10 贈

 程無く佳哉さんが住むアパートの部屋の前まで辿り着く。だが、まったく人のいる気配がない。佳織の家を出る前に佳織の母親が固定電話で確認しているので留守ではないはずだが、ドアノブを回しても回らない。

「ヘンね」

 佳織が訝り、辺りを見回す。するとすぐに階段を上る金属性のカンカンという足音がし、佳哉さんが現れる。

「もう、お兄ちゃんたら、どこに行ってたのよ。来るのがわかってたはずなのに」

「ええと、市子さんだっけ。いらっしゃい」

 佳織を無視して佳哉さんが言う。それで佳織が少しキレる。

「お・に・い・ちゃん」

 けれども、ややきつい目を向けただけで鞘を収める。

「はい、お兄ちゃんにプレゼントよ。ウィスキーと松原市子さん。ほら、受け取って」

 そう言うが早いか佳織がわたしの背を押し、佳哉さんに近づける。

「ちょっ、ちょっと待ってよ、佳織」

 顔を赤らめながら、わたしが抗議。でも佳織は聞く耳を持たない。

「まあ、いいから、いいから」

 それからウィスキーが入った化粧箱ごとわたしを佳哉さんに預けると、

「それでは、ごゆっくり」

 と一礼をして、その場を去る。驚いたわたしが振り向いたときには、もう階段を降りる頭の先しか見えていない。それで呆然とすると

「まあ、いいから中に入って」

 裕也さんに声をかけられ、正気に戻る。それまで本当に呆然としていたのだ

「済みません(でも悪いから)」

 後半部の、でも悪いから、を咄嗟に飲み込む。臆病なわたしにしては上出来な判断ではないか。それから鍵をまわして佳哉さんが部屋のドアを開ける。ギイイーという音が長く尾を引く。

「さあ、入って」

「お邪魔します」

 わたしが先に佳哉さんの部屋に足を踏み入れる。集団ではなく一人で半分恋人の家に上がった経験はあるが、それを別にすれば、晩生のわたしにはとても珍しいシチュエーションか。

「別に取って食いはしないよ(それとも喰って欲しいの)」

 佳哉さんの言葉の後半部分は、たぶんわたしの妄想だ。

「ええと、あの」

 そのとき、わたしはまだ佳哉さん/佳織の兄の名を知らないことに気づかされる。すると、すかさず佳哉さんが告げる。

「ああ、おれは林ヨシヤ。林佳織の兄で大学生」

「後半部は知っています」

「ははは、後半部か。市子さんは面白いことを言うね」

「ええと、わたしの名前は松原市子です。ご存知だろうとは思いますが」

「はい。よく存じております」

 続く極上の笑みにわたしが落ちる。誰にも佳哉さんを渡したくない。それが可能かどうかは別にして。

「そんなに居心地が悪いならば、少し離れるよ」

 佳哉さんに言われて、そのとき初めて、わたしは佳哉さんとの距離を知る。確かに息がかかるほど近くなのだ。半分恋人で経験がある距離だが、彼はわたしに腕を伸ばす仕種をしなかったし、(気配はあったが)実際に伸ばしたこともない。

「(いえ、大丈夫です)」

 おそらくわたしはそう言っていない。

 というより言った内容すら覚えていない。

「まあ、水でも飲んで」

 気づくと目の前に水の入ったコップが差し出されている。とすれば、佳哉さんがキッチンまで行ってコップに水を入れて戻って来たに違いないが、わたしはそれを見ていない。

「市子さんはやっぱり面白い人だね」

 佳哉さんの目の前で身を竦めるようにして水を飲むわたしを、まるで動物園にいる動物でも眺めるように、佳哉さんが前言を繰り返す。その言葉をぼんやりと遠くに聞きながら、わたしは、そうか、わたしはヨシヤさんにとって動物程度の存在なのか、と考える。猿だろうか、ゴリラだろうか、と悩んでいる。せめて動物ならば女豹とか、あるいは可愛い系でプレイリードッグとかでも思い浮かべれば良いものを、容姿に関する日頃からのコンプレックスのせいか、猿だろうか、ゴリラだろうかと考えてしまう。

 もっとも霊長類を選ぶ辺り、非常にわたし的だと言えるのだが。

「面白い、って一体どんなふうにですか」

「言葉の通りだよ。佳織やウチの母にはそういった感じがない。計算高いっていうのかな。まあ、身内だからそう見えてしまうのかもしれないけど」

「わたしって面白いだけですか」

「いや、妹の佳織と比べると可愛いよ。もちろん子供っぽいという意味ではなくて」

「本当に」

「嘘はつかない」

「それは男の人の常套句です」

「それじゃあ、証明しようか。こっちへおいで」

 そう言うと佳哉さんがわたしを鏡の前に連れて行く。一メートルほどの大きさの姿見がベッドの置かれた部屋の窓とは反対側の壁際に置かれ、そのすぐ近くまで寄って二人で覗く。

「佳哉さんの顔は左右逆でも、そんなに変わらないんですね」

「ほら、市子さんの、ここ、ここ」

 わたしの目尻近傍を右手の人差し指で撫でながら佳哉さんが言う。

「自分で見て可愛いと思わない」

「思いません」

 それからわたしの鼻の頭に指を置いて、

「自分で見て可愛いと思わない」

「思いません」

「素直じゃないね」

「だって」

 すると佳哉さんがわたしをじっと見つめて、わたしに言う。

「自分で強く思うんだよ。それが本当のことだって。そうすれば市子さんは今よりずっと可愛くなれる」

 わたしが佳哉さんに望んでいたわたし自身の見てくれが、綺麗ではなく可愛いだと、どうして佳哉さんは知っていたのだろう。やはり、あのときのすべてがわたしの妄想だったとしか思えない。

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