9 謀
人には出来ることと出来ないことがある。
わたしの場合は臆病だから余計その範囲が狭まっている。だから友人の兄を激しく気に入っても、こちらから迫れるはずがない。況してや家を訪ねることなど出来るはずがない。
そういった、ないない尽くし、の思考法は今ではかなり改善されたが、当時は種々の経験もないし、モノも知らない。だから結局のところ、恥を掻きつつ自ら学ぶしかなかったわけだ。
自分が好きになった相手が友人の兄なのだから、相手が見知らぬ他人でいるよりずっとハードルが低いが、その友人に協力を願うことさえ怖くて出来ない。だからわたしの友人がお節介(プラス狡猾)でなかったなら、わたしは彼女の兄、佳哉(よしや)さんと再び会うことはなかっただろう。逆に言えばその後悲しい想いをすることもなかったのだが、今ならば再会出来て良かったと素直に思える。
「市子、また家に遊びに来ない」
あれから数日後、クラス内で林佳織がわたしに言う。
「いいけど何で」
「今度はウィスキーを貰ったんで、また届けに行くから」
「お兄さんの所へ」
「そう。市子、好きでしょ」
「えーっ、だって、ご迷惑じゃないの」
「いいのよ、たぶん暇だから」
「そうなの」
「さあ、詳しいことは知らない」
おい、林佳織、お前、いい加減過ぎないか。
「適当ね」
「適当よ」
「お兄さん、彼女とかいないの」
「知らないわ。でも過去にはいたのかな」
「知らないの」
「家に連れてこなけりゃ、知りようがないじゃない。偶然、街で見かけるとかしなければ」
「なるほど。でも何となくわかりそうなものだけど」
「人によるんじゃない」
「うーん。で、いつ」
「何なら今日でもいいわよ」
「今日かあ」
確か、あの日は金曜日だ。長じてからなら、お泊まりだって可能でラッキー、と思ったはずだが、如何せん高校二年生だ。
「今日でも良いけど、どうせなら明日にするよ。何時ごろ行けばいい」
「お昼ご飯一緒に食べたい」
「お兄さんと」
「いやだ、わたしの家族とよ。お兄ちゃんは家に寄り付かないからね。それでお母さん、前はちょくちょくお兄ちゃんのアパートを訪ねてたんだけど、あんまりしつこいから出入禁止を喰らってさ。それ以降、お正月とか、お彼岸とかしか家に来ないのよ」
「ふうん」
「で、どうするの」
「お昼ご飯を食べてからにする。二時前には着くようにするね」
「わかった。また自転車で来るの」
「たぶん」
「電車にしたら」
「だってムの字なんだもん。でも何故」
「特に理由はないけど」
本当にそうだったのだろうか。
結局、翌日は約一時間かけて電車で林宅まで出向く。佳織のお兄さんに家まで送って貰うことをわたしは前日妄想するが、それは内緒だ。
「あら、市子ちゃん。いらっしゃい」
佳織の母親は体格が良い。
「ああ、お友だちの方ですか。よろしく」
一方の父親は年齢の割にはスラッとしていて喋り方が佳哉さんと似ている。本来ならば佳哉さんの方がその父親に似ているというべきなのだろうが、あのときはそう思わない。つまりあの日、既に見知っていたはずの佳織の父親の口調に初めて気づいたわけで、ということは、それまで佳織の父親はわたしの中で単なる記号に過ぎなかったわけだ。
もちろん当時のわたしがそんなことを考えるはずもないが、その結果として、すなわち佳哉さんを媒介として佳織の父親がわたしの中で人となる。
「じゃ、行ってくるから」と佳織。
「気をつけてね」と佳織の母。
既に記憶に留められた道を歩きながら、
「お父さん、ほとんどお酒を飲まないんだ。だから高級品でも全部お兄ちゃん行き」
「佳織のお兄さんはウィスキーが好きなの」
「さあ。家にいたときはまだ十代だったからね。大っぴらには飲んでないわよ。でも好きみたい」
と会話が続き、そこでわたしが妄想する。
佳哉さんと一緒にわたしがウィスキーを嗜んでいる姿だ。そのウィスキー入りの化粧箱が入った紙袋はわたし担当で、腕から下げたり、けっこう重いので抱え持ったり。
「市子。顔がニマニマしてるよ」
「ああ、そう」
「本当にお兄ちゃんのことが好きなのね」
「よくわからないよ」
「佐々木くんよりも」
佐々木くん、というのはわたしの半分恋人の苗字。
「だって佐々木くんは友だちだし、全然関係ないよ。もしかしたら周りには仲良く見えるかもしれないけどさ」
「そういう認識か」
「認識ってことはないけど」
「じゃあ、事実」
「そうかな」
「そうなんだ」
「たぶん」
今でも人間心理には鈍感なわたしだが、昔はそれに輪がかかっていたのだろう。だから一連の林佳織の言葉の裏などまるで見えていない。
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