百合の花から

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは美人の一挙一動を褒め称える日本の慣用句である。


 このうち、芍薬、牡丹は、一般には「しゃくやく」「ぼたん」と音読する名前や色鮮やかな多重咲きの花容にも表れている様に純日本風というより中国的な印象がある。


 加えて、そこから連想される女性の美もどこか中国的な自我の強さや毒を含んだ色香といったものが見える。


 また、いずれも「立つ」「座る」という静止した状態で形容されており、そもそもこの二つ自体に非常に似通った印象がある。


 最後の百合だけが、すらりとした草の上に清楚な一重咲きの花を咲かせている点で異色である。


「百合」と書いて「ゆり」と柔らかに読ませる名前もいかにも和風の花という感触だ。


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉を見聞きするたびに、一番強調したいのは実は百合の美なのではないかという気がする。


 慣用句の中での役割に着目すると、観賞用植物の性格の強い芍薬や牡丹と比して、百合は野山や湿地に自生して微風に揺れる印象が強いため、「歩く」という動的なイメージが付与されたと思しい。


 芍薬や牡丹が庭で大事に育てて見入るのに適した花だとすれば、百合は野山に出向いて行ってその姿を垣間見るのが相応しい花である。


 もっと突っ込めば、芍薬や牡丹よりも百合の方が日本人の自然や日常に根付いた花だったと言えよう。


 これは前にも書いたかもしれないが、私にとっても百合は一番好きな花の一つだ。


 特に、郷里の山の斜面に咲く山百合を見かけるとそれだけで気持ちが華やいだし、夏休みに家族でドライブに出かけて山道に山百合が咲いているのを見つけると、「あ、ここにも一つ」「こっちには二つ咲いている」といつも無意識に数えていた。


 小学生の頃、地図帳で日本全国の都道府県の花を確認して、福島の県花がネモトシャクナゲ、神奈川の県花が山百合だと知った時も、

「福島だってネモトシャクナゲより山百合の方がよく見かけるのにどうして?」

 と不満を覚えた記憶がある。


 今でも「百合」と聞いて、また文字で見て、まず浮かぶのは地元の山の麓に咲いていた山百合の花だ。


 青緑の竹林を目にすると、一節だけ光る竹など有り得ないと分かっていてもじっと見入って吹き抜ける風の音に耳を傾けたいと思ってしまう。


 それと同じくらい、夏を迎えた山の緑の中に、白い花弁に黄色の筋と赤い斑点の入った花が揺れている様子を見かけると、立ち止まっていつまでも眺めていたくなるのだ。


 いずれも山に囲まれた内陸部で育ったからこそ自分の中に根付いた光景なのだと思う。


 更に言えば、盆地特有の夏の蒸し暑さに苦しめられたからこそ、竹林や山百合の清涼な佇まいに惹かれたのだとも感じる。


 同じ夏の花だと向日葵ももちろん魅力的だが、日差しを浴びて黄色やオレンジの花を咲かせる姿を見ると、むしろ暑さを演出するイメージになる。


 朝顔の花も爽やかだが、鉢植えにして人があれこれ世話を焼いてやらなければならない印象が生じる。


 山百合には自然の中に涼やかに自生して目を楽しませてくれる神仙じみた気配があるのだ。


 話は変わって、香港俳優の張國榮(レスリー・チャン)のファンになってから、彼の好きな花も百合だと知って何となく嬉しかった記憶がある。


 むろん、亜熱帯の港湾都市である香港で育った彼の想定する百合は日本の山百合ではなかっただろう。


 実際、彼の葬儀で遺影を囲むようにして飾られていたのは恐らくはカサブランカと思われる真っ白な百合だった。


 故人が愛した花でもあり、また、中国では白は葬儀の色なので純白の百合が選ばれたと思しい。


 それまでは山百合の次は無地の白い百合が好きだったし、それは今も変わっていないけれど、レスリーの死後に大輪の白百合を目にすると、清楚さや清純さよりも「空白の白」を感じずにいられなくなった。


 さて、百合、特に白百合には西洋では処女性や純潔の象徴とされ、聖母マリアの処女懐胎を描いた絵には告知の天使がこの花を携えた姿で登場しているのが通例だ。


 日本では女性同士の同性愛を指す隠語として「百合」が使われるが、これは「男性目線で女性同士の性愛ならば当事者たちの処女性や純潔は保持される」という感覚を前提にしているようにも思える。


 あるいは、処女懐胎が男性との関わりを前提として排除して成立しているように、女性同士の同性愛も男性にとっては閉じた関係性であるので、そこに共通性を見出して「百合」と形容しているのかもしれない。


 ちなみに、隠語としての「百合」のウィキペディアを参照すると、もともとは男性同士の同性愛者向けの雑誌「薔薇族」の中で男性同性愛者の「薔薇族」に対して女性同性愛者を「百合族」と名付けたのが始まりだという。


 冒頭の慣用句にも見られるように日本では従来美しい女性を「百合」になぞらえる発想に加えて、男性同性愛者が真っ赤な薔薇のイメージであるのと対応させる形で女性同性愛者は真っ白な百合の形象を与えられたとの見方もあるようだ。


 そもそも真紅の薔薇自体も西洋では艶かしい美女をイメージさせる花であり、それを敢えてグロテスクな印象に貶められがちな男性同性愛者に当てはめた感触が強い。


 残る同性愛者のもう一派であるレズビアンたちには純潔な美(少)女を象徴する白百合が振り当てられたのは、「ゲイほど世間の攻撃や排斥を受けない安全圏にいる」という男性同性愛者たちの微かな皮肉も込められているようにも思える。


