第四章・涙5

 それは、深川が担任になって、最初の進路相談の時間だった。この時からトップを取っていた僕の進路希望は殆ど定まっていて、話し合いはいち早く済んだ。向かい合わせにしていた席から深川が立ち上がったので、僕も次の生徒を呼びに行っていいのだと判断し、立ち上がった。言われたのは、その時だった。

「私と、付き合わない?」

 最初は、何を言っているんだろう、と、当然、思った。他に人のいない教室の中で、僕を凝視する彼女の視線にただならぬものを感じた僕の全身に、ざわざわとした恐怖心が注がれていく。

 それまで、恋愛なんてしたことが無かった。石野君は真面目だから、塾とかで忙しいから恋愛なんて興味ないよね。向けられる無言のイメージに抗う気持ちや嫌悪感を持つこともまるでなく、僕は僕を貫いてきた。深川にこれを言われた時はまだ、非婚や子どもを作らないと言う信念にも辿り着いていなかったし、恋愛をする自分のことをうまく想像できていなかった。

「何を言っているか、解ってるんですか?」

 正気ではあるだろうと思っていたけど、思い直すことがあるなら、これを否定と取ってくれるならそれがいいと思って、ありきたりだけど答えた。

「解ってるって言ったら?」

 困らせているつもりなのだろうか。馬鹿げている、と思った。

「じゃあ、僕が生徒で、先生が、教師だってことは」

 言うと深川は、馬鹿ね、と口角を引いて嘲笑った。

「解ってるに決まってるじゃない。らしくないわね。そんな頭の固いコじゃないって知ってるから、言ってるのよ?」

 正直、ドキリとした。昔から、クラストップの座をほしいままにする僕のことを、頑固だとか、真面目でお堅いと安易に評価する者が殆どだった。果てしなく高い成績を取り続けなければ殴られるような環境に置かれれば、喩え真面目でお堅くなんてなくても、クラストップなんて夢じゃない。少なくとも、それが可能な能力を備えているなら、特に。それに僕は、柔軟さが無ければ、好成績は保てないと考えている。ガチガチの頭に、閃きや応用力は育たない。石のように固い土に、植物が育たないように。しかし、もはや安易に頭が固いと決めてかかる相手に、そんな思想を押しつけても無駄だと言うことも気付いているので、別に否定したことはなかった。それこそ、自分は頭が固くない、と思い込むこと自体、頭が固い証拠のような気もする。

 しかし、頭が固くないなどと言われてしまうと、ズバリ言い当てられたように感じてしまうのは禁じ得なかった。ハッとしてしまった事実はもう、覆せない。間違いなく、黙り込んでしまった自分がそこにいた。

「好きか、どうか。付き合えるか、どうか。それだけを考えればいいの」

 そう言い切る深川の言葉に呼応するように、僕は目の前にいる、春の、色濃い斜陽を浴びた彼女を強く、見た。自分と相手の立場、年齢差、自分の中にある〝付き合う〟と言うことに対する、現実的なイメージ。そう言ったものを全て自分の中で取っ払うことが、僕にはできた。頭の固さを否定されることは、そのまま柔軟さを指摘されたも同然だったから。その評価に、応えたい気持ちがあった。

学校と言う場所に合わせた化粧では隠しきれない豊齢線が走りながらも、まだ衰えきらず甘さをわずかに残すルックス。その後に、メリハリのある蠱惑的なボディーラインを順に、視線を撫で下ろしていく。そして紺のスカートから下に伸びる、少しばかりくたびれた様子の足に目を走らせていた時には、何となく見てはいけないものを見ているような気持ちになり、思わず目をそらした。顔が、熱くなっていく。

 しかし、最後に立ち返ったのは、自分のことだった。深川に見初められる理由が、自分のどこにあるのか、それが解らない。この上ない程、素直さにほだされてしまった僕は、あまりにも率直に、その疑問を投げかけた。

「……何で、僕なんですか。僕、女性と付き合ったこととか、無いですよ」

 目をそらしたまま問いかけてしまってから、気付く。深川を、拒めなかった。僕のその気付きを嘲笑うかのように、ふふ、と深川は微かで技巧的な声を漏らした。

「知ってる」

 勝利を確信したらしい深川は、僕の目の前まで迫り、両耳にかかった僕の髪をかき上げ、手を止める。頭蓋骨を掴まれているような格好になった。向き直させられたお陰で、視界が深川の顔の大写しになる。目を、そらせなかった。

「恋を、女を知ったら、きっとあなたは完璧な男の子になる。そう確信したの。青田買いよ。完璧な男の子を、私は手に入れたいの」

 まるで僕に欠点など無いかのような、断定的過ぎる物言いなのに、深川の目には迷いがひとかけらも無かった。

「謙遜はナシよ。その完璧はあくまで、私にとっての完璧なんだから」

 後から考えてみれば、何てことはない、要は僕のことがタイプだ、と言うことに過ぎない。その後、キスをされたのにも関わらず、しばらく動けずに深川をただ見ていたのは、そんな歪曲的な物言いが、現実感を失わせていたせいだ。たぶん。

 長かったのか、短かったのかすらも解らないキスを終えた僕の脳裏には、家族が浮かんでいた。エンは中学の時点で、付き合って別れて、と言う恋愛を繰り返していた。自分の分身とも言えるエンは既に、こんな気持ちを味わっていたのか。自らの気持ちが揺れ動くたびに、出し抜かれているような感覚が後からついて来る。別に、競う意味なんてないのに。担任と恋愛するなんて、保や篠美が知ったら怒り狂うだろうな。保からも、篠美からも、きっと殴られるだけじゃ済まない。そう思った時に、僕の気持ちはようやく深川へと大きく傾いた。そうだ。僕は今、初めて、両親が望まないことを自ら進んでしているのだ。

 気付いた時には、遅かった。――嬉しい。バレたらどうしよう、なんて言う不安や恐怖には駆られなかった。レールから外れてやったことに対する快感、高揚感が、暴発する。

 捕らえるように、目の前の深川を抱きしめる。僕から初めて仕掛けた、決定打と言える、はっきりとしたモーション。この人なら、僕を保や篠美が支配する僕の全てだった世界の外を魅せてくれる。両親の存在が、僕の何かを圧迫していることには既に気付いていたけれど、そこから解放されることが、こんなにも快感だと言うことには、この時まで気付けていなかった。意味もなく両親に反発して泣いていたエンを馬鹿にしていたところが無いかと言えば、嘘になる。しかし、この時は彼女がきちんと本能に従っていたのだと言うことを理解し、敬服した。驚いたように一瞬、身体を強張らせた深川から、間もなく微笑む声が、身体を通したように響き、籠もって聞こえた。

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