美味しいとは言ってくれない旦那様へ
久遠海音
美味しいと言ってくれない旦那様へ
主婦の一日は長い。
朝「まだ眠っていたい」と強く意思を発する体の怠けっぷりを「起きなければならない」という義務感で無理矢理押さえつけ起床する。そして家族が眠っている中、身支度を整え、朝御飯を作り始めた。
そんな朝の活動の中で最も厄介なものが弁当である。
今は空前のキャラ弁ブーム。二人も幼稚園の子を持つ私は、2人分のキャラ弁を作る必要があった。以前よりもさらに早起きし、毎朝毎朝メニューが重ならないように考えることは勿論のこと、子供が好きなキャラクターに似せるように作らなければならない。元々芸大出の私は
「ちくしょー」
とめどない文句ばかりが口をつく。そもそも長男が幼稚園デビューした時が全ての始まりだ。友達作りが心配だった為、話題を作りやすいよう、仮面ライダーが敵キャラを倒すシーンを事細かにお弁当で表現してみた。しかしあまりの出来栄えに先生たちが写メをとったのは勿論のこと、それを崩さないためにみんなが長男に弁当を分け与え、結局長男は自分の弁当を食べずに持ち帰ってきてしまった。確かに良い話題となり、長男は注目を浴びた。浴びたのだが、何のために弁当を作ったのか、弁当とは何かを自問自答したくなった。その一件から私は学んで、少し抑えたキャラ弁作りをするようにはなった。だがそれでも、弁当の時間になると息子たちは注目の的になるという。
けれども、良い気分ではあるのも確かだ。頑張って作った弁当がそこまで評価されれば、主婦冥利につきる。しかし、こう毎日となっては流石の私もネタ切れになってくる。どうしたものかと悩む今日この頃である。
「おはよー」
欠伸と共に吐き出された挨拶が旦那の口から出てきた。
「おはよ」
私が言い終えるか終えないかのうちに青いパジャマを着た旦那は洗面台の方へと吸い込まれていった。私が言うのもなんだが、旦那はモテる部類だと思う。仕事は出来るし、顔もそこそこ良くて、寡黙な人だ。学生時代は、「クールな人だ」と遠巻きに女子に見られるタイプの人だった。そんな旦那に一目惚れして、アタックにアタックを重ていたらいつの間にか結婚しており、二児を儲けるまでになっていた。何でこんなにもトントン拍子にいったのか自分でも分からない。結婚した理由を旦那に訊いてみたけど「結婚したいと思ったから」しか返ってこなかった。私なりに旦那の言葉を解釈してみたのだが、きっと『直感』ということだろう。よく『会った瞬間この人と結婚すると思ったんです』とかいう電撃カップルとかいるし、そんな感じなのかと。私としては、直感の方が運命的な響きがあるし、嬉しい気はしている。しかし問題はここからである。キャラ弁作り以上に悩まされる問題が、旦那にはあったのだ。大学三年の時にインカレサークルで出逢い、その後付き合い、交際から二年目で同棲、三年目には結婚をして、そんなこんなでもうすぐ旦那とは十年の付き合いになるのだが、不覚にも私は最近までそのこと気づかなかったのだ。
「おっと。もうこんな時間だ」
朝食の準備に取り掛かると同時に、子供たちを起こしに行く。子供たちはまだ眠そうで、「ようちえん、やすむ」とか言っている。愚図愚図言い出す子供たちを半ば無理やり引っ張りながら顔を洗わせた。
子供たちの準備を終え、急いでキッチンに向かうと良い感じにスープが煮こまれていた。トースターにパンをセットし、目玉焼きを焼く。その間にサラダを盛り付ける。パンが焼きあがった音がすると、目玉焼きの加減を見る。うん。良い半熟具合だ。それらを盛り付け、ダイニングテーブルに持っていくと、旦那はすでに席についており、自分で入れたコーヒーを片手に今日の新聞を読んでいた。
「朝食出来たよ!」
子供たちはそれを聞いてわらわらと集まってきた。寝癖をぴょんぴょん跳ねさせたまま椅子によじ登っている。後で直さねば。
「「いったっだっきまーす!!」」
「「いただきます」」
食事を家族全員でとるというのはうちの家訓になりつつある。今後も続けられるといいな。子供たちは「うまうま」と言いながらものすごい勢いで食べている。それに比べ旦那はというと、静かに黙々と朝食を食べている。よし。今日もあれを訊いてみよう。
「ねえ。御飯、どう?」
やや間があって、旦那は答えた。
「ん。いつもと同じ」
「美味しい?」
すかさずもう一度訊いてみる。
「ん」
旦那はそれ以外何も答えなかった。そして旦那はご飯を食べ終わると「御馳走様」と「行ってくる」の二つの言葉を残し、そのまま出勤していってしまった。
「・・・」
私は子供たちの寝癖と格闘しながら準備を行い、幼稚園バスに乗せた。家の中に入り、玄関をぴしゃりと閉め、息を吸い込む。
「『美味しい』って言えやあああああああああああああ!!」
なぜあいつは「美味しい」の一言が言えないんだ? 「美味い」でもいいから、それらしき言葉を自ら発せや! 確かに私が「美味しい?」って訊いたら「ん」って返事は来るけども。それだとまるで私が強要したみたいじゃないか。いっつも返事を「ん」の一言で済ませやがって。喋れない口なら私が刻んでやろうか、ああ?
