第四章・涙3
「これは、どういうことなの」
恵泉での講習を終え、家に帰ると、篠美は台所にある食卓に座っていた。調味料が中央にまとめて置かれている食卓の上には、例の深川との写真が置いてある。ご丁寧に、横にはうちの住所が書かれた茶封筒まで置かれている。見直した。うちにまで送りつけてくるなんて、あいつもなかなかセンスがある。
「どうしたの、それ」
至極、穏やかな声が出た。驚いたけど、高野がここまでやってくれたお陰で、崩せるピースが増えた。
「どうしたの、じゃないわよ! この人、深川先生よね? 担任の!」
意外と皆、この格好でもきちんと見抜くもんなんだなあと感心する。篠美なんて、数回しか深川に会ったことないだろうに。まあ、クレアはケバい感じじゃないから、分かり易いのかな。クレアのモデルの年齢に近づける為に、ずいぶん塗ってはいたようだけど。まあ、どちらにしても、高校生の息子がラブホテルから出てくるところを激写したものなのだ、母親としてはその時点で問い詰めたくもなるのだろう。
「最近、成績が落ちてたのも、このせい!?」
出た。女の人っていらいらすると、全然議題とは違う不満も次々思い出すんだよね。これ、あるあるだと思わない? どんな風に脳みそを使ってそうしてるのか、ぜひ解明してみたいって思うのは、僕だけだろうか。
「違うよ。エンを探してたから。トップ取ってた時から、先生とはつきあっ」
頬を打たれる。家事ですっかり乾ききった掌は固くて厚く、流石に涙が出る。写真を見たことで、沸点が低くなっていたのだろう、すぐに半狂乱になった篠美は僕に馬乗りになって、バチバチと頬を叩いた。抵抗するふりをして、シンクに置きっ放しになっていた包丁を見つけた僕は、必死になってそれを床に落とす。狙い通り、それが篠美の目に留まってくれる。今日という今日は、篠美の理性のリミッターも、完全にぶっ飛んでくれているようで、あまりにも簡単に、篠美はそれを掴んだ。
「あんたなんか……っ」
おいおい、流石にそれは怖いよ。包丁を掴んだ両手を押さえる。じゃないと、顔に振り下ろされるところだった。刺すならせめて腹とかにしてほしい。
――その時。
篠美が暴れる以外はしんとしていた家の中に、微かに別の音が響く。玄関の重いドアが開き、閉まる音。その音を聞いた僕に、悪魔が宿った。いや、でもどうなんだろう。篠美にとってみたら、天使が宿ったのかも知れない。
「おい……何してるっ!?」
保が仕事から帰ってきた。最高のタイミングで。状況が状況だから声にはできないけど、笑顔でおかえり、と言ってやりたい。お前にしては上出来だ。
光景にたじろいだ保が叫ぶ。
「やめろ!! ルイ」
保が玄関から、居間に移動するまでのストロークで、僕は身体にぐっと力を込めて、篠美からあっさりと包丁を奪い取り、逆に僕が馬乗りになった。今まで篠美に対して本気で闘ったことはなかったが、殆ど一瞬のうちに形勢逆転するのは、やっぱりそこそこしんどかった。
子どもの頃から胸に留めていた殺意が、ここに来てようやく昇華される。僕は認める。自分に対して手を出す母親に対して、やりきれない気持ちがあるのと同時に、殺意もきちんと生まれていた。
保の制止の声もろくに聞かず、僕は抵抗する篠美を切りつける。無理な体勢だったせいで、刃は脇腹を掠める程度になった。五十近くにしてはなかなか甲高い、悲鳴を上がった。
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