 植物としての百合の特質にもう少し着目すると、清楚な花容に対して香りは強く生々しいので、その点で嫌う人も少なくない。


 姿はさておき香りに関しては、むしろ薔薇の方が百合より好まれやすいように思う。


 異性愛がスタンダードの社会において、同性愛や同性愛者は粘着質な嫌らしさの纏い付いたイメージを持たされやすく、また、「女性の方が男性より陰湿だ」という固定概念も根強くある。


 女性同士の同性愛に「百合」という隠語を当てはめるのは、百合の生々しい香りと「淫靡で陰湿な関係性」のイメージを重ね合わせている面も否定できないだろう。


 話はまた変わって、西洋伝来の「薔薇」はさておき日本に古来からある「百合」は「百合子」「小百合」といった女性名に使われやすい。


 また、これらの名前にも「清純、高貴な美女」といったイメージが喚起されやすいように思う。


 女優の吉永小百合は少女時代にデビューしてから還暦を過ぎた現在に至るまで「清純派」の代名詞的な存在だが、「小百合」という名前がまず「清純な美少女」というイメージに貢献した側面は否定できないだろう。


 同世代でよく比較された栗原小巻は「ちょっと変わった名前だな」という印象が先に来る。


 吉永小百合にあやかって「さゆり」が後出のポルノ女優の芸名や水商売の女性の源氏名によく使われるようになったらしいのに対して、「こまき」は栗原小巻本人しか連想されない、正にオンリー・ワンのイメージがある。


 一個の芸名としてはむしろその方がインパクトがあって良いのかもしれないが、裏を返せば、「小巻」には「小百合」ほど一般性がないのである。


 このほど都知事に当選した小池百合子氏も「百合子」という名前の響きに品の良さや清新さを感じた人は多いだろうし、そうしたネーミングは政治活動をする上で大なり小なり有効だったはずだ。


 桐野夏生の代表作の一つである「グロテスク」では語り手の妹として「ユリコ」(=百合子と置き換えられる)という絶世の美女が登場し、名前に反して病的な男性遍歴の果てに転落し非業の死を遂げるという皮肉な運命を辿る。


 しかし、「ユリコ」の死後、その面影を持つ息子の「ユリオ」(=百合男)を引き取った語り手は彼に支配される立場になる。


 いわば、「ユリコ」の圧倒的な美が語り手の運命ばかりでなく物語全体を動かす力になっている(余談だが、作者の桐野夏生は一九五一年生まれ、小池百合子が一九五二年生まれで同年配に当たる。桐野夏生の本名も『橋岡まり子』で『ユリコ』と似通った響きの名前であり、この世代は『子』の付く女性名が一般的だと言える)。


 なお、「美人過ぎる市議」として注目された八戸の女性市議は「藤川優里」で字面は異なるものの名前は「ゆり」であり(選挙ポスターや公式サイトでは『藤川ゆり』と記載されている。なお、小池百合子氏も公式サイトのトップでは『小池ゆりこ』と名前の部分をひらがなにしている)、姓の「藤」とあいまって実に華々しい名前である。


 百合はやはり芍薬や牡丹、あるいは薔薇と比べても、日本人女性の美と親和性の高い花のようだ。


 話は再び変わって、先日、相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で二十六歳の元職員男性が十九人の入所者を殺害し、二十六人に重軽傷を負わせる事件が起きた。


 戦後最大レベルの大量殺傷事件だ。


 のみならず、「障害者は安楽死させるべき」との犯人の供述から障害者に対するヘイトクライムであることは明らかである。


 この事件そのものも凄惨だが、ネット上で犯人に共鳴する声が少なからず見られたことも人心の荒みを感じさせ、現在新しい命を宿している自分としては非常に寒々しいものを覚えた。


 今、お腹の中にいる子供が健常者で生まれてきてくれるとは限らない。


 五体満足で育っている二歳の上の娘も、これから何らか障害を負わないとは言い切れない。


 こう書いている私自身も、今日にも事故か病気に見舞われて障害者になるかもしれないのだ。


 それは障害者を殺傷した犯人や共鳴する人々も変わらないと思うのだが、何故、健常者にはそれだけで障害者の生死を決める権利があるかのような意識が見られるのだろうか。


 少し前ならば、こうした態度を表に出すこと自体が憚られる空気があったと思うのだが、今は露骨に出す人が珍しくなくなった気がする。


 この事件の報道では通常の殺人事件と異なり、被害者の姓名・顔写真など個人情報が一切伏せられたことも印象深い。


 亡くなった被害者をまるで晒し上げるかのように顔と名前を繰り返し流すいつもの報道が果たして良いかはさておき、健常者と障害者とでは明らかにメディアでの扱いが異なるのだ。


 惨事の起きた施設は恐らく前述した神奈川の県花にちなんで「やまゆり園」と名付けられたと思しい。


 自然の中で清らかな花を咲かせる山百合の名を冠しておきながら、その実、人同士の悪意や荒廃を浮かび上がらせる事件の舞台になってしまったのは皮肉である。


 最後にもう一つ、山百合絡みのニュースを取り上げると、福島の二本松では、自生の山百合に蕾が一〇三個もあるものが発見され、土地が土地だけにネット上では「原発事故による土壌汚染の影響ではないか」と危惧する反応が起きている。


 このニュースを報じる記事の写真には花が付き過ぎて巨大なヒヤシンスのようになった山百合が重みに耐えかねる風に傾いた状態で映っており、私としても異様な印象を受けた。


 単なる一個体としての突然変異なのか、それとも、根ざした土壌の異常を知らせているのか。


 こちらの山百合についても続報を待ちたい。

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