『で。そんなことで一人身のあたしに電話かけてこないでくれる?』
怒りが頂点に達したため光の速さで親友に電話し、一気に今日のことを愚痴った。その結果、電話口からは溜息交じりの声が聞こえるばかりだ。
「そんなこと言わないでよ! 私たち親友でしょ?」
『イケメンエリートと結婚した時点であんたとの友情は切れてんのよ』
「ひっど! こっちは真剣に悩んでいるのに」
『ふっ。優良物件捕まえたんだからそれぐらいの苦労で凹むんじゃないわよ! こっちは三十路過ぎて焦ってるっていうのに』
まあ? 確かに私には勿体無い位の優良物件ですが? 私も結婚が決まった当初はハイテンションで喜びましたけど?
「でもでも今まで一度も私の料理を『美味しい』って言ったことないんだよ? おかしくない!?」
『まあ、確かに言われてみれば変だけど。本当に一度も言ったこと無いの? 忘れてるだけじゃない?』
「それはない」
私はきっぱりと言い切った。
『最初に手料理食べさせたときは? 付き合い始めだったら、気を遣ってでも『美味しい』とかなんか感想、普通言うでしょ?』
「『普通』」
『は?』
何言ってんの、あんた?とでも言いそうな声音だ。
「だから、最初食べさせたときの感想だよ」
あの時もただ黙々と食べているだけで何も言わなかった。「私の手料理、どう?」と訊いてやっとその評価を貰えたくらいだ。
『嘘でも『美味しい』っていうべき所だよね? 実際、あんたの料理、見た目も勿論いいけど、かなりウマい方の部類なのに』
普段辛口評価ばかりの親友は、半ばあきれ気味だ。しかし、私はその時のことはあまり気にしていなかった。
「それはいいの! あの人の味覚に合わなかったってことかもしれないし」
『そんなことはないと思うけど』
ぼそりと呟く様に答える親友。こういうちょっとした優しさがあるから、憎めないんだよね。
「けどね、どんな味付けにしても『美味しい』とは絶対に言わないのが問題なのよ」
『味音痴って訳でもないのよね』
味音痴だったらどんなに良かったことか。
「そうなのよ。私もあの人好みがどんな味か分かんないから、最初は甘めにしたり辛めにしたり試行錯誤してたんだけど、ある時『いつも通りでいいから』って言われた」
それにあいつの買ってくるお土産は無名のものでもいつも美味しいし。あいつの行きつけの飲食店もそうだ。悔しいけど、味覚はちゃんとしている。
『じゃあ、美味しいと何も言わない人なんじゃ?』
「そういうわけでもないんだよ。前、お土産を貰ったんだけど、食べた時普通に『美味しい』って感想漏らしてたよ」
あいつの行きつけの居酒屋でも「大将、これ美味いね」と煮魚を絶賛していたし。ちなみにその後、家でもその味に近い煮つけを作ったが、何も感想は言わなかった。親友はうーんと悩んでいる。
『もしかして親しくなると『ありがとう』とかそういう感謝の言葉っつ―か当たり前の言葉?『ただいま』とか。そういうの言わない人とか』
「いや、普通に言ってるね。『御馳走様』とか今日も言ってた」
『・・・ちなみに、なんでそのことに今まで気づかなかったの?』
「うーん。なんでだろ? あの人クールっていうか寡黙な人だし。言わなくてもいつものことだし、スルーしてたんだけど。ある時わが子が『おいちー』って可愛く言ってるのを聴いて『可愛いな、こいつー。誰に似たんだ―?』とかやってたら、はっと気づいた。そういえば旦那からこの言葉聞いたことがないなって」
『・・・惚気か?』
「いや、だから違うって! ガチ悩みだって!!」
