『また明日』~それぞれの3月10日~
南 伽耶子
第1話『また明日』第一景「青い世界」
市民プールは混んでいた。
大震災の応援要請から元の職場に戻った公務員の夫と、妻は、公営なのにウォータースライダーや流れるゾーンのあるそのプールに一時間並んで入った。
待ち時間に妻の真っ白い肌の日焼けを気にする夫は、美しい妻の水着姿をなるべく隠そうとする愚かでかわいい夫でもあった。
「パーカーのフード被って。足にもタオルかけて」
妻の真っ白い肌に同化するような、真っ白の水着。
すらりと伸びた長い脚と細い足首。
繊細な首筋と華奢な腕。
白い水着とパーカーに隠された胸元は、薄いようで意外とボリュームがある、という事を知るのは自分一人だ。
プールサイドの木陰のベンチに陣取りながら、乳母のようにやきもきする夫を妻は呆れながら見ていた。
「あなたもちょっと泳いできたら?私飲み物買ってくるから」
「だめだよ、飲み物だったら俺が買ってくるから」
「だってあなた、ぱたぱたして受験生の付き添いみたい」
せっかく来たんだからウォータースライダーに乗ってくるわ。言い残して妻はすたすた行ってしまった。
夫は慌てて一緒に行こうとしたが、一人ずつしかできないのと、女性と子供しか並んでいないのに恥ずかしくなり、下のプールで滑り落ちてきた妻を待ち受ける事にした。
「ああいう態度は自分を自覚していないのか、わざとやっているんだか、だよなあ…」
両方のような気がする、と若い夫は独り言を言いながら、トプンとプールに入った。
ちりちりと焼けはじめた肌に水が気持ちいいな、と思う間もなく、夫は両足がピーンと張って動かなくなった。
まずいっ
もんどりうって水の中にはまった彼は、もちろん人並み以上に泳げるし、救難訓練も受けている。
いつもなら余裕で足が立つ、この程度の深さなど何の苦もないのだが、今は何故か体が動かない。
混雑するプール、周囲に老若男女の客は大勢いるのに、誰一人自分に気づかない。
夫は心底恐怖を感じ、ますます焦る。
焦れば焦るほど体が言う事を効かず、水中に沈んでいく。
ついに、止めていた息が続かなくなった。
カッと口から大量の空気が漏れた。
薄れる意識で水面を見上げると、水を通しても明るい陽に向かって、自分の吐いた空気の泡が立ち上ってゆく。
水の濃い蒼の中、周囲の大勢のプール客の体が、自分と関係ない通行人のように動いている。
大勢の人がいる中、自分はスライダーを楽しむ妻の元へも行ってやれない。
夫は水の中で妻の名を叫んだ。
その肺からは一つの空気の泡も出なかった。
夫の体はプールの底に沈んだ。
目に残ったのは、水を通して輝く日光と空の、明るい青の色だった。
(第二景に続きます)
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