それから僕は

イオン

降り続いた雨が止んだ朝。

水溜まりを避けて歩く度、ぐしゅりぐしゅりと足音が響く。

昨日の朝もこんなに寒かっただろうか。

そんなことも覚えていない。

強く一風吹くと、耳がちりりと痛むくらいに、

久しぶりに、心底寒いと感じていた。


この足音は、ひとつだっただろうか。

2つだったような、3つだったような。

そんなことも、覚えていない。


「ああ、寒い。」


うっすらと夜の色が残る空気に、声が溶ける。

僕の声は、こんなに掠れていただろうか。


「ああ、痛い。」


僕の声は、こんなに低かっただろうか。


「...ふふ。」


思わず漏れた笑い声も、同じように溶けていく。

もしかしたら、僕の他には何も存在しないんじゃないかと思ってしまうくらいの静けさ。


こんなに、心地よかっただろうか。


さっきまで僕はどこにいたんだろう。

誰といたんだろう。

何をしていたんだろう。


そんなことは、忘れてしまった。


僕は、


僕は。




水溜まりを思い切り踏んでしまって、はっとする。

そういえば、靴底に穴が開いていたかもしれない。

じわりと染みてくる水が、僕の足を冷やす。


風よりも、少し冷たい。


「家、どっちだっけ。」


呟く。


「家、あったっけ?」


また呟く。


同じように、消えていく。

ポケットに手を入れると、指先にはキーケースの感触があった。

この鍵は、僕の家の鍵だろうか。

取り出してみると、妙に軽い感触で。

開いてみると、何もついていなかった。

ああ、そうだ。


「返したんだ。」


誰に返したんだろう。

どこに、返したんだろう。

返したのなら、僕の家はやはりないのだろうか。


覚えていない。


思い出そうともしない。


靴に入り込んできた水が不快さを増したので、そのまま脱ぎ捨てた。

裸足で歩くアスファルトは、硬くて、冷たくて、痛かった。


ふと顔を上げると、道端に立つカーブミラーに僕の姿が写る。

袖を通した時の事などまったく思い出せないが、こんな趣味の悪いシャツを着ていただろうか。

赤茶色が散らばるまだら模様。

見れば見るほど、気持ちが悪い。

外だということも忘れてしまったように、慌ててシャツを脱ぎ捨てる。

少しだけ、心が晴れたような気がした。

水溜まりに落としたシャツは、その雨水を吸って。



何も覚えていない。

何も思い出せない。

何も思い出したくない。


「...忘れてしまった。」


何も纏っていないはずの上半身も、

まだら模様が浮かんでくるようで。


それから僕は、

深い深い雨水の中で目を閉じる。



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それから僕は イオン @ion_am

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