第3話『また明日』第三景「僕の音が聞こえますか?」
海辺の街の高校。
お昼休みの練習室で、アップライトピアノの前に陣取っている制服の二人の姿があった。
トランペットを持った男の子と、アルトサックスを構えた女の子だ。
狭いので譜面台は立てられない。
ピアノの蓋を開け、譜面立てには「マイウェイ」
来週は高校の卒業式。
蛍の光や仰げば尊しなどの歌は、音楽担当の先生がピアノを弾いてくれるが、卒業生を送る大トリの曲は、毎年この「マイウェイ」
目立つメロディを独奏者二人が務める。
それがこの男の子と女の子だ。
先輩や先生、来賓も聞いている。
2年生のソロデビューでもある。
曲のここぞというところですっくと立って、ばっちり決めて演奏したい。
サックスの女の子は盤石の演奏だった。
音のぶれもなく、息の強さも微妙な色も充分に聞かせる、ソリストとしてふさわしい。
部員皆の信頼も厚い。
かたやトランペットの男の子が問題だった。
リラックスしているときはいいのだが、緊張するとたまに「ぽへっ」というすっぽ抜けた音を出してしまう。
しかもとても目立つ所でだ。
トランペットはとても目立ち、音も大きい。
ここぞという時のすっぽ抜けは、著しく彼の評価を落とした。
さらに悪いことに、卒業式本番が近付くにつれ、音すっぽ抜け率は高くなった。
なんだあれ。
またかよ。
同じところじゃんね。間違うの。
〇〇の方がよほどうまいじゃん。なんで奴がソロなの?
××の彼氏だからじゃね?
失敗する度に楽器をしまう時、部室の片づけをする時、堂々とささやかれる。
男の子は次第に表情も暗く、音も伸びがなくなってきた。
内心憤然としているのは女の子だ。
こうして自主練しているときの「奴」の音は、とても明るくていい色なのだ。
ソロを張るのに何の不足もない。
よく伸びて、聞いていると大空に上っていけそうな。
「で、何だよ」
二人は付き合っていた。
狭い町だから小学校中学校と一緒で、県立高校まで一緒に吹奏楽をやってきた。
難しい曲で悩んだ時も、先輩の厳しい指導に泣いてしまった時も、いう事をきかない後輩をどついて叱られた時も、一緒だった。
同じ道すじに家があるので、よく一緒に自転車で帰った。
部活で遅くなっても、いつも男の子が送ってくれるので、女の子の両親も安心していられた。
二年になって、冬休みあけの頃から、少しずつ家に遊びに行ったりした。
子供の頃もお互いの家に遊びに行ったが、同級生みんなでわいわい押しかけあって遊ぶのが当然だった。
高校生になったらちょっと違う。
部屋のテレビの前に並んで、借りてきたディスクを見ていても(両親がうるさく言うので、どちらの家に行ってもドアは開け放していたが)、気が散るのだ。
ガリガリで色黒で、他の女子にちょっかいなどかけようものなら、いつも男子を叩き伏せてきた女の子。
女の子、だなんて思ったこともなかった。
でも、制服のまま、隣でミカンを所在なさそうにいじってテレビ画面を見ている「あいつ」は、まぎれもなく女の子になっていた。
胸も少しでかくなっているような。
紺のスカートからまぞくむき出しの足も、いつの間にかきちんと膝を閉じるようになってた。
「あいつ」は少女になってしまっていた。
それは女の子も一緒だった。
自分よりずっとちびで、小学校の体育館の陰でしくしく泣いていた男の子。
給食が全部食べられなくて、机の中にかびたパンをたくさんためて叱られていた「奴」。
思った音が出ないと荒れ狂って、海岸で何時間でも吹き続けて唇を切って血が出た「奴」
いつの間にか、気が付いたら自分より背が大きくなり、声も低くなって、手も大きくなっていた。
自転車の後ろへも軽々と載せて、送ってくれるようになった。
制服から「おとこ」のにおいがした。
並んでテレビを見ていても、投げ出した足は奴の方が長い。
この前ちょっかい出してふざけて、うぜーよと払いのけられた時も、思ったより力が強くて愕然としたものだ。
「奴」は少年になってしまった。
三回目のデートでキスなかったら望みないでしょ
男の子が友達に言われた言葉だ。
「あいつ」は三回どころか何度もうちに来て、二人でテレビ見ている。
これってデートって言えるよな。
来るの嫌な素振りもないし、いつもにこにこ来ているんだから、俺は嫌われてないよな。
キスくらい大丈夫だよな、してもこの関係が崩れたりしないよな。
自分は情けないラッパ吹きだけど、情けない野郎にはなりたくないぞ。
決意を秘めて、昼休みの自主練に入ってすぐ、女の子に言った。
「明日うちこない? 親が親戚の家に行くからちょっと留守になるんだ」
返事は、昼休みの終わり、5時間目の始まる五分前予鈴の後にきた。
「ごめん、やっぱりいけないわ、あんたんち」
拒否だった
「明日がダメなら明後日とかは?」
「もう行かないかも」
予想外の返事に、男の子は混乱した。
「なんで? 俺が下手くそだから、もう友達づきあいもできないとか?」
「違うよ、ばか」
「他のやつらになんかいわれた?あんな奴やめとけとか」
「声でかいよ。そんなんじゃないよ。」
カッとなった男の子は次第に大声になっていた。
「俺、そんなに嫌になるほど情けない?
