第3話

 


 ――運命だと思った。



 真理さんの夫が死んだ。

 真理さんが僕の働く老人ホームに入所した。

 やっと、僕の出番が来たんだ。




 真理さんと出会ったのは、生まれてすぐ。

 僕を産んだ女……佳奈が、生後七ヶ月の赤子を抱えて実家へ出戻った時だ。


 真理さんは佳奈の姉。僕の伯母にあたる。けれど、僕にとって真理さんは伯母なんて無味な存在ではなかった。

 真理さんは僕の唯一の存在だ。唯一の母であり、唯一の姉であり……唯一の恋人だ。


 佳奈は夜の店で働いて、僕の世話は真理さんに押し付けた。

 真理さんは寝たきり状態の自分の母の介護に加え、産まれたばかりの僕の育児に追われることになった。


 僕は佳奈が大嫌いだった。


 明け方に酒臭い息で帰ってきて、機嫌が悪ければ僕を殴る。機嫌が良ければ真理さんを詰る。


『行かず後家』『引きこもり』『まともに働いた事も無いくせに』『ちょっと貸してもらうだけよ』『立て替えといてって言ってるでしょ!』


 時々男を連れ込む事もあった。僕と真理さんに対する時と全く違う、媚びた声音が気持ち悪かった。

 佳奈が男と部屋に篭った時は、深夜でも真理さんが散歩に連れ出してくれた。

 手を繋いで歩いていれば、暗闇も怖くなかった。お化けが出たら僕が真理さんを守るんだって、思っていた。


 真理さんは僕に色んなことを教えてくれた。

 学校の勉強。料理。掃除や洗濯。挨拶の仕方。言葉使い。箪笥に新聞紙を敷く理由。美味しいりんごの選び方。

 上手に出来ると抱きしめて喜んでくれるのが嬉しくて、おばあちゃんの看護も自分から手伝った。


 僕の世界は真理さんを中心に回っていた。真理さんの笑顔より大事なものは何も無かった。

 酔った佳奈には時々殴られるけど、真理さんが泣いて庇ってくれるから僕は幸せだった。ずっとこの幸せが続くんだと、子供の僕は信じていた。


 真理さんとの別れは突然だった。


 ありふれた風邪を拗らせて、おばあちゃんが呆気なく、死んだ。真理さんが泣いて悲しむから、僕も悲しかった。真理さんがおばあちゃんを好きだから、僕もおばあちゃんが好きだった。

 相続。遺言。土地と家。知らない男。再婚。父親。

 ろくに別れも言えぬまま、僕と真理さんは引き離された。




 真理さんの居場所を見つけたのは十八歳の時。

 迎えに行くつもりだった。僕の幸せは真理さんの隣にしか無かった。だけど。


 真理さんは結婚していた。


 悲しかった。真理さんを奪った男も、産まれた子供も、殺してやりたいと思った。でも僕は耐えた。……真理さんが、幸せそうに笑っていたから。

 大切な真理さん。愛しい真理さん。優しい真理さん。夫と子供と引き離されたら、きっと泣いて悲しむだろう。

 真理さんの笑顔より大事なものは何も無い。真理さんを悲しませることは僕には出来ない。だから



 二十年、待った。



 真理さんが夫を亡くして気落ちしていたのはすぐに知った。でも、まだ子供達がいた。どうすれば真理さんが手に入るのか……僕は慎重に状況を見極める。


 真理さんが足を悪くした。

 子供達の負担になるのを気に病んでいるようだった。ヘルパーを使えばいいのに。そうしたら僕が介護に行くのに。


 真理さんが老人ホームへの入所を希望しているのを知った。

 直ぐさま仕事を辞めて一番近くて大きい老人ホームに再就職した。介護士の資格はいずれ必要になると思っていたので取得済みだった。

 そして、偶然を装って真理さんの子供に接触する。慎重に、さりげなく誘導して、僕の勤めるホームに真理さんを入れる事に成功した。



 そして真理さんとの再会の日。



 僕を忘れていた真理さんに、一瞬の絶望の後、歓喜が込み上げた。僕と真理さんはここから新しく出会う。伯母と甥だなんて中途半端な関係は要らない。ただのマリーとハルになる。

 真理さんの痴呆は物忘れがちょっと進んだ程度の軽いものだったけれど、僕はそこへ付け込んだ。

 少しずつ、少しずつ。時間をかけて真理さんの空想を膨らませる。



 自分はマリーという名のお姫様。

 ホームの職員は使用人。

 入所者達はお客様。


 僕はハル。

 マリーの特別にお気に入りの使用人……改め、王子様。

 誰よりも近い、特別。



 真理さんが正気だったなら、きっとこの僕の所業を泣いて悲しむだろう。でも今の彼女は幸せな空想ゆめの中。

 待っていた王子様は来なかったけれど、隣にいたハルを王子様にしたマリー。王子様を手に入れて、幸せそうに笑うマリー。



 マリーの笑顔より大事なものは何も無い。


  

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