ブリギッテの涙――ヘッセ作「春の嵐」の思い出
世間一般ではヘッセと言えば、思春期の少年たちの友情と悲劇を描いた「車輪の下」であり、「春の嵐」はノーベル文学賞受賞の契機となった作品とはいえ、日本ではあまり話題にされないように思う。
しかし、私が中学生時代に読んで深く印象付けられたのはこちらの作品だ。
概要を説明すると、この話の男主人公は音楽家を志す青年クーンで、淡い恋心を抱いた相手と橇遊びをして事故に遭い、片足が不自由になってしまう。
その後、苦しみの中から音楽家としての頭角を現す一方で、破滅的なオペラ歌手のムオトと友情を結ぶ。
そして、運命の女性ゲルトルートに出会うが、彼女はクーンの愛を優しく拒否してムオトと結婚してしまう。
だが、高潔なゲルトルートと結ばれても破滅的なムオトの気性や苦悩が変わることはなく、結局、彼は自殺してしまう。
未亡人となったゲルトルートと音楽家として名を成したクーンは穏やかな友人として付き合っていく道を選ぶ。
この話のテーマは「芸術家の苦悩」といったものであり、苦しみの中から音楽家として大成していくクーン、オペラ歌手としての苦悩から死に向かうムオト、そして美しく高潔で芸術にも理解が深いゲルトルートの三人が中心人物と言える。
クーンの友人のタイザーやその妹のブリギッテは「善良だが平凡な人々」という位置付けだ(ただし、タイザーも一応はプロのバイオリニストだ。歌手としてのムオトを『拙い歌手だ。甘やかされた男さ』と突き放すのは彼にも音楽的な資質や修練が備わっているからこそ下せる評価と言える。タイザーが作曲家のクーンやオペラ歌手のムオトより平凡な人間として作中で扱われているのは、書き手のヘッセの中に『楽器の演奏家、特にオーケストラの団員は飽くまで与えられた曲を忠実に弾きこなす職人であり、作曲家や俳優より本人独自の芸術的感性は乏しい』という蔑視があったからではないだろうか)。
ちなみに、ブリギッテは当初は片足の不自由なクーンとの交流を煩わしく思っている様子が見えるものの、次第に彼に惹かれるようになり、彼の意中の相手が自分も敬愛するゲルトルートであることを知って涙する、可憐だが未熟な少女といった役回りだ。
「春の嵐」のラストでは、「美しく快活なブリギッテは心の傷が癒えるのを待って別の音楽家と結婚したが、最初のお産に失敗して亡くなった」とその死が記されている。
「男主人公に恋して苦しむ可憐な少女」というキャラクターは、同じドイツの「ファウスト」に登場するグレートヘンを連想する。
彼女を熱愛する兄と二人で暮らしている設定もグレートヘンとブリギッテで共通する。
最大の違いはグレートヘンがファウストと現実に男女の関係になって私生児を産み、その子を殺して刑死するのに対して、ブリギッテはクーンとは飽くまで友人のままであり、失恋はしても社会的な破滅や転落までは迫られない点だろう。
ヘッセとしても「ファウスト」のなぞりは避けたかっただろうし、男性としてブリギッテの身体までは踏みにじらないクーンの誠実さを強調する展開を取ったと推察される。
むろん、男女の関係にはしないことで、
「クーンにとってのブリギッテは、ファウストにとってのグレートヘンほど大きな存在ではない」
と物語の中でのブリギッテの影響力を矮小化する意図もあったはずだ。
しかし、「男主人公以外の男性と結ばれて母親になろうとした矢先に命を落とす」という最期には、産み落とした子供共々抹殺されるグレートヘンに通じる痛ましさが感じられる。
私生児を生んだグレートヘンの悲劇はゲーテの生きた、中世の空気がまだ根強く残る十九世紀初頭ドイツの社会が生み出したものだ。
ブリギッテの夭逝はヘッセの生きた二十世紀前半のドイツでも医療技術等の未熟さから妊娠・出産で命を落とす女性が珍しくなかった現実を反映してもいるのだろう。
だが、物語としては
「クーンへの失恋から立ち直ったブリギッテが他の男と結婚して母親になり、クーンやゲルトルートとは無関係な所で平穏に暮らす」
という結末にしても良さそうに思える。
しかし、ヘッセは彼女を飽くまで「男主人公に叶わない恋をする可憐な少女」のイメージに留めたかったようである。
そこにはクーンとは異なって五体満足、健康で快活なブリギッテに少女から大人の女性として母親になれずに死ぬ運命を与えることで「生の儚さ」を印象付ける狙いもあっただろう。
クーンに愛されて生き続けるゲルトルートと比べても、外れクジばかり引かされた観のあるキャラクターだ。
中学生だった初読時、私は美しく神秘的なゲルトルート、彼女と結婚する前にムオトの恋人だったロッテなど大人の女性キャラは好きだったが、ブリギッテは好きでなかった。
「最初は露骨に面には出さなくても片足の不自由なクーンを疎ましく思ってたくせに音楽家として才能があると分かってきたら恋するなんて浅はかで嫌な感じ」
と思った。
クーンの意中の相手がゲルトルートと察知して馬車の中で泣く場面を読んでも、
「うざったい女」
「こんな幼稚な女の子、相手にされなくて当然」
と感じた。
常に理性的なゲルトルートはもちろん、ムオトの死後、泣きはらした顔で別れた彼の墓前に立つロッテの方がずっと女性として奥ゆかしく思えた。
しかし、大人になってからこの作品の名前を見聞きして真っ先に思い出すのは、馬車の中で泣き続けるブリギッテの姿だ。
背伸びして自分を特別な人間のように思いたがっていた頃にはクーンやムオトの芸術家としての苦悩や破滅的な生き方が崇高に見えた。
だが、今の私には選民意識や思い上がりの裏返しに思えてさほど惹き付けられない。
ゲルトルートのような理想化、美化された女性像もどこか白々しい絵空事に感じられる。
作者からも幾分軽んじられている、未熟で平凡な少女の直情な涙の方が、よほど血の通った生身の人の痛みを示しており、美しくすら思えるようになった。
*monogatary.comのお題「わたしの好きな小説」から起稿した文章です。
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