俺の音って、木陰で日向ぼっこしているばあちゃんみたいな音か?
もっと上手な奴がいいのか?」
だから違うって。
さっさと楽器をしまって、練習室のドアを開けようとした時、男の子がぐいっと肩をつかんで、すごい勢いで顔を寄せてきた。
きたっ
女の子はサックスケースをとっさに顔の前にかざした。
どかん。
男の子は鼻先を思い切りぶつけ、その勢いで女の子も押され、顔を痛打した。
「最低!」
みるみる腫れあがった頬骨を押さえつつ、女の子は飛び出していった。
「最低だ…」
のろのろとトランペットをしまいながら、男の子も力なく呟いた。
これで全部だめだ。俺最低だよ。
無理やりキスしようとしてぶつかるなんて、めっちゃかっこ悪いよ。
元々かっこよくなんかないけど、どんな顔して部活に行けばいいんだよ。
あいつ辞めたらどうしよう。
つか自分が辞めたいレベルだよ。
廊下を教室に歩いていると、他の生徒がぎょっとした。
「お前、鼻血鼻血!」
「なに鼻血垂らしてるんだよ!」
「テイッシュ詰めろ」
男の子はやばい、やばいと呟きながら、鼻にテイッシュを詰めて席に着いた。
五時間目、六時間目は無難に終わり、放課後の集中練習も終わった。
今日も二人のソロ絡みの箇所は何度も繰り返されたが、男の子は音は外さなかった。
むしろ力が抜けていい音だ、と先生に褒められた。
こういう時どんな顔をしていいのかわからない。
女の子は頬骨のところにあざができていた。
どれほどの勢いでキスを迫ったのか、俺。
もしぶつけたのが口元だったら、サックス吹けなくなるじゃないか。
ああ俺って最低。馬鹿だ馬鹿だ。
間違いはしなかったが、覇気のない冴えない音で練習は終わった。
みんな「間違わなかったんだから、そんなに緊張するなよ」
と言ってくれたが、全然違う。
緊張するべき時は、もう終わったんだ。
そうだよ。もう終わったんだよ
帰り道、二人はポツンぽつんと離れて歩いた。
男の子は自転車を押し、女の子は鞄とサックスケースを抱えて歩く。
前を行く男の子は、女の子に気づいていない。
呆然と下を向いて自転車を押している。
信号で止まった。
女の子は走って前に回り、男の子の自転車のハンドルを押さえた。
「何しかとこいてんのよ」
「ああああ!?」
男の子は素っ頓狂な叫び声をあげて、女の子に初めて気づいた。
鼻にはまだテイッシュが詰めてある。
見てるこっちが吹き出しそうな顔だ。
「しかとしてんじゃないわよ。ずっと無視して」
「気づいてなかっただけだよ」
「うっそだあ、さっきからみんなと一緒にわあわあ言いながらついてきてたのに」
「しらねーよ」
言葉が途切れた
「いいよ」
「ん?」
「明日あんたんち、いいよ」
「え、来るの?」
「あ、もういいのか来なくても」
「何言ってんだよお前」
男の子は鼻にテイッシュを詰めたまま、懸命にかっこつけようと苦労している。
その表情と焦りっぷりがおかしくて、女の子はゲラゲラ笑い出した。
「笑うなよー」
男の子もつられて笑い出した。
女の子の家に着いた。
自転車のかごからサックスケースを出してやり、手渡した。
顔と顔が近づいた瞬間、はっと二人は顔を見合わせた。
すぐにどちらからともなく、えへへと笑い出した。
「じゃ明日な」
「うん。明日。ばいばいきん」
「ばいばいきん」
2011年3月10日の、夕方を告げる有線が、街に流れた。
明日は、きっとわくわくする日になる。
女の子は玄関に入って行った。
男の子はそれを見届けると、自転車を思い切り漕ぎ出した。
吐く息は白いが、寒さは全く気にならなかった。
早く明日、3月11日にならないかな。
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