「キヨハラくん」の肖像(五)スター選手たちを巡るメディアの目線

 それはそれとして、漫画「キヨハラくん」は主人公二人がセ・パ両リーグのチームにそれぞれ在籍しているため、オールスターさながら当時のプロ十二球団の関係者が入れ替わり立ち代わり登場する展開になっており、その意味では両リーグが平等な位置付けにある作品であった。


 なお、パ・リーグの常勝軍団だったライオンズに対してやや弱小な観が否めなかった近鉄バファローズとオリックスがその一話限りで合併する回など、数年後に現実(二〇〇四年の球界再編により二球団は合併し『オリックス・バファローズ』誕生)になったギャグもあり、この辺りも清原氏逮捕時にネットでは話題になった。


 ただ、個人的には大人の作者の視点から球界や野球人を皮肉ったギャグが印象に残っている。


「世界が誇るホームラン王だけれど監督になったら全然ダメ」と掲載当時に巨人の監督だった王貞治氏を揶揄する描写などは、むしろ彼の現役時代を知る大人にこそ通じるものだろう。


 また、一九九〇年からヤクルトスワローズの監督が優しいおじいちゃん風に描かれていた関根潤三氏から陰謀家風の野村克也氏に代わった時のエピソードも印象に残っている。


 当時のヤクルトの主力打者は、フルスイングのバッティングが特徴的で当たれば飛ぶ代わりに三振も多かったことから「ブンブン丸」という愛称が付いていた池山隆寛氏。


 彼に対し、新監督から「打つべき球を見極めてからバットを振れ」との使命が出る。


 結果、三振も減り、打撃成績は上がったものの、池山氏は思い切りバットが振れないストレスからやつれてしまい、監督の厳しいチェックのない打席以外の場所では空ろな表情で素振りし続け、「あいつはおかしくなったぞ」と周囲からも囁かれる。


 これはギャグマンガのキャラクターとしては池山氏が明るく豪快な「ブンブン丸」でいてくれた方が使いやすいという事情もあるが、大人の野球ファンの目線で選手の個性が失われてしまう現象を嘆いた描写でもあろう。


 なお、「キヨハラくん」以外の野球漫画でも、一九八〇年代末から一九九〇年代前半に掛けての時期は、ヤクルトの選手といえば「ブンブン丸」こと池山氏、同じく主力打者だった「トラ」こと広沢克己氏、エース投手だった「ギャオス内藤」こと内藤尚行氏、そして、このチームでキャリアスタートした「ミスターのジュニア」こと長嶋一茂氏が目立ってギャグのネタにされるのが通例だった。


 特に、池山氏と広沢氏は共にチームの主砲として「イケトラコンビ」と呼ばれていたせいもあってか、華奢なキツネのように描かれた池山氏とでっぷりしたトラ風の広沢氏は大抵二人セットで出てきた(実際の二人の写真を見ると、池山氏が野球選手、特にホームランバッターとしては例外的に細身だっただけで、広沢氏がそこまで肥っていたわけではない)。


 同じく主力選手でファンからの支持が厚くても、古田敦也氏は漫画の中に登場はしてもそこまで目立った扱いはされなかった記憶がある。


 これは古田氏がキャッチャーでプレー中は基本的に顔を隠すポジションだったことに加えて「古田」と言えば球界ではそのまま彼を指したために目立ったニックネームも付かず、また、本人の人となりとしても眼鏡を掛けた風貌と相まって老成した印象が強かったので、ギャグ漫画のキャラクターとしては使いづらかったためと思われる。


 古田氏が一九九〇年代後半からプロ野球選手会会長として球界の顔となるばかりでなく、二〇〇〇年代にはヤクルトの選手兼監督を務め、最終的には「ミスタースワローズ」とも称された事実に鑑みると、何とも皮肉である。


「キヨハラくん」及び同時代の野球漫画で盛んに取り上げられ、その後も毀誉褒貶を含めてプロ野球界の顔であり続けてきた人物と言えば、落合博満氏が挙げられるだろう。


 私の中で、落合氏は中日ドラゴンズの主砲だったイメージが一番強い。


 ウィキペディアを参照すれば、選手としては三十代半ばから四十歳までドラゴンズに在籍し、実年齢としては彼よりもっと年長の現役選手がいなかったわけではないが、当時はテレビで彼を目にする度に、

「この人、監督じゃなくて選手なの?」

 と漠然とした違和感を覚えた記憶がある。


 野球中継で遠巻きに写した体型一つを取っても二十代の清原氏や桑田氏と比べると落合氏は中年太りして見えたし、風貌を見ても「選手」ではなく「監督」または「コーチ」に相応しく見えた。


