむなしい、意味の消える、ここで、人々は指差して私を笑うでしょう、気の触れた少女は笑われながら、街の中、捕まり、運ばれるのは何も無い、白い部屋、ここが私の世界です、何も起きない、何も無い、何も傷つかない、私は、縛り付けられ、拘束され、私の落ちた場所、望み得る、最善の場所、思いは止まる、時間も止まる、私は止まる、何もかも、少なくとも他よりは良い場所、心が止まる場所、良いでしょう、このまま世界があらかじめ何も無い場所ならば、少なくとも有るものが無いよりも良いのです、しかし、ここにも女が迎えに来ます、私は車に乗せられて、その場所まで行くのです、茨の前に立ち、何もない空間を見つめます、消えてしまいました、あったことさえ無くなった、そこにあるのは無よりもひどい、有、そこにはあいつが居座るのです、貴方ではなく、私の知らない男に、すり替えられてしまいました、貴方は、そこにいるのは、下品な笑いを浮かべ、嫌らしい目で私を見る男は、近づいてきて、茨を強く掴む、手のひらから血を流す私は、なすがまま。


   *


 世界が終わると聞いた後、お兄様、その日の午後は家にこもりっきりで、出てこなくて心配したのですよ、薔薇の棘の傷は大丈夫でしょうか、私は、いつもおいしいとほめてくださるマフィンを焼き、煎れたての紅茶をもって、夕方、呼び鈴を鳴らしました、しかしまるで反応がなく、不安にかられて再びならす、その後にお兄様が出てくるまでちょっとの間、私はどれほどに肝を冷やしたでしょうか、鍵が開きほっとして、

 ——心配しておりました、

 ——お兄様、

 ——思い悩んでおられました、

 ——ごめんよ、

 ——君を不安にさせていた、

 ——失格だ、

 ——大人のくせに、

 ——お気になさらないでください、

 ——私は不安などありません、

 ——自分の不安など、

 ——子供じゃないですわ、

 ——お兄様が悩んでおられるのが心配なのです、

 ——琴ちゃん、

 ——君は心配しなくて良い、

 ——知らない方がよい、

 ——いえ、嫌なのです、

 ——どういう意味でしょうか、

 ——意味って?

 ——おっしゃっていたことです、

 ——世界が終わると言ったことです、

 ——いや深く考えないで欲しい、

 ——意味は無いよ、

 ——たんなる比喩だよ、

 ——何の比喩でしょうか、

 ——この世は比喩と言う事だよ、

 ——深い意味は無いよ気にしないでくれ、

 ——でも……


 本当に困った様子、悲しそうな表情の、お兄様によりそって、私は手を握ります、驚いた顔をしたその人の、胸の中に潜り、私は不安を吸い込もうとします、激しく、どうしましたか、大丈夫ですよ、私は知ってますよ、お兄様、世界が終わるなら、私も一緒に行きますよ。


   *


 色彩は、光、塗り込められた、感情の、黒、反転する、白、歩み寄る、逃げる、吹き上がる、赤、流れ着く、死体には、握るのは、約束の、青、海の中、漂って、沈み行く、世界なら、その旅は共に沈み、たどり着く、底につもる、光。私の声は、沈む、全ては沈む、底、失われた夢、凍り付いた希望、何物も動かない、底。


   *


 母親の葬式の後、お兄様に頼み、私は少し遠くまで連れて行っていただきます、そこは車でなら二十分もあればつく、大きな川のそば、そこから分流の、小さな森の中、人気のない小さな川にかかる、橋の上、意外に水は深く、流れの速い場所です、いまだ遺体の見つからない、母親が落ちたのは、ここなのです、水面を眺めながら、お兄様はそんな私をやさしく見つめる、私は思う。声。

 ——気にする事はないよ、

 ——あれは事故だ、

 ——君のせいじゃない、

 ——僕が取れば良かった、

 ——ねえ、

 ——帰ろうか、

 ——ここに来ても帰って、

 ——いいんです、

 ——もう少しここにいさせてください、

 ——あれ、

 ——大丈夫?

