<ハーレム・ステップⅡ>~マトリョーシカ・メモリーズ~
少し社会を知った人間がいう台詞の一つに個人でできることは少ないというものがある。
己の無力を嘆くふりをして怠けたい人間が自分や周囲をごまかす為によく使う台詞だ。
それはあたりまえの話でしかないのだが、そういう人間に限ってそれをさも嘆かわしいことだと言わんばかりに口にするものだ。
個人でできることが限られているように、社会機構でできることもまた限られている。
個人では社会機構が変えられないように、社会機構もまた個人を変えることはできない。
しかし、社会が個人に幾許かの影響を与え得るように、幾許かの個人もまた社会に影響を与え得るものでもある。
どれもあたりまえの話でしかない。
では、架空の人格は社会や個人に影響を与え得るだろうか?
答えはYESだ。
架空の名探偵やヒーローあるいは悪役達──人の心に残るような物語の登場人物だけに限っても、かなりの数にのぼるだろうし。
過去の英雄や現代の有名人達などのメディアに作られた幻想を含めれば、社会に影響を与え得る人格とは全て架空の存在と言っていいだろう。
本来の人格とは、その人間を直接知っている人間にしか、垣間見ることができないものだ。
本来の人格が多くのペルソナを持つのとは違った意味で、社会に表れる人格は本来の人格とはかけ離れたものになる。
それは、例えるなら噂だ。
人類最古の噂の一つである‘神’のように多くの人間は架空の何かを信じて生きている。
いや、何の裏づけもない情報を、意識的に或いは無意識に人は信じるふりをすると言った方がいいだろうか。
だが、世の中にはそんな生き方ををよしとしない捻くれ者も、そう多くはないがいるのだ。
それは容易な生き方ではない。
なぜならそれは、一切の常識が通じない世界で何を信じるかを自分で決めていくようなものだからだ。
そう、今のオレのように。
失神したままの‘ミスリア’をベッドに運び色々と後始末をしたあと、寝室の蔵書の背表紙に並ぶ見たことがない字すら読めると言いうことに気づいたオレは、そのいくつかを持ち出して情報を集めながら、考えるともなしに、そんなことを考えていた。
最早、オレにありえない知識がインプットされているのは、逃れようのない事実だ。
ならば、それを嘆くよりは活用するのが得策というものだろう。
もっとも、そうして得た収穫はといえば、それはオレの望む方向のそれではなく、オレにそれらの本の知識がインプットされているという不快な事実を知らせるだけのものだったが。
数千冊の蔵書は、学術書や技術書そして神話や物語といった多岐に渡るもので、全てを見た訳ではないが抜き出したものは、そのどれもが一冊の本として成り立っていた。
魔法や錬金術に魔物や精霊といったファンタジーの要素を、まるで確立した技術や動物学のように表し論理立てて研究した本は、リアルティメィトオンラインの世界が実在するかのように思わせる。
もちろん異世界なんてものが実在するわけがない。
平行世界なんてのは二百年以上も前の科学者の理論を曲解して作ったフィクションだ。
シュレディンガーの猫は、もともと否定材料でしかなく、観測できないものが存在しないなんてのは負け惜しみか冗談でしかない。
物質を介さないで存在する波動など存在しないのだから、光が粒子でもあり波でもあるなんてのも言葉遊びでしかない。
つまり、多世界解釈なんてのは世迷言だということだ。
それにオレの肉体の変化と記憶にない知識の増加が、何よりここが異世界などではないことを物語っている。
この世界がオレの妄想でないのなら、ここは仮想世界だと考えるべきだろう。
それが物質世界で存在しているのか。ヴァーチャルなのかは判らないが──。
それから二時間近くをかけて、他の蔵書に目を通したり地下の実験室が錬金術関連の書籍に載っている実験を実際に行えるものかどうかを調べたり、キッチンや風呂などをくわしく調べてみたりしたが、結局これといった発見はなかった。
