私を作った漫画たち(五)あさりちゃんとまる子ちゃんの思い出
一般によほどの漫画ファンでもなければ、一番好んで漫画を読むのは小学生、特に中高学年の時期ではないでしょうか。
小学校の低学年だと吹き出しの台詞は読めても状況が理解できなかったり、逆に中学生以上だと漫画という表現そのものに距離を置いて眺めたりして、純粋に内容を楽しむのはなかなか難しい気がします。
それはさておき、私が小学生だった平成初頭は「ぴょんぴょん」「りぼん」「なかよし」「マーガレット」といった少女漫画雑誌が今より多くありました。
しかし、両親は漫画も掲載されている学年誌を定期講読で買い与えてはくれても、純粋に漫画に特化した分厚い雑誌を子供たちが頻繁に買うのは良しとしませんでした。
はっきり禁じられた訳ではありませんが、
「漫画雑誌なんて低俗なものを買うのはお金の無駄遣い」
という空気を特に母親からは感じました。
今でも多少そうした見方はありますが、平成初頭、バブル前後の時代は、
「活字の小説と比べれば漫画は子供向けの幼稚な表現」
「小説家は文化人の括りでも漫画家は賎業」
という漫画や漫画家への蔑視が露骨にありました。
そういう訳で、私は学年誌以外では特別気になる漫画の単行本を個別に買って読むのが一般的でした。
結果、単行本を複数冊買ったのは室山まゆみさんの「あさりちゃん」とさくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」でした。
「あさりちゃん」はもともと学年誌に掲載されていて気に入った作品ですが、「ちびまる子ちゃん」は先にアニメを見て興味を引かれ単行本を買うようになりました。
「ちびまる子ちゃん」が掲載されていた「りぼん」自体は、多分、一回買ったか買わなかったか位の話です(ですから、コラボレーションした岡田あーみんさんの『お父さんは心配症』位しか同時期に『りぼん』に掲載されていた作品は知りません)。
それはそれとして、「あさりちゃん」と「ちびまる子ちゃん」には小学校中学年の妹と高学年のお姉ちゃんの二人姉妹という設定等、共通する特徴があります。
どちらの作品にも「優等生のお姉ちゃんに出来の悪い妹が劣等感を覚える」エピソードが繰り返し出てきます。
拙作でもそうした二人姉妹がよく登場するのは子供時代に好んで読んだ「あさりちゃん」と「ちびまる子ちゃん」の影響です(実際の私には姉も妹もおりませんし、従妹たちとも年が離れていたせいもありさほど比較された記憶はありません)。
ただし、昭和四十年代の風俗に固定された「ちびまる子ちゃん」の世界に対して「あさりちゃん」の世界はリアルタイムに合わせて更新され続けた印象があります。
まる子ちゃんは連載開始当初から白いブラウスに赤いサスペンダー付きプリーツスカートの服装が半ばトレードマークになっています(ちなみにまる子ちゃんのようなサスペンダー付きのプリーツスカートを穿いている子は私が子供だった昭和末期、平成初頭にはもう見掛けませんでした)。
あさりちゃんの服装はそこまで固定的ではなく、それこそ毎回変わる印象です。
更に言えば、あさりちゃん姉妹のファッションは基本的にお洒落で、似たようなテイストでありながらタタミの方がもう少し大人びたデザインにしてあるという視覚的な工夫が凝らされています。
昭和四十年代の静岡県清水市という地方の子供たちであるまる子姉妹に対して、あさりとタタミ姉妹は子供の目にも明らかに「都会の子供」の装いでした。
まる子のお母さんは地方の中年女性という雰囲気ですが、さんごママは冬のエピソードではハイネックにトレンチコートを羽織るなど「都会の母親」というイメージです。
「あさりちゃん」では母親はもちろん主人公姉妹もダウンジャケットやレーススカーフなど小学生の女の子にしては明らかに大人びた服飾品を欲しがるエピソードが頻出します。恐らくは作者さんがファッションやデザインへの興味が強いのでしょう。
「あさりちゃん」では一家の住む家のリビングなどもモデルルームじみた小綺麗さで描かれており、「家計が苦しい」とさんごママがこぼす描写はあっても基本は都会の裕福な家庭のイメージがあります。
学年誌掲載の作品だけに本当の意味での貧しさや悲惨さは極力排除した一種のファッションページ的な画面作りを意図したのでしょうか。
「あさりちゃん」はコマ割なども鮮やかで全般にスタイリッシュな印象を受ける作品です。
