一章 06:神は天にいまし、世の全ては御心のままに

「誰っ」


 少女の叫びと共に、ジャラジャラと耳をつんざく大きな音が牢部屋に響く。それが心地良い歌を聴いた後だったものだから、より一層、不快な音に聞こえてしまう。

 原因は彼女の足に繋がれた鎖にあった。鎖を辿ると、黒い鉄の枷が足首にがっしりと嵌まっているようだった。無論、それは病人が付けるような代物ではない。


「俺はただ――」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……許して下さい……」


 俺が最後まで言葉を口にするよりも先に、少女が懇願を唱えた。

 少女の顔がさっと青くなり、苦痛に歪む。俺が更に近づくと、少女は後ろへ飛び退き尻餅を打った。その際に足枷に繋がれていた鎖が再びジャラジャラと、悲鳴に似た音を立てて床を這いずった。


「嫌……嫌っ……」


 少女は小刻みに震えながら、碧色の眼で俺を捉えている。その眼差しは悲痛に染まり、瞳は弱々しく揺れていた。


「悪い、驚かせたみたいだな」


 俺は少女を驚かさないようにゆっくりと後退り、出入り口の扉にもたれるように座った。腰を落ち着けた途端に煙草が欲しくなり、懐からライターを取り出して火を灯す。


 俺は火がついた煙草の吸い口を咥えて、ゆっくりと息を吸い込んだ。煙が肺に満ち、大きく息をつく。吐き出された紫煙はゆらゆらと登ってゆき、程なくして照明もない牢部屋の天井の深みに消えた。煙の行方を追っていると、格子の隙間から月が丁度良く見えることに気付く。空気が澄んでいるのか、月の影までもがハッキリとしている。


 ここまで綺麗な月を見るのも、俺にとっては久々のことだった。昨日まで駐在していたクルトは、ディーゼルの煙と舞い上がった埃でとてもじゃないが良い空気とは呼べなかった。雨が降れば幾分かはマシになるが、それでもこことは比較にならない。


 和国は他の国に比べて、穏やかな国なのだなと改めて思う。隣を見ると、静も上を見上げて、ぼーっと月を観賞しているようだった。


『格子がちいと邪魔ではあるが、綺麗な半月じゃのう』

『そうだな』

『満月の晩には月見を肴にして、酒を酌み交わしたいの』


 この状態じゃできんがな、と言って静はくつくつ笑う。


『今度するか? 静と俺の二人きりで』


 気分的にはともかく、俺ひとりで飲めば済む話だった。


『手酌を強要させるのものう』

『それだったら、俺の左腕だけ静が動かせるようにすれば良いんじゃないか?』

『そういう問題かの?』


 釈然としないのか、静は何とも言えない顔をした。


『いつか落ち着いた時にしよう。な?』


 俺は吸い殻を携帯灰皿の奥へと放ると、改めて辺りを見渡した。

 広間は鉄格子によって大きく二つに隔てられ、少女側は壁と鉄格子によって塞がれた牢になっていた。奥の左側にも衝立で隠れている所があったが、そこは便所になっているのだろう。俺から見て、後から付け足したような洗面台が、衝立の手前に設置されていて、便所の区画の反対側には薄汚れたベッドが鎮座していた。


 ――冷たい鉄格子。薄汚れたベッド。適当に設置したような便所。

 調度ひとつとっても、そのお粗末さ加減は生活に使用できる物に至っていない。目の前に居る少女に聞こえぬよう、俺はこっそりため息をついた。


『ところで静。このマレビト、どう思う?』


 世間一般では、どういう原理で人がマレビトに変異するのか解明されていない。静によれば、神や妖怪、妖精といった存在が祖先にいることが原因らしい。彼女の祖先が気になった俺は、そのことについて静に訊ねてみるも、静は力なく首を横に振った。


『それが全くわからぬのじゃ。この白人しらひとが、何らかの神と人の混血なのは確かなのじゃが』

『静が全くわからないってのも珍しいな』

『余にもわからぬこともある。余の見立てじゃと、こやつは余より上の後裔であろうな』


『上?』

『そう、上。余よりも上の神じゃ。単に余の知らぬ和国外の神やもしれぬが、こやつの力さえも杳としてまるで見えぬ。それ故、少なくとも余よりずっと上の神であることには変わりないじゃろう』