なんでさっきからこの親友は見当違いのことばかり言うんだ? こっちは真剣だというのに。
『つまり旦那よりも先に子供が『美味しい』って言ったんだ』
「うむ」
電話の奥で溜息を吐かれた。
『あんたに分かんないんだったら、あたしにも分かんないよ。あんたの旦那、ミステリアスキャラだし』
「確かにそうだけど」
最初はそこに魅かれて付き合い始めた。けど、意外と勝負事にはムキになったり、感情表現が素直だったり。そんな子供っぽい姿が可愛くて結婚した。けどそんな素直な旦那が、なぜか私の手料理については何も言わない。本当、なんでなんだ!?
『そーとーストレス溜まってんね』
苦笑するわが親友。
「分かる?」
こんな悩みを分かってくれるのはあんただけだよ。
『そーゆー時は、やっぱ合コンだ!!』
「は?」
どんな解決方法だよ。てか私、二児の母ですが?
『分かってると思うけど、子供がいることは勿論、旦那がいることも隠してね』
もうすでに行く前提で話を勝手に進める自由人。一体、あんたの頭の中はどうなっているんだ。
「いやいやいやいや! 行くって言ってないし。それに夜は子供たちの面倒見なきゃだめだから絶対に無理」
『あんた近くに自分の実家あんじゃん。今日ぐらい預かってもらえば?』
しかも合コン今日かよ。急だな。
「専業主婦が実家頼っちゃダメでしょ」
『今!! あんたに必要なのは癒しだ。男どもにチヤホヤされて独身時代を思い出すんだ!』
「・・・て私を励ましているようなこと言って。本当は人数足らないだけでしょ」
『てへ。ばれた? 急に一人ドタキャンしちゃってさー。あんただったら、人数合わせになるし、人妻だからライバルにならないし。一石二鳥じゃん』
全くこいつは。いい性格してるぜ。
『それにあんたにとってこの話は悪いことじゃないと思うよ? 一回外の空気を吸って冷静になってみ? そうすれば意外とあっさり解決するってもんよ』
「・・・・」
『まあどーしても嫌だというのなら、別の人誘うけど』
「・・・・昼過ぎにまた電話する」
プツッと電話を切る。言われてみればそうかもしれない。専業主婦なんて家に籠りっぱなしで、家のことばかり考える機会が多い。そのためか、他人にとってはどうでもいいような小さなことでくよくよ考えたりしてしまう。体は健康なのに外の世界のことを考える機会を奪われ、心が徐々に蝕まれていく・・・。この独特な感覚は普段外で働いている人には分からないだろう。
しかし本当に『美味しい』の一言を求めるのは可笑しいことなのか。この一言のためにこんなにも悩むのは馬鹿げたことなのか。頭の中に蛆虫が蠢く感覚がする。私には何が普通なのか分からない。けれど、それでもその言葉が私は欲しいのだ。
「あー。もうほんと鬱になるわー」
なんか新しい趣味でも始めたほうが心の健康に良さそうだ。しかし、とりあえず今は洗濯物を干さねば。
一通り家事を終え、お昼ご飯を作っていると、スマホに通知が届く。手を止め、スマホを見てみると、なんと旦那からであった。内容は薄々分かっている。絶対に今日の弁当のことだ。
今日の旦那の弁当は幼稚舎の子が持ってくようなデコ弁にした。ここ三か月、ご飯無しでから揚げだけをギッチリ詰めた弁当やケーキだけの弁当にしたりと
しかし、今日のはそうはいかない。あんな魔法少女のキャラを入れたピンクな弁当を三十路男が食べる図はなかなかシュールだし、趣味を疑われる。それを同僚に見られでもしたら恥の極みだ。これを怒らない奴はいない。私はドキドキしながら、LINEを開ける。
『息子の弁当と間違ってたよ^o^』
・・・。
んなわけあるかああああああ!!
