第四章・涙6

 がむしゃらに、若さに任せて深川を抱いた。今日は普通に学校もあった。高野も流石にこの人にまでは写真を提示しなかったらしく、彼女は何も知らないままの様子だった。テストが近いこともあって、彼女もここ何日かにかけてはかなりバタバタしていたはずだ。行為が済むと、彼女はすぐに眠ってしまった。急に泣き出した僕に理由を問うこともなく、かと言って察する訳でもなく、不安定な僕を解らないなりに身体で受け止めてくれた。その真摯さが、胸を打つ。

 だからこそ、僕は何も話せなかった。不透明を極めるこの先に対する不安や、事の重大さが、何度も僕を圧し潰そうとして、短い夜の隙間隙間に、言葉が落ちそうになった。そうやって何度も、全て洗いざらい話したいと言う気持ちに呪われたのにも関わらず、だ。

史穂や高野、両親が深川との事実を知って、どう出るか。少なくとも一人くらいは、事を大きくしようとするだろう。きっとこれから、深川には想像もつかないような日々が待っている。事情を話して、一緒に逃げたっていい。深川への気持ちに正直になろうと思えば、非人道的とは言え、その選択が一番だ。しかし、僕はこれ以上、深川を自分に巻き込みたくなかった。深川は、史穂の存在すら知らない。別に気付かれてしまっても、事情を話すつもりだったけど、その必要が無かったし、わざわざ僕から言い出そうという気は起きなかった。でも、その時点で、僕は深川を裏切っていたことにはなる。ここまで来てなお、深川に全て受け止めてもらい、一緒に逃げてもらうだなんて甘え方ができる程、僕はこの人に対してだけはドライになれない。好きだと気付いてしまったからこそ、今、最悪の形で裏切って、先生には一生、僕を憎んで欲しかった。


この部屋にはよく来ていた訳ではなかったけど、ある程度、勝手は知っていた。シャワーを使わせてもらい、身体を拭いていると、携帯が鳴った。非通知だった。保からだろうか。病院の公衆電話から? どちらにしても、携帯はこの部屋に置いていくかこの近くに捨てるつもりだったので、よく考えずに出てみた。多少、身構えながらも。

「……もしもし」

 相手はすぐに答えなかった。保ならまくし立ててきそうなものなのに、と思っていると、予想だにしない声がした。

『るん、私。エミ』

 紛れもなく、姉の、エンの声だった。そのひと言、二言だけで、泣いているのが分かった。同時に、それを隠すつもりもないのだ、と言うことが。自分の感情を隠そうとは露とも思わない、どこまでも素直な声だった。かけてきてもおかしくはないけど、心底驚いた。まさか、このタイミングで。

『久しぶり。ごめんね、夜遅くに』

 すぐに返事ができず、先にエンが続けた。天井を仰ぐ。ぽっかりと間抜けに開いた口が、どうしても閉まらない瞬間があった。ああ、と声と涙が漏れるのを必死でこらえるのが精いっぱいだった。

「ううん、いいよ」

 ようやく口を引き結び、答える。何事もないかのように装うのに、必死になりながら。本当にもう、何も知らないのはエンだけだった。保も、篠美も、史穂も。皆、既に僕の本性を知っている。今、寝室で眠っている深川だけは何も知らない、と言えなくもないが、それも今夜だけと言う時限爆弾付きだし、そもそも彼女との関係が僕の悪意の全てと言っても過言ではない。

『元気? るん』

 泣いて震えた声のまま、エンが続ける。気丈だと思った。泣いている理由は解らない。だけど、今まさに呼吸を整えて何でもない風を装おうとしている僕とは大違いだ。

「ああ、うん、僕は元気だけど……大丈夫?」

 エンが出て行って、二ヶ月以上が経っていた。それまで実家を出たことのないエンが、この二ヶ月、自分の力で生き抜いたのだ。そこに多少とは言い難いであろう軋轢があったことは想像に難くない。泣きながら連絡してきたと言うことは、やはり何がしかつらいことがあったのかも知れない。心配だった。

『だい、じょうぶ。ちゃんと、生活も……できてるし』

 凄いな、と思った。この二ヶ月で、生活が回るようにまでなったのか。きっと僕もこれから、彼女と同じような、若しくはそれよりも厳しい生活を強いられる。覚悟はしていたけど、自分にもできるだろうか。殺人未遂(しかも尊属殺人)で、刑務所に入るのも悪くはないけれど、両親にはもう、会うつもりがなかった。

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