 ——風が、

 ——帽子は飛んでません、

 ——大丈夫です、

 ——ねえ、

 ——はい、

 ——やっぱりここにいても悲しい事を思い出すだけだ、

 ——帰ろう、

 ——はい、

 ——それじゃあ、

 ——いえもうちょっとだけ、

 ——私は……


 笑っていた、飛んだ私の帽子に手を伸ばし、欄干から、握った私の手をすり抜けて、その女は、冷たい水の中に、落ちていった、私は自分の手の力が抜けるのを一瞬感じ、それをそのままにして、落ちて行く女を、そのままじっと見つめていた、私は、笑っていた、落ちて行く、その女を見て、私は、こっそりと、笑っていた。


   *


 寝坊してしまった、私は、慌てて、走りながら、学校は、いけない、今日は当番だった、急がないと、世界が変わってしまう前に、走りましょう、曲がり角、今日は、きっと間に合うのかしら、出会えるのかしら、あの人と、すれ違うため、走ります、曲がり角、私は、慌てて、走りながら、いけない、今日は当番だった。急がないと。また回る、世界は回る、曲がり角、私は走る。会えるのかしら、あの人と、曲がり角、会えるのかしら。会えるまで、走るのかしら私は。もしかしてパンでもくわえた方が良いのかしら。走るのかしら。あの人は。いけない、寝坊してしまった、私は、慌てて、走りながら、いけない。今日は当番だった、急がないと私は……


   *


 目の前のスーツの男が言います。

「それで君は、隣の家の男に言われたわけですね、『世界が終わる』と」

「はい」

「君はなぜそんな馬鹿な事を信じたんだ」

「馬鹿な事ではありません」

「『世界が終わる』と言う事が?」

「はい」

「世界が終わるね……でもどうですか」

「はい?」

「今です、今」

「今ですか?」

「今です、今。今、終わってますか、どうですか」

「『世界は終わっているか』と言うことでしょうか」

「そうです、そう、終わってないでしょ、そうでしょう」

 少し怒ったような口調で男。

 私は、うつむいて、弱々しい声で、

「いえ、まだなのかもしれません」と。

「まだ、馬鹿な事を」

 男の横の女が、肩をたたき、相手は女子高生なのですよ、もっとやさしく、と小声でたしなめる。女の方が上司らしく、男の方は、少し、しまったと言うような表情を浮かべながら、一礼をすると、口調は一変。

「いいですか、真面目に答えてくださいね。嘘をついていると、後で君に不利に働きますからね」

「はい」

「君が男に言われたのは他に何があるのですか」

「『この世界は終わります』……」

「その他には」

「『しかし心配する事はない』」

「はあ? 世界が終わるのに、心配しなくても良いと? それはなぜですか?」

「分かりません」

「分からない?」

「でも」

「でも?」

「はい、でも、実は私は怖かったのです」

「と言うと?」

「世界が終わると言われても、何がなんだかわからいので、それは怖くは無かったですが、『もしかして』と私は訪ねました……『世界が終わってしまったら、お兄様と会った事も消えてしまうのでしょうか』と。私はそれだけがが恐ろしかったのです」

「お兄様?」横の女がスーツの男に耳打ちをする。「ああ、君はあの男の事をそう呼んでいたのだね」

 私は男の質問なのか確認なのか分からない口調の言葉を無視をして言います。

「お兄様に私は聞いたのです『世界が終わってしまったら、お兄様と出会った事も無くなってしまうのでしょうか』と」

「それで?」

「『心配する事はない』と。『あったことは消えない、でも……』」

「でも?」

「『君が覚えていてくれたなら』と」

「……申し訳ないですが、正直、意味が分かりませんね」男は困ったようなため息をひとつ。そして「話を少し変えたいと思うのですが良いですか」と。

「ええ」と私。

「君は、なんであんな男の事をかばうのですか」

「かばう?」

「君のお母さんを殺した男ですよ。ひどい男ですよ。知ってるでしょ。何もかも嘘ですよ。大学に勤めているも嘘ですよ。奴は研究者なんかじゃない。詐欺師だ。大学の使われていない建物に忍び込んで妙なものを……」

