好きにしてあげる

歌鳥

(全編)

   好きにしてあげる


 私たちが小五になった時、変化が起きた。

「……なにこれ」

 掲示板に張り出された表を見て、由佳里は呆然としていた。

「変だよ。おかしいよ、こんなの」

「……ばらばら」

 その隣では、舞が同じような表情で立ちすくんでいる。

 きっと、私も同じ表情をしていたと思う。

 それは一学期の始業式の朝。クラス分けの発表が、私たち三人の世界を大きくぐらつかせた。

 私は一組。舞は三組。由佳里は四組。

 小一から四年間、ずっと一緒だったクラスが、初めてばらばらになった。

「本当にばらばらなんだ……信じられない」

 私のつぶやきは小さすぎて、周囲のざわめきにかき消されてしまった。

「おかしいって。ありえないよ、こんなの」

 逆に、由佳里のひとりごとはだんだん熱を帯びてきた。

「こんなの許せない。あたし、先生に文句言ってくる」

「ちょっと由佳里ちゃん、やめなよ」

 我に返った私と舞で、どうにか由佳里を引き止めた。

 ――よく考えたら、私たち同じクラスになれる保証なんて、どこにもない。

 クラス分けは学年ごとに行われて、そのたびにクラスメートはばらばらになる。一年生から四年生まで、私たち三人が同じクラスになれたのは、ほとんど奇蹟みたいなものだ。

 ただ――私たちは、その奇蹟に期待しすぎていた。由佳里の言葉を借りれば、“運命”に。

「運命なのに」

 と、由佳里は未練がましく掲示板をにらみつける。

「三人一緒なのが運命のはずなのに。おかしいよ、こんなの……。運命に逆らうとは、おのれ先生のやつめ」

「そんな、ゲームのボスみたいに言わなくても」

「運命に逆らったら、バチがあたるよ。きっと、先生の靴に石が入って出てこなくなったり、直しても直しても靴底がべろーんってなっちゃったり、忙しい朝に限って靴下が片方見つからなかったりするんだよ」

「なんで靴関係ばっかりなわけ?」

 わけのわからない由佳里のぼやきをフォローするうちに、私も由佳里も、いつもの調子に戻ってきた。

「しょうがないね。きっと、今年はそういう運命なんだよ」

「む~。運命のやつめ……んなっ、ちょっと、舞ちゃん?」

 舞は由佳里の手を握って、反対の手で私の手を取った。そして私たちを手前に引き寄せると、三人の手を重ねあわせた。

「クラスばらばらでも、一緒だよね……?」

「当たり前じゃない、そんなの」

 深く考える間もなく、私はそう口走っていた。

「心配しなくっても大丈夫だよ。クラスが別でも、放課後とか休み時間とか、いつでも会えるんだから。ちょっと離れたくらいで、ダメになるわけないじゃない」

「そーそー。大丈夫だよ、舞ちゃん!」

 と、由佳里も続ける。

「ばらばらでも、ずっと一緒だよ。あたしたち、ずっと友達だから!」

「大丈夫大丈夫」

 私がそう繰り返したら、ようやく舞に笑顔が戻った。

 ――だけど実際には、あまり大丈夫じゃなかった。特に、私が。

 クラスがばらばらになって、休み時間に一緒に過ごすことが難しくなった。三人それぞれ、自分のクラスでのポジションを確保して、友達と呼べる存在を作った。

 でも、舞や由佳里みたいな友達はできなかった。なにかはわからないけど、なにかが違った。

 放課後は、一緒に過ごすことができた。でも帰る時間がずれたりとかで、会えないことも多かった。当時は三人とも携帯を持っていなくて、電話やメールで繋がることも難しかった。こうして、一人の時間が増えた。

 一人の時間が増えると、いろんなことを考えるようになった。いろんなことを考えているうちに、私は気づいた。私の、自分の家でのポジションについて。

 私は、両親に人見知りする子だった。

 父はそもそも、あまり家にいなかった。母はいつからか、そんな父を悪く言うようになっていた。

 二歳年上の姉は、母の味方をした。二人はよくキッチンで楽しそうに話していたけど、その内容は父の悪口だった。私はその会話に加わるのが嫌で、家ではいつも部屋にこもっていた。

 放課後を一人で過ごす日には、家に帰るのが嫌だった。矛盾してるけど、由佳里や舞と遊んだ日よりも、一人の日の方が、帰宅が遅くなった。

 母は、私の帰りが遅くなっても気にしていないようだった。父の悪口に加わらない私を、母は“父の味方”だと認識したらしい。実際には、家にいない父の味方なんて、しようがなかったのだけど。