中身が白紙の本もなければ、実験器具や家具がみかけだけということもなく、本にも器具にも使用された痕跡があった。
そうして過ごし、次に今後の為地図関連の書籍に目を通していたところ背後でミスリアの気配が変わった。
どうやら目覚めかけているらしい。
かなり消耗していたので意識を取り戻しても、しばらくは起き上がれないだろうが……。
それならばとオレはミスリアが起きる前に、タオルと水の入った小さな真鍮の洗面器を用意してベッドに向かった。
「ん……」
洗面器をサイドテーブルの上に置き、タオルを湿らせていると微かな声が聞こえた。
まだ目覚めてはいないようで、閉じられたままのまぶたの先で長い金色のまつげがふるふると揺れている。
ミスリアは紅潮した顔で、寝苦しげな息をついていた。
もちろん未だに強制的な快楽の中にいるわけではない。
肉体的にも精神的にも重い負担がかかったせいで発熱しているのだ。
「早く回復してくれよ」
オレは、額にかかったしっとりと濡れて重くなった髪の一房をかきあげて、かたく絞ったタオルをミスリアにのせて言った。
「ぁ……」
その声が聞こえたのか小さく息を吐いてミスリアのまぶたが開く。
おぼろげなライトグリーンの瞳が、こちらを見て戸惑うように揺れた。
「おぼえてるか? 君はオレに護衛の依頼をして、旅にでる用意をしてる途中で倒れたんだ」
オレはミスリアの調子を気遣いながら、催眠で植えつけた記憶を思い出すように誘導した。
「ごめんなさい。 私──」
揺れていた瞳が焦点を結んでいき、のぞきこんでいたオレを見る。
少しかすれた声がさくら色のくちびるからもれ、ミスリアは起き上がろうとした。
「待て、無理はダメだ」
その肩を軽く支えるようにもって、なるべく優しく聞こえるように言う。
全身に力が入らないようでしばらく起き上がろうともがいていたが、やがて力つきるようにミスリアはベッドに沈む。
「べつに、急ぐ旅じゃないんだろ。今はゆっくり休むんだ」
力を入れれば女一人片手で抱き起こせないわけではないが、自分で起き上がれない人間を座らせても意味はない。
オレは言い聞かせるように、力なくこちらを見返す瞳を見ながら微笑んだ。
「君を守るのがオレの仕事だ。だから、今はオレのいうことをきいてくれ」
我ながら白々しい台詞を、真摯に聞こえるように吐きながら、淡翠色の瞳をのぞきこむ。
「……立場が反対になっちゃったわね」
ふうと息をついて、あきらめたのか仕方なさそうな声が言った。
「──そんなこともあったかな」
少し考えてオレはその言葉が意味することに気づく。
与えた暗示でオレは、彼女のクエストを受けることで知り合った冒険者のなかで最も好感を持てた人間ということになっている。
その後会うことがなかったが、今日久しぶりに再会して依頼を受けたという設定だ。
クエスト中、冒険者はミスリアの指示に従って走り回ることになる。
逆にオレの指示に従う立場になったことが、あまり気にいらないのだろう。
「のどは渇いてないか? 食事も簡単なものならつくれるぞ」
不本意なことを強いるわけではないと笑って、 しかし言外に、どうしてもというはこちらの指示に従うようにという含みを持たせて言う。
「依頼者の要望はなるべく聞くの主義だから、いざというとき以外はなんでも言ってくれ」
「……水をお願いできるかしら」
「わかった 何か食べるか?」
オレはうなずいて、キッチンを調べたときに食材があるのは判っていたので訊いた。
「水だけでいいわ」
気だるげな声が否定して、微かに首が振られる。
オレはもう一度うなづいてキッチンに向かった。
どうやら記憶は書き換えられたようだ。
だが、彼女がその記憶を怪しんでいる可能性もあるし、そもそもオレのほうが騙されているのかもしれない。
そうでないにしても、いつ偽りの記憶が破綻しないとも限らない。
コップに水を汲んでもどるとミスリアがなんとかして身体を起こそうとしていたが、やはり衰弱した身体では無理のようで再びベッドに沈む。
人に頼るのが苦手なのか、それともオレを信頼できないと感じているのだろうか?