「オルガノンですわ」

「……そんな名前を付けたがらくたを作って、あちこちの人を騙して……」

「騙してどうしたんですか」

「……ああいろいろだが、それは金の場合も肉体の場合もあるな、この機械が未来のエネルギー危機を救うから今のうちに投資すれば金になると言って騙したり、この機械が難病を直すといったり……ああちょっと君には言いにくいような性的な話もあるな」

「私も騙されたと言いたいのですか」

「それ以外にどう言うのですが、奴の言っていた事が本当になりましたか。どうです、世界なんて終わってない。どうです私は幽霊ですか」

「いえ」

「そうでしょ。なんで君はまだ目がさめないんですか」

「いえ……そう言う意味ではなく、世界が終わったら幽霊も残らないと思いますの」

「君は……」

 スーツの男は、少し怒った顔になり、テーブルを強く叩く。

 そして怒声と共に、身を乗り出すのだが——男が言おうとした言葉を遮って女の方が言う。

「あなたがあの男の事をかばうのは、あの男が好きだったからなのよね」

「そんな……」

「いいのよ。あなたくらいの歳なら、突然の恋でそんな風な状態になってしまうのも可笑しい事じゃないわ。そのせいで何もかもが見えなくなってしまう事になっても」

「違います。私は……」

 私が少し言いよどんでいると、

「実の母と男を取り合うようなただれた関係はさすがに少ないがな」と、割って入ってスーツの男。

 女はキッと男を睨んだあと、優しい声で、

「ねえ、私達は貴方の味方なのよ。正直最初はあなたの事も疑ってみたわ。嫉妬で母親を殺してしまったのではないだろうかと。でもあなたはその時間……ええあなたのお母様の死亡推定時刻には部活中だったし……その内にあの男の余罪もいろいろと出て来たし、爪の間からのDNAもぴったりと男と一致したし……首を絞められて殺される最後の瞬間男を引っ掻いたのでしょうね」と。

 私はうつむいて、その後の女の話をじっと聞いていた。お兄様は、お母さんを絞殺した跡、車で人気の無い川に運び、その橋から落としたのだと言う。お兄様はその後、何食わぬ顔で家に戻り、帰って来た私を笑顔で迎えた。お兄様には別の女を同じようにそうやって殺した容疑もあるし、殺人は未遂だがひど事をされたまま泣き寝入りしている女も他に何人かいると言うことでした。

「だからあのままだとあなたも危なかったのよ。このままあの男を無罪で野に放つことなんてできないわ。そうなったら、あなただって危ないのよ、ああいうのはね、一度関連した相手には必ずまたやってくるのよ、だから……」

 女はそう言って私に協力を求めてきました。これから自分の語る話を正しいと認めてくれれば良いと言う事だけと言うと、女はその後いろいろと質問をしてくるのですが、私が曖昧な答えを返しても、弱々しい否定の言葉を放っても、ただ同意したと見なされるだけで、これでは私がどう答えても同じではないでしょうかと思っているいるうちに、