『ん? 静って妖怪じゃなかったのか?』


 少女の祖先妖怪を比べることがよくわからなかった。


『妖怪と神はほぼ同義じゃ。それに余は大妖怪じゃぞ』


 腰に手を当てて小さな胸を張る静を見て、俺は胡散臭さしか感じなかった。

 女神様は揃いも揃って豊乳だしな。対して静は……。


『今お主、余の胸を――』


 静がとんでもないことを言いかけるので、『そういえば、静以外の妖怪や神とかって、見たことがないな』と慌てて俺は言葉を遮った。


『隠遁したり、人に紛れてる奴もおるからの。人から見れば、マレビトと区別が付かぬ。それに元来、神というのは人間に対して、干渉することは滅多にない』

『なるほどな』


 滑らかな静の説明に、俺は相槌を打つ。


『しかし、あんな仰山おった神が、余が封じられる前と比べて減ってる気もするの』

『そうなのか?』

『それに時を同じくして、余の知る昔にマレビトはこんなにいなかったのじゃ。何故かはわからぬ。嫌なことがなければよいが』


 七災の影響で、マレビトが世界各地に出現し始めたという話はよく聞く。

 一般には、一部のマレビトが問題を起こしたことを七災として扱っているが、災害の影響によって異能を手に入れた――即ち、マレビトに目覚めた者が現れたことを七災として指すのが正しい。異能を手にした者は戦争の道具に使われ、戦争が終結してもなお道具にされたり、忌み嫌われたりなど、幸せになれなかったのだ。