 当時、ドラゴンズの監督だった星野仙一氏が四十代で監督としては若く体型的にも大きく崩れていなかったせいもあり、野球中継で落合氏とベンチで並んで自軍の攻撃を見守る様子が映ると、「我の強い監督が二人いる」印象になった。


 実際、当時のプロ野球を扱ったギャグ漫画では、ドラゴンズのネタは大抵この二人に関するもので、かつ「鉄拳制裁も辞さない鬼監督と『オレ流』を通そうとする気ままな四番バッター」という取り合わせで描かれるのがデフォルトだった。


 前述したように野村克也氏も夫人がしばしばメディアに露出して物議を醸したが、落合氏もドラゴンズの現役時代から夫人や一人息子の長男がたびたびメディアに登場した。


 落合氏本人が敢えて挑発的な言動をする傾向が強かったせいもあって、マスコミからは一家で冷笑的な取り上げ方をされる場面も少なくなかった。


 これにはもちろん本人たちの人となりのせいもあるが、落合氏が中日ドラゴンズの主砲だった時期にちょうどジャイアンツの四番打者を務めていた原辰徳氏と比べてヒール的に貶める意図もあったように思う。


 なお、落合氏は原氏よりプロ野球の世界では二年先輩、実年齢では五歳年長である。


 ウィキペディアを確認すると、落合氏はそもそも二十五歳と野球選手にしては異例に遅い年齢で、しかも、ロッテのドラフト三位というマスコミ的な注目度・期待値が決して高いとは言えない位置付けで一九七八年にプロ入りしている。


 これに対して原辰徳氏は高校時代からアイドル的に注目されていた選手だったようであり、大学野球でも活躍し、一九八〇年に四球団競合の末、栄えある巨人のドラフト一位で入団。


 端正な風貌と「ONの後継者」という意味合いを兼ねて「若大将」と仇名された。


 このスタート地点だけを見ても、落合氏と原氏の間にはメディア上の扱いに既に大きな格差があったと知れる。


 しかし、落合氏はそんな格差を手にしたバットで叩き壊すように躍進し続け、一九八七年に中日ドラゴンズに移籍してからは、同じセ・リーグの強打者として原氏と争う格好になった。


 さて、現役時代の原氏は「(巨人の四番でありながら)打てない・当たらない」と揶揄されることが多かったと記憶している。


 これは、そもそもONや張本氏の後を継ぐ巨人の四番バッターとして期待値のハードルが異常に高かったことに加えて、途中から落合氏のような名スラッガーと競り合う状況に置かれた影響が大きいと思われる。


 ただし、現役時代の原氏は「四番バッターとしてはやや物足りない」という方向で批判されることはあっても、人格や言動を攻撃されることはほとんどなかった。


 監督になってから女性問題や子息の起こした問題が報じられたことはあったが、少なくとも現役時代は「チームの和を乱す不良分子」「監督やチームメイトに対して反抗的・横暴だ」といった非難を浴びることはなかった。


「キヨハラくん」に登場する現役時代の原氏も「影が薄い」と腐されつつも、基本は巨人選手たちの穏やかなリーダー格といった役回りだ。


 その点では「紳士たれ」という巨人軍の顔に相応しい人物として扱われていたと言えよう。


 なお、一九八〇年代に共にジャイアンツの打撃戦線を支えた中畑清氏が「絶好調男」、駒田徳広氏が「満塁男」と仇名されていたようだが、原氏の「若大将」というニックネームはその中で比較しても明らかに特別扱いされている感触を受けるし、この時点で既に引退後の布石が打たれていたようにも思える。


 天下の読売ジャイアンツにドラフト一位で入団し、長らく四番打者を務め、トレードに出されることもなく生え抜きの選手として現役人生を終え、長らく指導者も務めて甥まで入団させたのだから、原氏はONの後継者として十分に厚遇されたエリート野球人だったと言えよう。


 一方、落合氏は三冠王に繰り返し輝き、タイトルコレクターとでも形容すべき名打者であったにも関わらず、好調の時ですら「傲岸不遜」「言動が斜に構えていて品がない」といった批判が付いて回った。


 ドラゴンズ時代の一九九〇年に三十七歳で二冠王(本塁打王・打点王。ただし、首位打者は逃したものの、最高出塁率でタイトルを取ったので実質は三冠)になった際も、

「三冠王ではなかったのだから不作」

「口ほどにもない成績に終わった」

 と週刊誌に冷笑的な調子で書かれていた記憶がある。


 タイトル一つでも十分賞賛に値するはずなのに、落合氏に対してだけは「三冠王かつ所属チーム優勝でなければ認めない」という暗黙のルールが存在しているかのような扱いであった(実際にはロッテ時代から追って見ると彼が三冠を取った年でもチームはBクラスに終わっていたりするので、そこに野球という集団競技の複雑さというか、大打者とはいえ非常勝チームに所属した選手の立場の微妙さを感じざるを得ない)。