お前のあんなデカイ弁当箱と息子のちっこい弁当箱を間違えるやつがあるか! てか魔法少女のキャラ弁は息子じゃなくて娘用だし! わざとか、このやろー!
てか、こいつ恥ずかしいとは思わないのか? 魔法少女だぞ! 一緒に食べてる同僚くらいいるだろ。まさかボッチなのか? そうなのか? それはそれで悲しいわ!! つかなんで『^o^』なの。『^o^』がまたムカつくんだよ。なんでこいつはメールの時だけテンション高いんだ、ちくしょおおおおお! 何でいつもいつも余裕な感じなんだよ。文句を言えよ、文句をよー。そしたら堂々と今までのこと愚痴ってやれるのに。これじゃあ私の心の醜さばかりが浮き彫りになって、苦しいわ!
ああ、イライラする。もう耐えられん!
そう思ったや否や、ママに電話をかけて今日の夜、子供達を預かってくれるように頼んだ。そして、再び今朝もかけた電話番号を表示させる。
『もっしー! 決めてくれたー?』
ご機嫌の親友。まだ何も言っていないのに欲しい答えは得ていると言わんばかりだ。
「うん。今日の合コン、行くことにしたぜ!」
どんな弁当にしても文句も言わない。どんな味付けの料理にしても『美味しい』と言ってくれない。どんだけ興味ないんだよ。馬鹿にしてるよ、ほんとに。目一杯遊んでやる。何も言ってくれないあいつが悪いんだ。
「やっぱ合コン楽し―!!」
合コンが終わり、今は一人で家路についている。枯れ果てていた何かが一気に潤いを取り戻した感じだ。思えば旦那と付き合って以来、合コンとか行って無かったからかなり新鮮な気分だ。
家の明かりが点いていた。どうやら旦那が帰ってきているようだ。旦那には『飲みに行く』の五文字をLINEで送ったのみ。怒っているか? まあ怒っていても関係ないやい! あっちが悪いんだもん。
「ただいまー」
なるようになれ、という感じでドアを開けた。リビングまで行くと、旦那はテレビをぼーっと眺めていた。
「おかえり」
相変わらず無愛想な奴だ。ダイニングの方を見るとスーパーの袋があった。どうやら買ってきた惣菜でご飯を済ませたようだ。
「あら、買ってきたの? 一応、晩御飯用意しておいたのに」
私は冷蔵庫を指さした。
「用意してないかと思って」
なんか腹立つな。それじゃあ私がいつも何も用意せずに出かけているみたいじゃないか。私はいつも用意してるし! どんなに忙しくてもね。
「子供たちは、迎えに行かなくてもいいのか?」
旦那は時計を見上げていた。時刻は11時を指していた。
「子供たちを泊めてもいいってママが言ってくれたから、大丈夫よ」
「そうか」
それだけ言うと、またテレビに向き直った。気になるのは子供のことだけかよ。急に飲みに行くことになったんだよ? もっと気にしろよ。
「・・・・誰と飲みに行ったとか訊かないの?」
痺れを切らし、私から振ってみた。しかし、旦那は退屈そうにテレビを眺めたままだ。
「友達だろ?」
「まあ、そうだけど」
確かに友達とも飲んだ。ただ半数が初めて会った男だっただけで。
「なら、いいじゃん」
余裕な旦那の顔。すっかり私のことを信じきっている。今日は合コンに行ってきたというのに。
それとも私に興味がないのか・・・?
自分の胸の中に黒いものが塒を巻いてくるのが分かる。
何なのよ、もう! イライラさせるなあ。悩みの張本人のくせに自分は『清廉潔白です』みたいな面して。私はただ『美味しい』って言って欲しいだけなのに。なんでこんな疾しい気持ちを持たなくちゃダメなの!?