 姉がなにを考えていたのか、それはよくわからない。ただ、以前のように一緒に遊んだりは一切しなくなった。

 姉はよく、私の部屋に勝手に入って、勝手にマンガやアクセサリーを持ち出していた。

 本人に抗議しても効果はなかった。母に報告しても、無視された。仕返しに私が同じことをすると、母に叱られた。

 そんなようなことが、ずっと前から起こっていた。たぶん、私が小学校に上がるころから、ずっと。

 私はそれに気づかなかった。気づいていたのかもしれないけど、気にしていなかった。

 五年生になって、舞と由佳里から離れる時間ができてから、はじめてそのことを意識しだした。

 その年のクリスマス、決定的なことが起こった。

 当日は冬休みの初日で、私は舞の家へ遊びに行った。もちろん由佳里も一緒。

「おじゃましまーす。メリクリ!」

「メリー。いらっしゃい。ケーキあるよ」

 舞の家では、前日のイヴにクリスマスのお祝いをしたそうだ。ホールケーキが半分残っていて、私たちに分けてくれた。

「次の日のケーキって、パサパサしてておいしーよね」

「由佳里ちゃん、変」

「そうだね。由佳里、変だよ」

「えー。二人して変変言うなよー」

 二人とも、それぞれの家で楽しいイヴを過ごしたようだった。二人の雰囲気に便乗して、私もしばらくは楽しい気分に浸ることができた。

 外が薄暗くなる頃、そんなクリスマスの効力が薄れてきた。

「あいちゃん、どうしたの?」

 最初に気づいたのは舞だった。

「どうしたのって、なにが?」

「今日のあいちゃん、パープル。元気ない」

 舞が顔をのぞきこんできた。

 まっすぐな舞の視線が、すこしだけ怖かった。床に座っていた私は、ベッドにもたれかかって、すこしだけ距離を取った。

「ん……なんでもない。まだ帰りたくないなーって思っただけ」

「えー、なんでぇ? 帰ったら、昨日の残りのケーキ、また食べられるじゃん」

「ケーキ残ってないんだ。うち、カットケーキだったから」

「あいちゃんのうち、ケーキにローソク立ててお祝いしないの?」

「そういうの、したことない」

 昨夜のことを思い出して、気分が沈んできた。私の顔色が悪いことに、さすがの由佳里も気づきはじめた。

「あいちゃん、マジでおかしいよ?」

 由佳里が座布団ごと床を滑って、私の隣にやってきた。続いて舞も、反対側の隣に移動する。

 両側から二人に密着されて、私は居心地が悪かった。

「あいちゃん、お母さんとケンカしたの?」

「……そういうわけじゃないけど」

「じゃ、おねーちゃん?」

「ううん。そういうわけじゃなくて……ケンカにもならなかった、みたいな」

「どーゆーこと?」

 私はようやく観念して、二人に話すことにした。昨日の出来事を。

「私、お母さんにお願いしてたんだよね、プレゼント」

「ん。そーいやあいちゃん、プレゼントのことなんにも言わなかったね」

「もらえなかったの?」

「……もらえなかっただけなら、まだマシなんだけど」

 私は母に、携帯ゲーム機とソフトをお願いしていた。

 クラスの大半の子が持っている、流行のゲームだった。ゲームとして遊べるのはもちろん、簡単なチャット機能もついていて、プレイヤーどうしで会話ができる。

 舞と由佳里はすでに、そのゲームを持っていた。二人がゲーム内でおしゃべりしている様子を、私は会うたびに聞かされていた。「あいちゃんもおいでよ」、と誘われもしていた。

 舞も由佳里も、クラスの他の子たちも、当たり前のように両親にプレゼントをねだっていた。だから、私もそうした。私にとっては当然のことだった。私はお正月にもらったお年玉を母に預けていて、「お金が足りなかったら、私のお年玉を足してもいいから」と、そうつけ加えてもいた。