「オレ流」という言葉は落合氏本人が自分のやり方を形容するために言い出した言葉だが、メディア側がこの言葉を使う際には「独善的」「他の迷惑を顧みない」といった否定的な意味合いが多かれ少なかれ込められていた。


 話を落合氏の家族に戻すと、彼が中日の選手時代から、まだ幼かった長男がメディアに登場する際には、わがままな言動をしている様子をことさら強調して取り上げる傾向があった。


 長男の福嗣氏は一九八七年生まれ。

 父親がロッテからドラゴンズに移籍したその年に生まれ、ジャイアンツに移籍した一九九四年に七歳でやっと小学校入学、日本ハムで引退した一九九八年が十一歳で小学五年生。


 父親の現役時代には一人息子は中学生にもなっていなかった計算になる。


 その後、落合氏がドラゴンズの監督としてリーグ優勝を果たした二〇〇四年に福嗣氏もビール懸けに参加して問題になったが、この時点で福嗣氏十七歳、国士舘高校の二年生であった。


 ドラフト騒動の記者会見で人目も憚らずに泣いた清原氏が高校三年生で十八歳。

 それよりもまだ年少である。


 マスコミが「落合のワガママ息子」としてこぞって取り上げ続けたのは、そんな幼い少年の言動であった。


 むろん、幼い我が子をメディアに出していた夫妻にも責任はあるが、

「この父親の、夫妻の子だから、みっともない形で世間に晒し上げても構わない」

 というマスコミ側の悪意にはどうにも寒々しいものを覚える。


 これが原氏の息子だったら、同じ言動をしても果たして同じ取り上げ方をされただろうか


 原氏の息子も不祥事を取り上げられたが、これは飽くまで成人後の行状を報じたものである。


 長嶋一茂氏、野村克則氏といった名選手の子息がマスコミから冷笑的に取り上げられるケースは他にもあるが、彼らはいずれも成人後に自らの意思でプロ入りした結果、選手として振るわなかったために父親たちと対比する形で揶揄されたのである。


 もっと端的に言えば、一茂氏や克則氏は父親たちの往年の名選手ぶりを引き立てる役割を振り当てられたのである。


 福嗣氏の幼少時から続いた落合氏一家に対するマスコミの冷笑は、明らかにリアルタイムで名選手だった父親の落合氏の人格否定を意図している。


 あるいは、そうした取材する側の悪意を感じ取っていたからこそ、落合氏一家の方でも敢えてヒール的に振舞うようになったのかもしれないとも思う。


 福嗣氏は結局、高校時代の途中で野球は断念し、現在はタレント活動をしていることからして、成人した本人の中でもメディアに出る意欲が強いと言えるかもしれない。


 だが、メディアに出ることがどういうことかもよく理解していない時期から、顔と名前が世間に知れ渡り、しかも、そのイメージがネガティヴな面を強調したものであったことから、野球選手になる道が閉ざされた後は「落合の息子」としてメディアに出続ける以外の進路が取りづらかった側面は否定できないだろう。


「かっとばせ! キヨハラくん」では、ドラゴンズ選手時代の落合氏が妻子と共に出てくる描写があるが、夫人は「父ちゃん、しっかり打って稼がないと承知しないよ」といった調子で夫の尻を叩く恐妻であり、まだ幼い長男は初対面の「クワタ」に向かって「ヘンナカオ(変な顔)、ヘンナカオ」とおちょくる悪ガキ風に描かれている。


 マスコミが揶揄する一家のイメージをなぞったものと言えよう。


 ちなみに、「ミラクルジャイアンツ童夢くん」だと落合氏は主人公の小学生投手に対して、

「ぼうやの子供騙し」

 と言い放ち、魔球を打破する一種のヒールとして描かれている。


 ジャイアンツが官軍となる世界観においては、ドラゴンズの大スラッガーは夢のない敵役にならざるを得ないのだ。


 前述したように落合氏はその後、中日ドラゴンズからジャイアンツに移籍し、最後は日本ハムで選手人生を終えた。


 だが、指導者としてはドラゴンズの監督を八年務め、現在は同チームのジェネラル・マネージャーの職にあることからして、ドラゴンズとの繋がりが最も強かったと言える。


 私の中でも落合氏のイメージはドラゴンズの一員としてのものであり、また、「中日」あるいは「ドラゴンズ」と聞いて真っ先に浮かぶのは、ベンチに並んで自軍の攻撃を見守る星野氏と落合氏の二人の姿だ。


 これは、一九八〇年代末から一九九〇年代初期の野球中継を見ていた人にとって共通するイメージかもしれない。

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