2-2 草原に座す石女
「我が部族に客人が来るなど珍しいこともあるもんだ。しかもこんなベッピンさんがねえ」
歯が殆ど残っていない口を大きく開きながら老婆が笑う。目を細めるとその線は顔中に刻まれた無数の皺に紛れてしまい、まるで口だけがある年経た妖怪のようだ。同国の遊牧民部族とすら隔絶され半ば伝説となっている部族の長というだけあり、オオカミの毛皮の敷物に座すその姿は人よりもむしろ自然物に近いように見えた。
「不躾な来訪を受け入れてくださり感謝致します。此度はある方の依頼により、ご相談したいことがあり参りました」
「そんなかたっ苦しい喋り方せんでええよ。こんな大地の端っこでお馬番をしとるだけのわしらにそう畏まられても困ってしまうがね」
無個性を象徴するネイビースーツに身を包んだ今の私は、この羊毛フェルトやラクダの腱で編まれた古式ゲルの中では異物でしかなく、この空間に呑まれないようにするために気が抜けない。砕けろと言われてもこちらも困ってしまう。普段はステータスであり周囲を羨望させる碧眼とストレートブロンドが不安に感じられる日が来るとは思いもしなかった。せめて髪は纒めてくるべきだったか。…まあいつまでも萎縮していては話が進まないのも道理だ。プロとして交渉を進めることにする。
「それでは遠慮無く。私が受けた依頼は、正にそのお馬番に関してのことです。単刀直入に言いますと、こちらで管理している白馬を何頭か譲って頂きたいのです」
開きっぱなしであった老婆の口が閉じられ、口までも顔の皺に紛れてしまった。こうなるといよいよ人というよりも、川を流されてきた自然石のようである。
「こらまたけったいな話だ、あんなあばれ馬どもをどうしようというのかね。乗るどころか飼うのすら困るやつらだというのに」
「暴れ馬、なのですか」
「ああ、そらもうあばれるあばれる。ほうっときゃ他の家畜や人までおそいよる。馬ってのはやさしいモンなんだが、あいつらだけは違う。本当に馬なのかどうかも怪しいもんさ。だからこうしてわしらが番をしておる」
…事前に伝え聞いていたがそこまでとは。本来遊牧民とは、一定のルートを家畜を引き連れて年単位で周回する。一箇所に定住しないのは家畜がその場の牧草を食べ尽くしてしまうからで、その前に次の決められた場所に移動する。一周してくる頃には牧草が回復しているという仕組みだ。しかし、この「お馬番」の部族は違う。この部族は、ある馬群の移動に合わせて移動しているのだという。その馬群に襲われない程度の、しかし遠くから監視できる程度の距離に集落を作り、その馬群がその場の餌を食い尽くして移動するとまた同じだけの距離をおいて付いて行く。馬を引き連れるのではなく、馬に引き連れられる遊牧民。何故そんな異様な在り方が成立したのか。それは単にその役割が必要だったからである。そうまでして監視下に置かないと深刻な被害をもたらす馬達。害獣を通り越して天災の域である。それがMr.ベンジャミンからこの部族の現在地とともに伝えられた情報だったが、正直真に受けてはいなかった。どうせ変態オヤジの妄想ストーリーによる尾ひれ大盤振る舞いだろうと高をくくっていたが、まさかほぼ事実だったとは。
「しかし、かつて彼等を乗りこなし騎兵団を結成していた部族が存在したと聞いています。貴方達はその末裔ではないのですか?」
「そう、確かにわしらがその一族の血を引いておる者共よ。だから、かつてのフビライからあたえられたこの役割を今日まで続けておる。『この馬たちを守れ、いつか来る日のために』というな」
「馬たちを守る、のですか。馬たちから守る、のではなく」
「そうだ。フビライはかの騎兵団の勇ましさを惜しまれ、いつでもまたよみがえらせることが出来るようにと、わしらにお馬番を命じられた。馬たちが絶えぬよう、また他のものをおそわぬようにと。…言うことを聞かぬあばれ者がどうなるかなど、知れておろう。だからこうして馬共のそばについておる」
確かに、何故そんな厄介な生態がこの現代において何の対処もされず放置されているのかと思っていたが、この部族が周囲への被害を抑え、問題視されないようにしていたのか。老婆は話し疲れたのか、傍らにあった馬乳酒の椀を呷った。
「…かの騎兵団は、どうやってその白馬達を乗りこなしていたのですか?貴方達がいずれ来る日のためにと命ぜられたなら、その方法も伝わっているのでは?」
「ああ、伝わっておるとも。伝わってはおるが…」
「部族に伝わる秘伝と承知の上でお願いします。どうかお教え願えませんか。私は依頼を受けた者として、せめてそれだけでも持ち帰らねばなりません。対価も出来得る限りをご用意致します」
手を床につき、頭を下げる。数百年に渡って伝えられた秘儀を教えろという以上、当然の礼節だ。しかし老婆はむしろ慌てたようにそれを遮った。
「ああ、ええ、ええ。おめ様のようなベッピンにそこまでしてもらうほどのものでもねえ。金もいらんよ。…わしらもあの馬共に引きずられているのは疲れた。奴らを連れてってくれるというならそれもまた一つの世の流れじゃろう。じゃが…」
「なにか、問題が?」
「おめ様、おぼこか?」
聞かれた。真正面から。結局そこに帰結するのか。
「…いえ」
「まあそうじゃろうなあ、おぼこには見えんでな」
ヒャッヒャッヒャと心底愉快そうに老婆が笑う。
「…やはり、そこが問題なのですか」
「そうじゃ、あの馬共をどうにかできるのはおぼこだけよ。わしのようにな。だから、お馬番の女はおぼことして生きる。それがお馬番のきまりなんじゃ」
「…一体何故、その、処女でなければいけないのでしょう」