 母からはなにも返答がなかったけど、当然もらえるものだと思っていた。

「ただ、お姉ちゃんも持ってないのに、とは言われてたんだよね……」

 姉はゲームに興味がないらしかった。当時中一の姉は、すでに携帯を持っていて、友人とのやりとりも簡単にできた。私ほど切実ではなかったんだろう。

「それで、どうしたの? ゲーム買えなかったとか?」

 由佳里の問いに、私は首を横に振った。

「買ってきたよ。で、それをお姉ちゃんに渡したんだ」

 母の言い分はこうだった。「お姉ちゃんも持ってないのに、妹が先にゲーム機を持つのはおかしい。周りに変な目で見られる」と。

「だから、まずお姉ちゃんにプレゼントしておいて、お姉ちゃんが飽きたら私にお下がりする、って」

「……」

 私の説明を聞くと、由佳里は絶句した。

 舞は何度か口をぱくぱくさせた後、ようやく言葉を見つけたらしかった。

「でも……でも、お姉ちゃんはいらないって」

「うん。でも受け取ってた」

 姉は「えー、このゲーム興味ないんだけど」と言いながらも、嬉しそうに箱を開けて、居間でゲームをプレイしていた。

 居間で、私はそれを見ていた。

 私が欲しかったゲームを、べつに欲しがってもいなかった姉がプレイするのを、私は目の前で見せつけられた。

「なにそれ……ひどい」

 由佳里のぎゅっと握られた手が、ぷるぷる震えていた。

「あいちゃん、なんにももらえなかったの……?」

「もらったよ。携帯音楽プレイヤー」

 私が答えると、舞はほっとしたみたいだった。けど、私が

「お姉ちゃんのお下がり」

 と続けたら、泣きそうな顔になってしまった。

 考えてみたら、当然のことだった。クリスマスにも誕生日にも、新しくなにかを買ってもらったことなんてなかった。姉は新品をもらって、私は毎年、姉からのお下がり。

 今までそのことに気づかなかった。それがおかしいことだとは、一度も思わなかった。この年の、このクリスマスの日まで。

「私、お母さんになにか言おうと思ったんだ。でも……なんて言っていいのか、どう怒ればいいのか、わかんなくって……」

 友達には言えることが、母や姉には言えない。

 私の人見知りスキルは、こんな時にも有効だった。こんなに怒って、悲しんでいる時でさえ。

「私、帰りたくない。あの家嫌い。お母さんもお父さんも、お姉ちゃんも嫌い」

 たぶん、泣いた方が楽だったと思う。けど、なぜか、私は泣かなかった。涙がこぼれそうになるのを、喉を鳴らしてごまかした。

「あいちゃん……」

 舞が握ろうとしてきた手を、反射的に振り払ってしまった。

「その名前も嫌い」

「あい……」

 由佳里が私の名前を呼ぼうとして、あわてて飲みこんだ。

「波戸ちゃん」

 舞はもう一度、今度は名字で私を呼んだ。

「その名字も嫌い」

 けど、私はそれも拒絶してしまった。

「あの家のこと、みんな嫌い。大嫌い」

 私は膝を抱えて、その間に顔を埋めた。

「……」

 舞がおろおろして、身振り手振りで必死になにか訴えようとする気配がした。言葉が見つからない時の癖だ。

 由佳里はしばらく黙って、なにか考えこんでから、いきなり

「じゃあさ」

 と、私の腕を抱きしめた。

「じゃあ、あたしがその名前、好きにしてあげる」

「え……」

 とまどう私の耳元に、由佳里は唇を近づけて、

「藍音」

 小声で、私の名を呼んだ。

 ――私はびっくりした。

 こんな風に名前を呼ばれたこと、今まで一度もなかった。こんなに優しく名前を呼ばれたことは、一度も。

「藍音」

 由佳里はくりかえした。

「藍音。あいね。あーいーね」

「……やめて」

 さっきは思いっきり拒絶したのに、今度はそれができなかった。腕を振り払うこともできなかった。

 と、今度は舞が、反対の腕に自分の腕をからめてきた。

「じゃ、私は名字を好きにしてあげる」

 そう宣告してから、舞は由佳里と同じように、私の耳にささやいた。

「波戸ちゃん」

「藍音」

「波戸ちゃん」

「藍音。あーいね」

「やめて。もう本当にやめて」

 私は懇願した。このまま続けられたら、本当に泣いてしまいそうだった。

 二人は許してくれなかった。二人に腕を掴まれて、逃げ出すこともできなかった。

「藍音」

「波戸ちゃん」

「藍音」

「波戸ちゃん」

 私は泣き出した。もう止められなかった。

 悲しくて、じゃない涙を流したのは、たぶんこれが初めてだと思う。

「もおー、藍音は泣き虫だなあ」

 由佳里はそう言って、私の頭を撫でてくれた。ちょっと楽しんでるみたいな声だった。私は泣くのに忙しくて、顔を見ることはできなかったけど。

「波戸ちゃん、泣かないで」

 舞がティッシュの箱を取ってきた。すこし離れた場所にあったのを、私から離れないように、懸命に手を伸ばして取ってくれた。

 その姿がちょっと楽しくて、私は笑った。泣きながら。

「もう平気。大丈夫。……ごめんね舞ちゃん。由佳里ちゃんも」

「違うよ、藍音」

 と、由佳里は私の涙をティッシュで拭いながら、

「こういう時は『ありがとう』って言うんだよ」

「……うん。あの、ありがと」

 ――この夜は由佳里と一緒に、舞の家に泊めてもらった。

 気がついたら、そういう話になっていた。舞のお母さんが、私の家に連絡してくれたらしい。舞のお兄さんも加わって、クリスマスパーティの続きをしてくれた。

 いつの間にかケーキも用意してあった。由佳里は「ケーキばっかで太る」を連発していた。舞はただ、ひたすら笑っていた。

 私は「ありがとう」を連発した。

 夜になると、舞の部屋に布団を敷いてもらって、私は二人に手を繋がれたまま眠った。

 二人の手の温もりを両手に感じながら、私は悟った。家族よりも大事な人が、この世には存在するのだ、ということを。

 この二人の友達を、一生大事にしよう。私はそう心に誓った。

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