幼子と王宮医師の記憶

 ――それは……、まだその少女が幼く、この世界の記憶を抱いていた時代の出来事だ。




 ウォルヴァンシア王宮の裏手に出る道を辿り、小さな森を抜けると……、――国王と一部の者達だけが立ち入りを許可されている『塔』が天へと向かって聳え立っている。中に何があるのか、それは俺達だけが知る極秘事項……。

 それ故に、その塔周辺には、滅多に人は近付いたりは出来ない……はず、だった。


「……」


「う? おにーちゃん、だぁれ?」


 塔に用があり森へと入った俺の目の前に、ここに入れるはずのない小さな子供が現れた。茂みの方に座り込んでいたその子供は、俺の主である国王と同じ蒼を髪に纏っている。ただ同じ色をもっているだけなのか、それとも……。

 とりあえず、俺は子供をこの場所から引き離す為に地に膝を着いた。


「それはこっちの台詞だ。……ここは立ち入り禁止区域だぞ。どうやって入って来た?」


「ん~……、わかんない」


「子供に聞くだけ無駄、か。おい、王宮の方に戻るぞ。こっちに来い」


「やっ、きれいなおはなさいてるから、もっとみるのぉっ」


「花なら向こうにも咲いている。ほら、我儘を言わずについて来い」


 子供の駄々を聞いている暇はない。

 塔に近付く前に王宮の方に戻して親を探させる事にしようと決めた俺は、子供を胸に抱き上げて一旦引き返す事にした。

 バタバタと暴れる子供に呆れつつ、一回尻をぺちりと叩いて黙らせる。

 こっちは用事を済ませに塔に行かないといけないというのに、面倒事と出くわすことになるとはな……。


「うぅっ……、おはなぁっ」


「王宮の中庭にも花は咲いている。それと、お前、どこの子供だ? メイドに親探しを頼む時にどこの誰かわからんと困るからな。名前は言えるか?」


「ぐすっ……、ゆ、ゆきぃ」


 ユキと名乗った子供は涙ぐみながら小さく自分の名を口にする。

 ……その名前には聞き覚えがあった。

 どこかの誰かから耳にタコが出来るほど聞かされた記憶が蘇る。


『僕の可愛い姪御ちゃんでね~!! ユキちゃんって言うんだよ~!! ものすっごく可愛い!! 愛らしい!! まさに天使!!』


 ……脳内再生で、俺の主がハイテンションで喋りまくっている。

 仮にも相手は国王陛下、ウザイ……などと心にも思ってはいけない。

 腕の中でぐずる子供の顔を見下ろして、その頬をぷにっと掴んでやる。

 柔らかでむにむにとした感触、大きな丸い子供特有の純粋さを含んだブラウンの瞳。国王陛下と、その王兄殿下と同じ色を持つ娘、か。

 確か、赤ん坊の頃に会ったきりだった気がする。

 俺は届け先が意外にも早く見つかったと安堵して、王宮の通路へと進んだ。


「ねー、おにーちゃん」


「なんだ?」


「かみのいろきれー、んしょっ」


 グイッと小さな手が俺の銀髪を玩具のように引っ張り始めた。

 日差しに反射して綺麗だとか、良い匂いがするだとか、そんな風にきゃっきゃっと笑いながら人の髪を好きに弄りはじめる。

 やめろと言っても聞くわけもなく、俺は国王の執務室までの我慢だと自分に言い聞かせ、適当に相槌を打ちながら歩き続けた。


「めーがーねー!」


「おい、これは触るな、ズレるだろうが。駄目だと言っている。……怒るぞ」


「ううっ、さわりたい~っ」


 ……本当に、子供って奴はどうして自分の本能に忠実なんだか。

 ウォルヴァンシアの三つ子も手が焼けるが、このお姫様も相当に扱いに手間取りそうだ。最初の躾が肝心という言葉もある通り、俺はユキの小さな手を掴んで顔を近付けると、深緑の双眸で強く射抜いた。


