第516話 第1章 3-2 ラクティス
「ほら、顔を洗いなさあい」
スティッキィがカンナの荷物からタオルとして使っている布を出してくれた。カンナはモソモソと口を濯ぎ、顔を洗ってタオル布で拭く。湯を飲み、保存肉をかじり、乾パンもモソモソと口の中で噛み続ける。
「どうした、ねむれなかったか?」
ウォラが石炭めいて真っ黒な眼をむけてきた。
「いえ……そういうわけじゃないんだけど……なんだろう……変な夢を……」
ウォラの眼が細くなった。
「どんな夢だ? ウガマーの夢でも見たか?」
「そう……だったような、そうじゃなかった……ような……」
「なにか、調子が悪くなったらすぐに私へ云うのだぞ」
「え? う、うん……わかった」
ウォラが云っていることが何を意味するのか、ライバとスティッキィも分かりかねず、黙ったまま、見合うだけだ。
そして二人とも、ラクティスで宿に入り個室を与えられたならば、二人で確認することがあった。つまり、
「どこまでカンナについてゆくのか」
と、いうことだ。
おそらくウガマールでは、これまでとは比較にならない事態が待ち受けているだろうことは、なんとなく想像できた。わざわざ、
ライバは、デリナよりの指令であるから、カンナを護るため、どこまでも補佐するつもりだった。が、自分の生命を懸けてまでか、と云われると、ちょっと微妙だった。自分のできる範囲で、ということになるだろう。
しかしスティッキィは、一度死んだ……姉に殺された身であるし、いま生きているのは、なにかのついでという心構えだった。そういう意味で、彼女の精神はいまだに虚無に傷つけられている。自分でも気づいていないが、そこを埋めてくれたのがカンナ……カンナの人知を超えた、恐怖すら感じさせるガリアの強さだった。憧れとか、そういうのではなく……純粋にその神のような強さに惹かれた。そんなカンナの世話をすることに心の充足すら感じている。スティッキィは生命を惜しまず、カンナへつくすことへ生き甲斐を感じ始めていた。従って、どこまでも……地獄の底だろうと神の国だろうと、ついてゆくつもりだった。
朝からしばらく歩くと、向かって右側がサラティス方面、左側がラクトゥス方面の三叉路にでくわす。もちろん左折する。
サティス内海を進行方向へ向かって左側に見やりながら、丘陵地帯を西へ向かってひたすら歩く。途中、二日もするとタービノ村への分岐点が現れる。サラティスの重要な食料供給基地のひとつで、三年ほど前に竜に襲われ、いったんは壊滅したが、支度金をたっぷりと弾んで入植者をつのり、復興している。派遣するバスクや衛兵の数を三倍に増やし、それらも半農半兵として農作業を手伝っているので、復興するのは早く、以前にまして収穫量もあった。
早朝には、そこからの物売りもあったが、カンナたちが通ったのは午後だったので、閑散としていた。そのまま通りすぎる。
特に竜も現れず、盗賊も出なかった。もっとも隊商ではなく、見るからに女の数人旅……ガリア遣いの集団を襲う酔狂な賊もいないだろう。気がつくと、ちゃっかり十人ほどの小規模隊商がつかず離れずついてきている。護衛として便乗しているのだろう。じっさいに襲われたときに助けてくれるかもしれないし、そもそも、このように襲われない。本来であれば、カンナたちを金を払って雇うところだ。
結局、サティス内海をラクティスへ向かって行く船、またラクティスよりサランテへ向かう船は、一度も見かけなかった。歩きに変更して正解だった。あのまま宿に入っていたら、今頃まだ船を待っていた。
やがてサランテの三倍ほどの規模の港湾都市が、丘の向こうに見えてくる。ゆるやかな坂を下り、ウガマールの港湾衛星都市ラクティスに街道が行き着いた。内海へ向かって細い天然の洲が伸びており、帝国時代の頑丈な建築物が堤防兼防波堤となっている。その向こうが外海大洋で、サティス内海とは色も違い、波もまるで異なる。内海は薄い青色に輝いているが、外海は重く鉛色に暗く蒼い。波は、内海の数倍は白波がたっている。スティッキィとライバは生まれて初めて大洋を見たので、度肝を抜かれ、絶句した。あんな場所を船で進めるというのか。
「いやあ、揺れるよお。天地がひっくりかえるみたいに。胃が口から出てくるかっていうくらい吐くよ」
パーキャス諸島
口をひん曲げ、ライバとスティッキィが顔を合わせ、肩をすくめる。四人はラクトゥスへ入り、ライバが宿を捜し、残りは港湾局へ出向き、船の状態を調べた。
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