「! なんで泣いてるの?」
旦那は掛けていたソファから立ち上がる。どうやら私は泣いているらしい。止めようと思っても勝手に溢れている。それを優しく拭ってくれる旦那。優しいのに、その仕草が傷口に塩を塗っているように思えて痛かった。
―――――私にこの人は勿体無い。
今日、合コンに行ってみて改めて想った。確かに皆いい人たちで、とても楽しかった。けど下心が丸見えというか、その場さえよければそれで良しという人種であるのが所々見え隠れした。だからこそ望んでいる言葉をくれる。舞い上がっている中では、とても嬉しい言葉を、だ。けどそこには血が通っていなくて、自分の心には何も響かない。冷静に返った後、何も残らないのだ。
それに比べて、旦那は望んでいる言葉は何も言ってくれないし、寧ろ無口だ。けど、あったかい。彼の一挙一動があたたかくて、私のことを大切に想ってくれているのが伝わる。けど不安になるのだ。この大切がどういう意味を持っているのか。つまり、本当に私のことが好きなのかどうかや、今も愛しているのかどうか、この優しさが義務感からの優しさなのかどうかなのかが、気になって仕様が無く、ぐるぐる渦巻く。今まで一言も『美味しい』と言ってくれないのは、心の奥底では私自身に興味がないからなのではないのかと。そう思ってしまっている自分がいた。
持論だが、料理とはその人の人格を表していると思う。どんなに基本に忠実に作ったとしても、自分の好みが表れてくる。甘目が好きだと砂糖を多めに。固め好きな人は早めに火を消す。だからこそ、自分の好きな人には自分の作った料理を認めてもらいたいのだ。『美味しい』の一言には、料理を作ってくれた人自身を受け入れているという想いが詰まっている魔法の言葉だと思うから。「愛している」なんて臭い言葉よりも、よっぽど意味がある。
けれどこの人はその簡単な魔法の言葉さえも言ってくれない。ただ一言「美味しい」とさえ言ってくれれば。それだけで私は安心するのに。
もう、疲れたな。
「あなたが分からない」
涙をぬぐってくれている旦那の手が止まった。こんな不安な気持ちのままでこのまま夫婦生活を続けるのは無理だ。私が壊れそう。
「なんで?」
旦那は冷静に話を続けようとしている。その態度が今の私にとっては不安でたまらなかった。こんな話を冷静に続けられる旦那の神経が分からない。
「最近気づいたんだけど、なんで私の料理は『美味しい』って言ってくれないの?」
旦那は黙ったままだった。そんなに答えに迷うような質問?
「もし私の料理が不味いのならせめてそう言ってよ!」
なんで答えてくれないのよ! こんな簡単な質問に!!
「私、あなたのこと何も分からない。もう私のことをどう思っているのかも」
「! 大切に決まってるじゃないか!」
強い口調で旦那は答えた。けど、それは分かっているのだ。だから大事なのはそこじゃない。
「それはあの子たちの母として、かしら」
私が知りたいのはもっと具体的なことだ。私という人間をどう認識して大切に思っているかを知りたいのだ。
「あなたが私の料理を『美味しい』ってなぜ言わないのか、ずっと考えていた。ずっと。それについて自分なりに答えを出してみようと。そしたらね、私を一人の人間として興味を持っていないんじゃないのか、と――――」
「違う!!」
旦那は強い口調で私の言葉を遮った。旦那が人の言葉を遮るのは珍しいし、大声を出すのも稀だ。しかし遮った後も、何かを悩んでいるように黙り続けた。
「座ろう」
やっと口に出した言葉はそれだった。私は旦那に言われるまま、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「ごめん!」
旦那は急に頭を下げた。再び顔を上げた時、迷いが吹っ切れた顔をしていた。
「君がそんなにも不安に感じてたとは・・・思ってもみなかった。本当に、ごめん!」
「・・・何か理由があるの?」
旦那はどう答えようか、迷っている様だった。それでも旦那は言葉を静かに紡ぎ出した。