「言う事を聞かない悪ガキには、お仕置きが必要か?」


「うぅっ……ご、ごめんなしゃい……」


「わかればいい。良い子だな。」


 素直にそう言えたユキの頭を撫でてやると、きょとんと見上げられた。

 躾は大事だが、それと同時にちゃんと出来たら褒めてやるのも必要な事だ。

 俺の変わりように驚いたユキが目をパチクリとさせている。


「さっきのは、お前が俺の眼鏡に悪戯しようとしたから叱っただけだ。だが、その後にちゃんと謝れただろう? だからご褒美に頭を撫でてやった」


「うー……、いいこしてたら、またなでてくれる?」


「……俺の気が向いたらな」


 この子供……。

 おそらく自覚はないんだろうが、上目遣いに見上げてくるその眼差しには、その愛らしさゆえに不覚にも心を揺さぶられてしまった。

 さながら、天使の顔をした性質の悪い小悪魔といったところか……。


「さて、執務室に着いたぞ」


 国王陛下の執務室に到着し、ユキを抱えたままその扉をノックする。

 しかし、少し待っても中からの返答はない。

 この時間なら執務のはずだが……、


「ユキを探しにどこかに行かれたか?」


 大いにあり得る。

 きっとユキの姿がなくなって、半狂乱になって王宮中を駆け回っている姿が容易に想像できる。

 すれ違っても面倒なので、一度ユキを床に下ろし、白衣のポケットからメモとペンを取り出し伝言を書いて扉の間に挟んでおく。

 これに気付けば王宮医務室の方に引き取りに来てくれるだろう。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ルイヴェル、お帰りさない。あら? ユキ姫様と一緒だったの?」


 王宮医務室に戻ると、俺の双子の姉であるセレスフィーナがソファーに座ってお茶の時間を過ごしているところだった。

 俺が腕に抱えている子供を視界に入れると、驚いたように目を丸く見開いた。


「せれすおねーちゃんっ」


「ユキ姫様、どうしてルイヴェルとご一緒に?」


「例の塔手前の森で拾った」


 俺の腕からユキを受け取ると、どうしてあの場所に? とセレス姉さんの表情が曇った。事情を知る者以外が迂闊に近づく事が出来ないように結界が張られているからだ。だが……、それを物ともせず敷地内に入り込む存在がいたとはな……。