「協力ありがとう。あなたのことは悪いようにはしないから」と。

 いつの間にか終わっていたのでした。

 訳が分からないままでした。

 どうにもやりきれない感情のままでした、お兄様を裏切ってしまったようあそんな気持ちのまま、私は疲れきって夜の街にでます。

 街は暗闇、欲望の、ギラギラした灯り、睨まれる、視線、突然の吐き気が胸に。

 ——お兄様の言ったとおりです。

 そうなのでした。

 世界は、

 ——もうすぐに終わってしまうものなのでした。


   *


 桜の花びらの舞い散る中、世界が終わるのなら、素敵なら、始まりの春に、終わりが始まるのなら、卒業式のその日、私は、待っている。世界が消えるなら、素敵なら、花びらに埋まり、ここで終わるのが良いのなら、そうしますか? 私は、歌いながら、校歌を、友達との別れに、泣きながら、手を振って校舎から歩いて行く。その先には、光、丘を登りましょう。祝福をいたしましょう、終わりが始まりとなる、この美しき日には、あなたはそこで待っているでしょう。手を広げ私は飛び出します。ここにいる、花びらの舞い散る中、世界はその色に染まる。埋まる。私は、微笑みながら見るでしょう。私が、世界が、死に、生き返る、この日に、あなたは、来る。


  *


 お兄様は、ある日、私をオルガノンの所に連れて行ってくれました、大学の敷地の中、しばらく歩き、人気の無い、崩れそうな校舎、その前で、

 ——この中だよ、

 ——はい、

 ——少し汚い所でごめんね、

 ——あんまり予算が貰えない研究なんだ、

 ——無理矢理頼み込んでこんな所だけやっと借りれてね、

 ——きゃ、

 ——あれネズミかな、

 ——正直、中にはもっと連中いるのだけど、

 ——えっ、

 ——ちょっと乙女を連れて来るような場所じゃないと思うんだよね、

 ——さすがに、

 ——なんなら見るのを止めるかい、

 ——オルガノンを見てもそんな面白いもんじゃないよ、

 ——単に無粋な機械の固まりで、

 ——君が見て楽しいものじゃないと思うけど、

 ——いえ、見たいです、

 ——まあせっかくここまで来てもらったんだから見ないともったいな……

 ——悪いねドアの立て付けが悪くてね、なかなか……

 ——一緒にあけます、

 ——あれ悪いね、じゃあかけ声をだすよ、一緒に……

 ——それ!

 ドアが開き、薄暗い部屋の中、窓から差す光のなかに輝いて、オルガノンはありました、様々な計器が取り付いて、管やコードでつながれる、鈍い金色の球体、半円のパラボラアンテナのようなものは天上に向かって配置され、それらが重なって人の入れる位大きなドームを作っている、その中には、青く光る照明椅子が置かれ、前には操作に使う為のものなのか、無数のレバーやボタン、その後ろにはコイルの巻かれた大きな金属の棒が何本か、少し耳鳴りがしてきたような気がしました、お兄様は何かスイッチを入れ、オルガノンは細かく振動をはじめました、コイルからは火花が散っていました、全体を支えている柱に取り付けられたモニターが点灯し、その中には不思議な形をした図形が次々に映っています、あちこちで色鮮やかな灯りが光が、点いては消え、点いては消え、

 ——琴ちゃん、

 ——これで終わりだ、

 ——今日はこれ以上の操作はできない、

 ——これ以上動かして不安定になると、危ないので……

 ——はいこれで十分です、

 ——お兄様のやってなさる事が見たかっただけなので、

 ——そうか?

 ——はい?

 ——君は……

 ——なんですか、

 ——とても良い子だね、

 ——お兄様、突然何を……

 ——疑いを知らず何もかも受け入れる、

 ——こんなうさんくさい装置を使ったはったりにも、

 ——はったりなのですか?

 ——そうは思わないかいこんな訳の分からないがらくたをつなぎ合わされたのを見せられて、

 ——結局何も起きない、

 ——でも、

 ——でも?

 ——お兄様は頑張っておられるのでしょ、

 ——え?

 ——世界を救うため、

 ——この機械はそのためのものなのでしょ、

 ——違うよ、

 ——言ったじゃないか、

 ——終わるのは僕だ、

 ——救われるのは僕だ、

 ——僕が救おうとしているのは僕だ、

 ——それじゃ同じですわ、

 ——同じ?