「俺の家は、君も知っての通り、母子家庭だ。父親とは俺が10歳の頃に別れた。それまでの母さんはどこかおどおどとした人だった。父親に常に怯えているような、そんな感じだ。今だったらDVってことだったんだと思う。暴力とかじゃないんだけど、言葉の方の。ちょっとしたことで母さんを咎めては『常識のない人間だな、恥を知れ』があの男の口癖だった。つまり、料理もそうで。別に特別不味いとかじゃなくてもあの男の好みに少しでも合わないと母さんは一方的に人格を否定されていた。けど好みに合う時はあの男は『うん。美味いな』と言ってご機嫌だった。だからこそ、母さんは取り憑かれたように料理に時間を割いていた。あの男からの『美味しい』の一言を貰うために。正直怖かったよ。『美味しい料理を作り続けなければならない』という、必至な形相が」
あのお義母さんがそんな風になっていた時期があったとは驚きだった。旦那のお義母さんは元気溌剌というか、いつも笑顔の絶えない近所のお節介なおばさんという感じだったから。
「けどあの男と別れると、母は明るく堂々とした人間になった。それでもあの頃の癖はなかなか抜けないみたいで。今では楽しそうに料理はするけど、料理を振る舞った後、絶対感想を訊くんだ。ほら、前俺の実家に行った時もあっただろ?」
私は頷いた。旦那の実家でお母さんの手料理を振る舞って貰うことが度々あるのだが、その度に「美味しい? 美味しい?」とすごい勢いで迫ってくるのだ。そして「美味しいです」と答える度にどこかほっと安心したような顔を浮かべていた。これだけ見た目も味も良いのに何が不安なんだろうって不思議に思ったため、その後で旦那に訊いてみたっけ。その時は笑って誤魔化されたけど。けど、まさかそんなことがあの言葉の裏に隠されていたとは思わなかった。
「――――だからかな。君の料理を『美味しい』って言わなかったのは。『美味しい』の一言で君を縛ってしまうような気がして。『美味しい』って一言でも言ってしまったら、あの男と同じことをしてしまうと思った。その言葉を生きがいにした人生を君に送って欲しくなかったんだよ。けど、結果的には俺はあの男と同じだったんだな」
旦那は辛そうに顔を手で覆った。
「「ごめん」」
二人の声が被った。旦那はきょとんとした顔をした。
「あなたにとって『美味しい』って言葉がそんな気楽なもんじゃないって分かったから。知らないとはいえ、そんな苦痛の言葉を言わせようとして、ほんと、ごめんなさい」
「いや、君の気持ちを十分に考えてあげれなかった俺の方こそ―――」
私は首を振った。
「父親の話なんかしたくなかったでしょ? 当たり前だよね。私もそんな辛い目に遭ってたら話そうなんて思わないよ。過ぎたことだしね。お義母さんの傷にも触れるような話をさせてしまったことは謝らせて」
旦那はジッと私の瞳を見つめたままだった。私はそれを肯定と捉えて頭を下げた。
「ごめんなさい」
ゆっくりと頭をあげると、「でも―――」と話しを続けた。
「私は、ほんっとうに傷ついたんだからね!? 私のだけ『美味しい』って言わないもんだから」
旦那は罰の悪そうな顔をした。
「その、ごめん」
「そんな事情だったんなら、許してあげないこともないけど」
「・・・何をすれば?」
私は考えた。考えに考えた。そして一石二鳥のアイディアが閃いた。ニヤッと不敵な笑顔を浮かべた私を不気味に思ったのか、旦那の顔が若干引き攣った。
「一日一回料理の感想を言うこと」
旦那は目をぱちくりさせた。
「『不味い』でも『辛い』でも『甘い』でも『柔らかい』でも『いい感じ』でも、単語でいいから何か必ず言うのよ!」
「えーと、俺の話ちゃんと聞いてた?」
なぜその答えにたどり着いたんだと言わんばかりだ。
「いい? 私は美味しいものを作らされているんじゃなくて作りたいの! だから全然『美味しい』以外の感想でいいの! そうすればもっといいものを作ろうって自分のモチベーションが上がって俄然やる気になるんだから!」
それに旦那のトラウマが一瞬でも忘れるくらい、思わず『美味しい』って零しちゃうくらいの料理を作れたら、一番いいじゃん。
旦那はしばらくアホの子みたいな顔をしていたが、クスクスと笑いだした。どうやら意図が伝わったようだ。
「わかったよ」
そうこなくっちゃ!
「ふっふっふ。もっと腕をあげちゃうんだから覚悟しなさいよ!」
私が旦那から『美味しい』の言葉を聞くにはまだまだかかりそうだ。
美味しいとは言ってくれない旦那様へ 久遠海音 @kuon-kaito
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