一方、 「ちびまる子ちゃん」ではまる子が笑い袋やヨーヨーなど流行りの玩具を楽しむ描写は処々に出てきても、流行りの服飾品をやたらと欲しがる、着たがるイメージはありません。お姉ちゃんも然り。
まる子の母親も大事にしていたオパールの指輪を娘が無くして激昂するエピソードはありますが、普段は宝飾品で着飾る訳でもなく、そうした物をやたらと欲しがる描写はありません。
これも恐らくは作者のさくらももこさんやモデルになったご家族が服飾品にさほど拘る質ではないからだと察せられます。
ただ、まる子一家が住む家自体はごく平均的な住宅で、作者さんが「うちはびんぼう」など別の自伝的作品で主張されるほど貧しい印象は受けません。
話は少しずれますが、1965年生まれのさくらももこさんは短大まで進学して東京の出版社に就職しており、これは同世代の女性の中でも恵まれた部類の経歴です。
「うちは貧乏」というのはお金持ちのお嬢様だった親友のたまちゃんなどと比較しての話であり、地方の一般家庭としてそこまで貧しかったかは疑問です。
前掲の「夕焼けの詩」に登場する昭和三十年代の子供たちと比べても、「ちびまる子ちゃん」に出てくる昭和四十年代後半の子供たちは総体として格段に裕福になった観があります。
もちろん、母親が働きに出ている藤木の「鍵っ子」としての侘しさが描かれるエピソードもありますが、母子家庭になった貧困から弟たちが次々養子に出される「夕焼けの詩」の正ちゃんほどの痛切さはありません。
「ちびまる子ちゃん」のエピソードは基本的に日常のちょっとしたイベントを飽くまでユーモアを交えてほのぼのと描くものであり、そこには高度成長期を経て豊かになった日本の地方ののんびりした空気が根底にあります。
アニメシリーズが未だに継続しているのもそうした余裕ある時代への愛惜が根強く残っているからでしょう。
さくらももこさんは昨夏、若くして逝かれましたが、早い死が惜しまれます。
「あさりちゃん」に話を戻すと、この作品は主人公一家はギャグタッチで描かれているものの、脇筋の美形キャラクター、特に美少年キャラは本当に綺麗に描かれるという特徴があります。
あさりちゃんはさておきタタミちゃんは結構惚れっぽい性格で美少年に片思いしてアプローチしようとする(けれど大抵あさりちゃんにメチャクチャにされる)エピソードもしばしば出てきます。
ただし、美少年キャラでも性格が悪かったりあさり姉妹をバカにしたりするタイプだと、
「お高く止まんなよ(ボカッ)」
とあさりちゃんから殴られて終わるような悲惨なオチになります。
そんな美少年キャラが登場するエピソードでも異色で印象に残っているのは以下のものです。
この話は病院の小児病棟で床に伏せっている少年本人のモノローグで始まる。
「僕の世界はベッドも壁も真っ白」
「お父さんお母さんは忙しくてたまにしか来てくれません」
といった調子で長らくこの病棟にいるらしい彼の孤独が綴られる。
ある日、病室の窓の外から少年に聞こえてきたあさりの元気な声。
「真っ白な僕の世界に色が入ってきた」
「どんな子だろう、きっと全身に鮮やかな色が着いているような子だ」
という調子で今度は彼の幸福感が描かれる。
視点が切り替わって、病院の外にいるあさりに病棟の窓から笑顔で手を振る少年の姿が目に入る。
「えへへ、綺麗な男の子だったよね。こんにちはー」
病室を訪れて挨拶するあさり。
しかし、ベッドの少年は目を閉じており何も応えない。
あさりとタタミの会話。
「生まれた時から脳性麻痺で口も利けない子だったんだって」
「友達が欲しかったんだろうね」
「“かった”じゃなくて、あさちゃん、もう友達だよ」
片付けられた空のベッドに涙ぐむあさりとやりきれない表情で後ろに立つタタミのカットでこの話は終わっています。
いつものようなギャグ的なオチではなく、生前は一度も言葉を交わすことの無かった少年を悼むあさりの涙で幕切れ。
学年誌で読んだ時にとても悲しかったので覚えています。
この少年キャラの名前は劇中で一度も出てこないのですが、彼の方でもあさりの名前も知らずに息を引き取る、そうした演出もやりきれなさを増幅させています。
大人になって奇しくも二人の娘の母になり、さんごママやまる子のお母さんの年配になりました。
だからこそ、「あさりちゃん」や「ちびまる子ちゃん」を夢中で読んでいた時の気持ちを忘れてはいけない気がします。
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