「やっぱり、ユキ姫様には未知の力が備わっているのかもしれないわね……」


「ユーディス様と異世界の子供だからな。俺達の力さえ及ばない不確定要素があるのは確かだ。ぱっと見はただの子供なんだがな」


 不思議そうに見上げてくる頭を撫でてやると、ユキが嬉しそうに笑う。

 俺はこの数年出張する事が多かったからな。

 久しぶりに顔を見た王兄姫には、感慨深いものを感じる。

 頬の肉をぷにぷにといじってやれば、小さな手を俺の腕にかけて、


「や~っ」


 可愛らしく抵抗してくる。

 小さな身体で大人相手に無駄な事をするものだ。

 だが、その必死な様を見ているのも意外に面白い。

 自然と緩む頬を感じながら、俺はまたその小さな頭を撫でてやる。

 ……と、そういえば。

 ユキの為にお菓子を用意し始めたセレス姉さんに視線を向け、あの件を告げる。


「レイフィード陛下の執務室に行ったら、どうやら留守だったみたいでな。ユキがここに居る事をメモした紙を扉の下に挟んで来たから、あとで陛下がここに来ると思う」


「まぁ……、じゃあ、ユーディス様やナツハ様も探しているかもしれないわね。ユーディス様達には私からご報告に行こうかしら」


「ここで待ってれば、すぐに陛下が来られるだろう。それまで俺達は仕事でもしていればいいさ」


「行き違いになったら困るものね。そうしようかしら。……って、ルイヴェル。ユキ姫様で何してるの?」


「肩車だが?」


 俺の身体によじ登ってきたユキを抱き上げ肩車をしてやっていると、セレス姉さんが「楽しそうね」と苦笑して、プリンの載った皿と共に俺の隣に座った。

 俺の頭上では、ユキが楽しそうにきゃっきゃっと手をバタバタさせている。


「ユキ姫様とは久しぶりにお会いするのに、仲が良いわね。私と一緒に遊んでいる時より、ユキ姫様のお顔が嬉しそうだわ」


「見慣れない遊び相手にはしゃいでいるだけだろう。ユキ、落ちないようにしろよ」


「はーい!! ん~、えいっ、えいっ」


「髪をいじるな。下に落とされたいのか?」


「ユキ姫様、ルイヴェルの頭で遊ぶのもいいですが、甘い物を用意しましたから、ソファーに座って一緒にお召し上がりになりませんか?」


 セレス姉さんが俺の頭上ではしゃぐユキに声をかけると、甘い物という餌に反応して「おりる~!」と暴れ始めた。

 さすが子供だな、目の前の欲に弱い。

 ソファーの上にそっとユキを下ろしてやると、今度はセレス姉さんの膝の上へと登り始めた。


「甘い物~!!」


「ふふっ、今日はプリンにしましたよ。生クリームたっぷりです。お口を開けてくださいませ」


「あ~ん」


 セレス姉さんがスプーンで掬ったプリンをユキの口元へと持っていくと、大きく口を開けたユキが美味そうにそれを頬張った。

 もぐもぐと味わいながら、その顔が幸せそうにとろけていくのが視界に入る。


「美味いか、ユキ?」


「ん、……うん!!」


 可愛いものだな。このくらいの事で満面の笑みを浮かべて幸せそうに笑うとは……。


「セレス姉さん、俺にスプーンを貸してくれるか?」


「え? いいけれど……」


 ユキにプリンを食べさせるために使っていたスプーンをセレス姉さんから受け取ると、俺はプリンを一口分掬い取り、ユキの口元に差し出した。

 それを食べようと口を開けて前に身を乗り出すユキ。

 しかし……。


 ――ひょい。


「うー? ぷり~ん!!」


「ユキ、これが食べたいか?」


「ぷりん!! たべるの~!!」


 頬を膨らませ、何故食べさせてくれないのかと拗ねるユキに機嫌を良くした俺は、ニヤリと笑みを作った。

 セレス姉さんが明らかに呆れた眼差しを送ってくるのに気付いたが、気にはしない。拗ねて文句を言うユキに顔を近付けて意地悪な事を囁いてやる。


「タダで物を貰えると思うなよ? お前も大人になればわかるだろうが、世の中はギブアンドテイクだ」


「ルイヴェル……、最悪に大人げないわ……」


「ぎぶあんど……てぇく……?」


「そうだ。お前はこのプリンが欲しいんだろう? なら、それに見合う物を俺に差し出すんだな」


「いい加減にしなさい、ルイヴェル。子供相手にそんな意地の悪い事をするなんて、趣味が悪いわよ」


 自分でも大人げないと、何をくだらない事をやっているんだと自覚している。

 しかし、この子供を見ていると……、どうにも俺の中の悪癖が騒ぎ出してしまう。

 その可愛らしい笑顔もいいが、困った顔もまた見てみたい。

 そんな、単純な理由だ。

 俺が、「どうする?」とユキの前で囁けば、物凄く困った顔をした子供が、次の瞬間意を決したように動いた。


 ――ちゅうっ。


 頬に……、柔らかな感触が押し付けられた。

 小さな両手が俺の顔を挟んでいる……。


「ゆ、ユキ姫様!?」


 自分がユキに頬に口付けをされていると気付いたのは、俺の顔の前に、涙目になったユキの顔が戻って来た時だった。

 

「ぷりん、くだしゃい!!」


 ……。

 きょとんと、何が起きたのかと頬に手を添えていると、ユキが「ぷりん!」ともう一度大きな声で言った。


「ユキ姫様、プリンの為とはいえ……何て事を……!!」


 俺が柄にもなく動揺しながらもスプーンをユキの口元に差し出してやれば、やっと目当ての物を食べられるとばかりに、ユキが口を大きく開けてそれを頬張った。

 セレス姉さんはユキの行動に戦慄している。

 てっきり、泣いて怒り出すか困惑して黙り込むかぐらいに思っていたのだが……まさか……こんな行動に出るとは……。


 ――ガタン……。


 意外さに目を瞠っていた俺の耳に、扉の方から人の気配がした。

 静かな空気の中に……、只ならぬ殺気じみたものを感じて、振り返る。

 セレス姉さんも嫌な予感を感じたのか、そそくさとユキを抱き上げてソファーから離れた。


「ルイヴェル……、今の……何かなぁ? 僕の可愛い姪御ちゃんが、君のほっぺにその可愛い唇でちゅーをしてたように見えたんだけど」


「レイちゃんだ~! レイちゃ~ん!!」


「ユキちゃん、そこで待っててね。叔父さんちょっと、悪戯がすぎる子にちょぉ~っとお仕置きするからね」


 いや、今のユキの行動は不可抗力だろう。

 俺が代償を払えと意地悪をしたのは認めたが、それはあくまで反応を見るためであって……。

 断じて頬にキスをしろなどとは強要していない。

 別室に避難したセレス姉さんとユキの姿が消えた後、俺は国王陛下の黒い笑顔を向けられて、――その後、弁解とお仕置きのせいで酷い目に遭った。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 それからも、ユキはウォルヴァンシアに帰省する度に、俺を見かけては無邪気な笑顔で近付いてくるようになった。