「そりゃあ奴らはおぼこの前ではおとなしくなるからよ。おぼこでなければすぐにあばれよる」
「…処女以外には心を許さないという伝説。まさか真実だったとは」
「あん?こころを?いやあ、あれはそういうのではないのう」
…違うのか?それなら一体何故処女でなければならないのだろう。尋ねようかと思ったがそれより早く老婆が口を開いた。
「どうせ止めてもゆかれるのじゃろう。馬共のいる地は教えるから、今日はここで休んであすの朝にでもゆくとよい。…近づきすぎず、遠くから見るだけならよかろう」
「お言葉に甘えまして。それでは明日の朝に」
ゲルの外に出て、自前の携帯テントをレンタルのバイクから降ろし広げる。何か思った以上に話が容易に進んだな。一族が秘匿している馬を譲れなどという交渉、相当に難航するだろうと踏んでいたのだが。しかし、聞いたことが事実なら私一人ではどうにもならないということだ。まあ予想の範疇であり今回は下調べのつもりだったから問題はない。私以外の人間に頼めば済む話だ。…処女の腕利きか。どうやって聞き出したものか。調子はどう?評判は聞いてるわよ最近また実績を上げたみたいね。そんな貴方を見込んで頼みたい仕事があるんだけど。うんそう、受けてくれる?良かったわところで貴女処女?男と寝たことはある?うん、仕事の依頼どころかその場で交戦せねばならないだろうな。そのままどうしたものかと様々な交渉パターンを寝袋に入って考えている内に自然と眠気が襲ってきた。まあとにかく全ては明日様子見してからだ。私はそのまま眠りについた。
翌朝。
目を覚ました私は身だしなみを整え、動きやすいよう持参したスポーツウェアに着替え、諸々の装備を点検する。念のため髪も束ねておこう。普段使いの眼鏡もスポーツゴーグルに替えておく。準備を整え終わった私が長のゲルを訪ねると、長である老婆もとっくに活動を始めているらしかった。
「おはようございます」
「あい、おはよう。準備はできとるようだな。…馬共は今は、ここから北東の湖のそばに居る。バイクは置いて行くとええ。奴らにすぐさま気付かれてしまうからの。なに、おめ様は丈夫そうだし、歩いていけるところよ。言っておくが、くれぐれも近づいてはなんねえ。遠くから見るだけにするんじゃ。ええな?」
「はい、お気遣いありがとうございます。それでは、バイクとテントはここに置いて行きますので、よろしくお願いします」
「うむ、気をつけてな。…ああそれと、匂いに気をつけるようにな」
匂い?そんなに強烈な臭さなのだろうか。まあ臭くない野生の動物などいないだろうが、そんなことでいちいち参る根性はしていない。長に礼を言い、目的の湖に向かって歩き出した。
一時間ほど歩いたことだろうか、目当ての湖らしきものが視界に入りだした。一時間。そう一時間だ。遊牧民の距離感は現代人にとって当てにならん。無論鍛え込んでいる私にとって問題のある距離ではないが、疲労がないわけではない。近づき過ぎる前に息を整えておこう。周囲を見渡すと小高い丘が目に入った。あの傾斜に身を隠しながら休息し、しかるのちに観察を行うとしよう。湖を軸にして弧を描き、湖との間に丘を挟むようにして回り込む。ちょうど寝そべるのに良いロケーションを確保できたのでとりあえず寝っ転がってみる。吹き付ける風が心地よい。
「さて、それでは始めるか」
高倍率ズームレンズ装備のハンディカメラを取り出し、丘の頂点から少しだけ身を乗り出すようにしてカメラを構え、湖をレンズに収め覗き込む。…確かにいる。文句のつけようもないほどに美しく体軀に優れた白馬の群れが、湖を取り囲み思い思いに過ごしていた。その数、ざっと見るに数百から千頭といったところだろうか。
ちょっと待て。何だこの数は。馬とはここまで大群を成すものなのか。群れを作る習性のある動物なのは知っていたが、この数は想定外だぞ。…いや、そもそもこの馬達だけを用いた騎兵団が存在できたくらいなのだ。多いことは想定していたが、ここまでとは。しかし、それ以外に特に変わったことはないな。強いて言えば一頭残らず白馬だということか。ここまで真っ白の大群だと気持ち悪くなってくる。野生で群れを成している以上、雄と雌が居ることは当然なのだが、傍目には全く区別がつかない。距離が遠いのもあるが、このままではあまり有益なデータにはならないな。
少しでも詳細な情報を得るべく、丘からもう少し身を乗り出す。高さ故か、少し風が強く肌寒い。思わず身を抱くようにして体を震わせた。
「もう少し厚着してくるべきだったか。まあ耐えられないほどでは…うん?」
改めてカメラを湖に向けると、なにかおかしい。さっきまでそれなりに活発に活動していた白馬達が妙に大人しく…いや、これは大人しいどころではなく、動きを止めている?馬群に何かあったのだろうか。もっとよく観察したかったが、レンズの倍率は既に一杯だ。もう少し近づいてみるかと思い、更に身を乗り出してレンズを覗き込み、そこでようやく私は馬と目があっていることに気が付いた。
数百に及ぶ馬群の全てが、動きを止めてこちらを見ている。
千を超える馬の瞳が一つ残らず私を見ていた。
体感したことのない悪寒が私を襲った。今までのどんな仕事でもここまでの恐怖を味わったことはない。私はゆっくりとカメラをしまい、少しでも静かに距離を置こうと後ずさり始めたのだが、馬達にとってその気配すら周知の上らしく、凄まじい勢いで数百頭の馬群が私に向かって殺到し始めた。私の命を懸けた逃避行が始まった。
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