 ——私に取ってはそれは世界です、

 ——琴ちゃん……

 ——でも、じゃあこうしたらどうでしょう、

 ——お兄様が私を騙していると言うのならお詫びに私にキスをする、

 ——騙していないのだとしたならば今後の友情と協力に向けて握手をする、

 ——あら、

 ——少し残念な気もするのですけど……


 お兄様と私はしっかりと握手をしながら大きな笑い声をあげています、オルガノンは白い煙をあげてとまりました、それを見てさらに笑う私、お兄様も笑う、差し込む太陽の光の中、そう世界はここで……


   *


 救われる、世界が、あなたなら、虚無に落ち、無かった世界は、無く、すべてがあるのなら、何物も有るは無し、繰り返す世界なら、気高くも、祝福に、獣たちは鳴くでしょう。空の果て、宇宙の彼方の何処かにいるはずの、私と同じ顔の少女が、笑う。そこでなら、すべての幸せがかなうのなら、無数に存在するという、枝分かれした宇宙の、創世の秘密——何もかもが有るのなら、何もかも無い世界もあるでしょう。すべてが無いことが有る世界もあるのでしょうか——私も、あなたもいない。そんな、無にこそ、生まれるのかもしれませんね、宇宙が、新しい宇宙が、私は無量のその中で、繰り返す時間の中で、何度もくじけ倒れても、世界が終わり続けても、いつかあなたを見つけるだろう。あなたのある、このすべての宇宙たちを愛するでしょう。私は、幾多もいて、幾多も悲しむでしょう。そして幾多も喜び、幾多も苦しみ、そして愛す。この全てを、私は、持ちましょう、何処かで、あなたと歩く、その時を、このすべての宇宙と共に、私は、在る。


   *


 オルガノンが運び出される日、私は、大学の敷地に忍び込み、物陰から、こっそりとそれを見つめているのでした、そう、お兄様とはもう会えなくなっていた、そのときの私は、最後の、何か、つながりを求めて、それが消えてしまう日に、ただそれを見つめる、ここに来るために私は嘘をつき病院を出たのです。——私は、何度か、お母さんを殺したのは私でお兄様ではないと警察に訴えたのですが、君の話はまったく理屈に合わない、取り合ってくれることさえ無いばかりか、精神的ショックで、自分の信じたい妄想の中に入っているとお医者様から言われ、私は、病院に入れられて、何か頭がぼんやりとする薬をしばらく飲まされていたのです——しかし今日がその日だと、病室に定期的にやってくる警察の女の人が教えてくれたのです。——お兄様、今回だけは私は嘘をつきましょう、全てを認め、その日にあわせ私は病院から出て行くことができました、ここ、張られた幕の向こうから、オルガノンは分解され、運ばれて行きます、ドリルの音、金属のこすれる音、ぶつかる音、それは運ばれていきます、私の知らないところ、私の手の届かない宇宙へ——私は、私は泣いていました、私はただ見つめ、何もできないその無力に心を落ち込ませておりました、身体から力が抜けて、私は、崩れ落ちそうになり、

 ——お母さん、

 私は、目の前に母を見ます。彼女は何も言わずじっと私の前に立ちます。そして手を差し出すのです。私はその手を握ります。私は強く、今度こそは離さないように力一杯に握ります、しかし強く握れば握るだけその手は私の手の中をすり抜けてゆく、

 ——そして……


   +


 大学の敷地内で気を失っている私が発見され、そしてまた病院に収容され、治療と言われていろいろされ、やっとそこからでることができたのは数ヶ月も後の事でした。それで大事な高校三年の最後を棒に振った。私は、結局一浪をして、親戚達には止められたのですが、強引に押し切って、あのオルガノンのあった大学に入ることになります。

 そうして一年、あの場所に近づく気も起きずに、人並みには楽しい学園生活を送りながら、しかし心に大きな引っかかりをもったまま、勉強にも、遊びにも、徐々に慣れ始めた。——そう気になる人も現れて来たのですよ、お兄様、もう良いころですよね。——でもまだ、踏ん切りがつきません、理由は分かっています。あそこに行かなければならないのです。 