 あれだけ意地悪な事をされておいて、それでもめげない王兄姫。

 根性があるなと面白そうに相手をしながら時が過ぎ、俺達は、誰からも愛されるその存在を手放す時を迎えた。

 異世界で暮らしていく為に不要なこちらの記憶を全て封じると、父親に聞かされた日。俺はそれに異議を唱える事なく、儀式に参加する事に頷いた。

 セレス姉さんも悲しそうではあったが、自分達の立場と役割の前に言える事など何もない。

 ウォルヴァンシアで過ごした全ての記憶が、ユキの中から消え去る……。

 納得はしていたが、最後に何も知らないユキがウォルヴァンシアへと儀式の為に訪れた日、儀式を前に顔を合わせては心の奥底に閉じ込めた感情が表に出てきそうで、

 俺は儀式を行う翌日が来るまでユキと会わないように行動する事にしていた。

 しかし……。


「ルイおにいちゃ~ん!!」


 何故、見つかる……。

 王宮の目立たない区域を歩いていた俺は、背後からかかってきた声に暫く振り向く事をしなかった。

 無視してどこかに行ってしまえばいいだろう。

 だが、小さな幼子は俺の傍に走って来ると、俺の白衣を掴んで嬉しそうに見上げてきた。明日、自分が何を施されるのか知る事のない……その笑顔。


「ユキ、ユーディス殿下達と一緒にいなきゃ駄目だろう? 俺は仕事があるんだ。お前に構っている暇はない」


「ルイおにいちゃん? ……おこってるの?」


「忙しいだけだ」


 俺の淡々とした声音に、ユキの顔が途端に不安げに染まる。

 困った顔を可愛いとは思っても、今にも泣き出しそうに苦しそうになった顔は……見たくはなかった。

 何故こんな態度を幼子に向けるのか、……俺が弱いからか……。

 明日になれば、ユキはウォルヴァンシアでの全ての記憶を封じられ、同時に魔力も封じられる。

 忘れてしまう……、なにも……かも……。

 それを悲しいと、……寂しいと感じてしまうのは……、俺がユキに情を抱いたからか?

 時折王宮に戻って来る子供……、その世話を焼いている事で、俺はどうやらユキを大事な存在(もの)の一つにしてしまっていたらしい。

 だから……、俺の今のこの態度は……、俺自身が俺を抑える為のものだ。

 何も知らない子供を突き放し、自身の心を守ろうとする……弱い大人の逃げだ。


「ご、ごめんなさい……。ルイおにいちゃん、おしごとあるもんね……。じゃまして……ごめんな、さい」


 ズキリと……、柄にもなく良心が痛んだ。

 俺は何をやっているんだ? 

 こんな子供相手に、自分を守るために大人げない態度をとって、傷付けてしまうとは……。

 今にも泣き出しそうなユキが、そっと俺の白衣から手を離した。

 背後に、遠くなっていくユキの足音が聞こえる。

 回廊の柱に背を預け、手摺りに腕を預けた俺は顔を手で覆った。


「……ユキ」


 ウォルヴァンシア王宮の者達が、親愛と共に見守ってきた王兄姫。

 それを……、こんなにも早く永遠に手放す事になると、誰が思っただろうか。

 どうせ連れて行くなら、最初からこちらになど連れて来なければ良かったんじゃないのか……。

 ユキがたとえ俺達の事を忘れても、俺達はずっとアイツの事を忘れない。

 これから始まるだろう心の空虚と渇望を、ユーディス殿下は考えてくれているのだろか?


「ルイヴェル……」


「……セレス姉さん」


 王宮の廊下から、こちらの回廊へと姿を現したセレス姉さんが俺の傍に寄り添い、

 俺の頭をその胸へと引き寄せた。


「貴方はユキ姫様を可愛がっていたものね。お別れが悲しいのはわかるわ。だけど……耐えるのよ。泣きたかったら、私の前なら涙を流してもいいから……」


「泣くほどの事じゃないさ……。子供が一人、ここから消えるだけだ」


「素直になっていいのよ……。私も……ユキ姫様と別れるのは、とても辛いわ……」


 セレス姉さんの温もりが、堪えていた俺の心の枷を外すように包み込んでくる。

 もう何も言葉は出ない……。

 ただ、この頬に伝うものが流れ落ちるまま……、俺は姉の傍に身を委ね続けた。

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