「ミスリア、無理はするなといっただろう」
オレは子供に言い聞かせるように、その翠の瞳を見つめながらゆっくりと言った。
「水を飲むなら起きないと……」
気まずそうに目をそらして話す口調に恐怖や敵愾心は感じられない。
「言うことを聞かないとよくならないぞ」
その頬に手をあててこちらを向かせ、目を合わせて言い聞かせる。
口調は優しく諭すように、真面目な顔で心をこめて。
「ほら、水。 飲んで」
頭を撫ぜて、首と肩を片手で持ち上げてやりながらくちびるにコップをあててやると、ミスリアは少し不機嫌な顔をして水を飲む。
「子供じゃないわ」
ゆっくりとむせないように水を流し込んでやると、のどが渇いていたのか中ジョッキサイズのグラスを干した後も顔をあげずにつぶやく。
オレの言いなりになるのが嫌というよりは、どうも子供扱いが気に入らないらしい。
そのわりに表情はそれほど嫌がっていないので、嫌悪ではなく否定なのだろう。
「わかったから、今は休め」
グラスを口から離しそっと頭を枕に戻してやりそう言って、今度は頭ではなく頬をそっと撫ぜてやる。
「あ♥ ……っ!」
思わずというふうに甘い声をあげて、ミスリアは身体を震わせる。
そして次にそれに気づき頬を赤く染め、上目遣いに俺を睨んできた。
オレに警戒心を抱かないようにとかけた後催眠暗示が妙な具合に働いているのだろうか?
それとも気功で感覚が過敏になってしまったのか?
ミスリアの態度はオレの想定範囲を外れていた。
「子供扱いはしてないぞ」
怒りというよりも恥ずかしさを誤魔化すような視線を受け止めて言うと、ミスリアは目をそらしてしまう。
「……もう休むわ」
そして、そうつぶやくとそらしたままの目を閉じる。
催眠暗示が効いていないとしたら、大した演技力だがまずそれはなさそうだ。
無意識の肉体的反応までは演技ができない。
後はあらかじめミスリアに暗示が与えられていた可能性だがこれは否定できない。
オレは暗示に関しては軽くかじった程度だ、オレの専門で言えばできあいのツールを使ったアマチュアハッカーといったところだ。
腕利きには容易く出し抜かれてしまうレベルでしかない。
ミスリアにオレを陥れようというつもりはないにしても、ミスリアになってしまった女がどうかは判らないのだ。
彼女が自分の意志でミスリアになることを受け入れたのかどうかは判らない以上、当分は油断しないほうがいいだろう。
しかし、だからといってミスリアを放っていくという選択肢は選べない。
彼女がオレと同じこの顛末の被害者にしろ、オレをこんなめに遇わせたやつらの仲間にしろ手がかりには変わりがないからだ。
オレがミスリアの住むこの小屋のそばで目覚めたのは、偶然ではない。
そこになんらかの意志がある以上、オレがその状況に変化をもたらすことでなんらかのリアクションがあるはずだ。
それがどういうものであるかは、解らないが……。
「…………!!」
今の状況について思案しているとミスリアから妙な気配がした。
息を詰めて何かに耐えているような気配だ。
痛みなのかそれとも何かの衝動か?
オレは全身の力を抜き、何があってもいいように決して身構えずに待つ。
3分、5分、ゆっくりと時間が流れていく。
何が起こるでもなく、ミスリアは何も言わずただ身体を細かく震わせ始めた。
「……? どうかしたか?」
10分に届く前にオレはふと気づいたようにこちらから誘いを掛けてみた。
「………………トイレ」
長い長い逡巡のあと小さな声がそう言った。
「ああ、気づかなくて悪かった」
オレは謝って立ち上がる。
用心なんてのはこんなものだ。
ただ無駄を許容して、来なければいい何時かを待つ。
こうしてオレは自らが招いた事態の責任を取ることになった。
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