 過去は、夢のようでした、いやすべて夢なのかもとも思います。いろいろな矛盾した事が思い出されます。どれもが本当の用で、はたまたよく考えれば嘘のようで——あるいは、こう考えてみれば良いのではないかと、全てが本当で、本当でない、全ての私がいるけれど、それ一つ一つを、起きた事だけでなく、起きなかった事まで含めてすべて私なのではないかと。

 現実の私が生きられたのは、もちろんその内のひとつにしか過ぎません。しかし、それは私が生き得たすべての生の中でこそある事なのでは。いろいろな生。中には辛いものも、考えられないくらい幸運なものがあるかもしれません。その中で好きなものを選べたらなんて思わないでもありません。このままあそこに行かなければ、何もかもが本当でなく、私は好きな妄想にずっと耽っていられるのではと。

 ——でも駄目です。

 ——私は決めるのです。

 曖昧な気持ちを止めて、今日、封鎖された窓を破り、その中に、オルガノンのあった場所、何もないコンクリートの床に、なにか痕跡を探り、しかしなにもない——差し込む光だけがあの時と同じ。

 いえ私は、知っています、この場所に何も無い意味を。私は光の中、面影を追いかけます、全ての世界の中の、全てのあなたを、光り輝くこの部屋の中で、私は追いかけます。知っています。決して過去は追いつく事等は無いのだと。過ぎたものに至る事は無いのだと。私達はもうそこには戻れないのだと。そう、あの時、あの場所には。

 気づけば、もう時間がずいぶんと過ぎました。一年間。長いようで短いこの時間で——あの後、お兄様の名誉は少し回復しました——お母さん以外の殺人の容疑は免罪だった事が分かり、レイプの容疑等かけられていたものも詐欺被害者の狂言である事も分かりました。しかし詐欺を働いた事実は覆らなかったし、それをしっかりと自白もしているそうです。全てが覆る事等はありません。殺人も情状酌量の余地がありとの話だったらしいのですが、本人がそもそもあまり言い逃れをする気がないようで、お兄様は何らかの刑を受けるのは確実となるようでした。

 これらは、刑の確定する前に、最後の事情聴取と言ってやって来たあの警察の女の人から私はそれらの事を教えてもらいました。

 私もその内に裁判に呼ばれる事があるからと、他にもいろいろと、めんどくさい細かい話もされましたが、女の人は、最後にこんな事を言ってから去って行きました。

「もうあなたはあの男に会う事もないだろうし、そうしてほしいものと私は思うのよ、でも……」と。

「なんでしょうか」と私。

「あなたが信じていることまで否定するのはだんだん野暮に見えて来たわ、と言うことだけは最後に言っておきたいの」


 私には何が本当か分かりません。過去は、あっという間に過ぎた短い一年前の事でさえ、しっかりと思い出そうとすると薄靄のようなヴェールの彼方、絶対に正しいと思うことも気づくとふと疑問を持ってしまったりします。ここには、今、オルガノンはありません。前にこの部屋を狭苦しくするくらいに空間を占領したあの機械は、ここに——果たして在ったのでしょうか。私はふと不安になります。もしかしてお兄様も、お母さんも果たしてこの世にいたのでしょうか。この目の前の空白はそんな不安な気持ちを呼び覚まします。しかし……

 私はこの場を立ち去ります。空白をこの目で確かめ、来たときよりもずっと強い足取りで歩いて行きます。幾万もの世界の、いやそれ以上の世界の私もきっとそうするでしょう。私は歩きます。空白を見て。何も無い、その先にある、果てしない無限を探して。その中にきっと私の進む道のある事を信じて。私は歩きます。私は、今、その空白をやっと見る事ができた。

 ——そして、そこに、

 ——今、

 ——世界の終わり、

 ——そして始まり。

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オルガノン 時野マモ @plus8

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