 これを災いと呼ばずしてなんと呼ぶのか。それはともかくとして、七災は百年も前に起きていて、その頃の静は封印されているはずだった。これでは勘定が合わない。


『つまり、昔にもマレビトがいたってことか』

『まぁ、そう珍しくない話じゃよ。和国で言えば葛の葉さんや鶴女房の話など、昔にも異類と人の混血、即ちマレビトが生まれたという話はよくあったものじゃ』


 奇談。伝奇譚。民間伝承フォークロア。それらの異類婚姻譚は今で言う、鶴の恩返しや狐の嫁入り、羽衣伝説といった話が該当するらしい。つまり。


『架空の話じゃなかったのか』

『お主の隣にいるのは誰だと思っておる』

『あー、まぁそうだな』


 妙に説得力のある言葉に、思わず納得してしまう。


『火のないところに煙は立たぬと言うしの。異類婚姻譚もしかりじゃ』

『なら、俺と静の間で子供を産んだら、昔ならお話になるかもしれないってわけか』

『ぐっ……』


 言葉に詰まったような唸り声と共に、静の頬がみるみる紅く染まっていく。


『なっ……な、な、な、な、なにを考えておる。このたわけが!』


 静が顔を真っ赤にしながら、俺の肩をぺしぺし叩く。


『落ち着け、たとえで言っただけだ』

『たとえといってもじゃな! もっと、こう、言い方をじゃな!』


 ――俺は静と会話をしているが、少女と俺は互いに無言であり、他人から見れば静寂が空間を支配していることを忘れてはならない。


「あの」


 沈黙を破ったのは少女からだった。

 少女の方へと視線を向けると、牢の隅にあるベッドの上で膝を抱えて座っていた。


「落ち着いたか?」


 少女の返答は沈黙だった。話しかけておきながら会話が進むような気配は一向になく、しびれを切らした俺は自己紹介をすることにした。


「俺の名前は長谷部信哉だ。今日からお前らのいる区画の担当になった」

「私、そんなのいらないです……」


 少女は不本意そうに言い捨て、剣呑な目つきで睨んできた。その蔑みを帯びた視線は、自分と少女のどちらが牢の中にいるのか、わからなくなるぐらいだった。


「できることなら俺もやめてる。ったく、子守なんて御免被りたいんだがな」

『一瞬、余のことを見なかったか?』「前の人は?」


 少女と静の言葉がほぼ同時だったので、俺は静の方を切り捨てることにした。


「前の人? ここの前任者のことか」


 俺の問いかけに少女が頷き返す。ちなみに静は無視をされたからか、仏頂面をしていた。


「前任者のことは知らんな」

「た……」


 少女はそこで言い止した。なにやら言って良いのかどうか悩んでいるらしい。


「別に取って食ったりしない。なんでも言ってみろ」

「叩いたりするんですか?」

「どうして俺が、お前みたいなガキを殴らなくちゃいけないんだ」

「前の人は歌うと、うるさいと言って叩いてきました」


 少女は相変わらず膝頭に口元をくっつけた姿勢だったが、抱え込まれた腕には殴られてできたような青い痣があった。叩かれてもなお歌い続けるなんて変わった奴だ。


「それなら良かったな。俺はそんなことはしない。殴る方も痛いからな」


 少女は息をつき、顔から不安の色が少し消える。よっぽど前任者から痛みつけられていたようだ。


「ところで、お前はどうしてここに連れられてきた? 殺しでもしたか」

「こ、殺し、ですか?」


 質問の意味を計りかねたのか、少女は目を丸くする。


「過去に酷いことをしたんだろ?」


 ゆっくりと。かつ、少女に言い聞かせるように言う。


「ごめんなさい、わからないんです」

「わからないはないだろう」


 服部の言葉を額面通りに受け取れば、過去に何らかの問題を起こしていることになる。故に、全く何もなしに連れられて来たりはしないだろう。


「昔のことを覚えてないんです、私」

「覚えていない? ……記憶喪失か」


 記憶喪失がどういったものなのかは知っている。が、実際に罹ったことがある人間を間近で見たことはなかった。


『記憶がなくなる、か。うーむ』


 静は口に手を当てて思案顔になった。それは何かを思い出そうとしている顔で――


『静、何か知ってるのか?』


 手がかりになるのならと、俺は疑問を投げかけた。それに静はゆっくりと肯く。


『昔、余の知る寺の和尚が墓石で頭を打っての。それで奴は自分の名前を忘れおった』

『墓石って、どんな状況だよ』


 シュールすぎだろう。


『商売道具の経まで忘れおってのう。あれは大変じゃった』

『で、その坊さんはどうなったんだ?』


 記憶うんぬんよりも、続きが気になってしまった。


『五日後に死んだ』

『そ、そうか……』


 縁起でもない。まったく酷い話だ。

 どうでもいい話で頭にゆとりができた俺に、一つの疑問が湧いて出た。


「一つ訊きたいことがある。さっき歌を歌ってたよな?」

「そうですけど、いつからここに居たんですか?」


 歌っている姿はあまり見られたくなかったのか、恥ずかしげに少女が言う。雪のように白い肌をしているためか、薄暗いここでも顔を赤らめているのが一目瞭然だった。


「途中からだな。安心しろ、そんなには聞いていない」

「それでも恥ずかしいです」


 上目遣いになった双眸が、しんしんと静まる薄闇から月光に当てられて、ぼうっと浮かんで。抱え込んだ膝の中で少女はもごもごと言った。


「とても良かったぞ」

「本当ですか?」


 ここになってようやく、塞ぎ込んでいた少女が顔を上げた。


「俺はこんなことで、くだらない嘘はつかない。それに、俺が言いたいのはそんなことじゃなくてだな。記憶喪失のお前が、何故あの歌を歌えるのかってことなんだが」

「それは――」


 少女は思案顔になり、夜の帳に溶け込むように表情を曇らせた。


「……覚えているだけなんです」

「覚えているだけ?」


 覚えているだけ、だなんて珍妙な回答が返ってくるとは予想だにしていなかった。少女が口にした含みのある言葉は、ただただ俺の疑問を深めるばかりだった。


「歌詞と旋律だけが頭の中にあって、それを何処で覚えたのか……好きな歌だったのかはわからないんです。それにこの歌しか覚えてなくて……」


 頭の中にあるという言い回しについては、言い得て妙だ。だが、その感覚は当人でしか知り得なく、記憶喪失になったことがない俺には知るよしもない。


「しかしだな。お前、あの歌のことをわかって歌っているのか?」

「それは……」


 神の血を引いた少女の歌っていた歌の歌詞。

 それは、神に対する喜び。

 それもこの歌しか歌えないときた。こんな牢獄の中で。

 ハッ――

 馬鹿馬鹿しい。これ以上にない皮肉だ。


「お前が救いの神についてどう思ってるかは知らん。だがな、生憎ここには不在だ」


 主の導きなんてありやしない。信じる者は掬われるのだ。

 少女も意味を理解した上で歌っていたのだろう。彼女はしばらくなにかを言いたげそうな顔をしていたが、再び少女の口から言葉が出ることはなかった。

 それからは少女が押し黙ってしまったために、再び静かになってしまった。


『よいのか信哉? あんなことを言ってしまって』

『気にするな。それより、様子見のつもりが長居しすぎた』


 もう頃合いだろう。これ以上ここに居れば、もっと毒づいてしまいそうだ。

 俺はゆっくりと立ち上がり、廊下へ続く鉄扉をそっと開けた。そして、入り口をくぐり抜けて扉が閉まろうとした――正にその瞬間だった。


God's 神は in his天に heaven.いまし。 All's世の right全ては with the 御心の world.ままに


 そう、背後から聞こえた。

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